第十九章 山形さん、落ちる
朝の光が出るビルの煉瓦をほんのり照らし始めるころ。
三階の廊下に、小さな震えが走った。
――ガタン。
「……また?」
あやのは、コップを洗いながら耳を澄ませた。
音の主は、エレベーターのシャフト。
何もないはずの機械が、わずかに“誰か”の重みで揺れたように軋んだ音。
「……山形さん。やってるな……」
彼女はため息をつくと、ハンドタオルで手を拭き、静かに階段を降りた。
* * *
その日の朝、司郎は珍しく「外出」予定だった。
新しいコンペのプレゼンに出かける直前、ネクタイを片手に悪態をついていた。
「アタシがこんな格好するなんて地獄の凍る日よ! ネクタイ苦しいし、足も痛いし、ああもう!」
「歩きやすい靴にしてくださいって言ったのに……」
「だって……あの茶色のスニーカー、スーツに合わないのよ!」
「見た目より転ばない方が大事です」
「んぐぐ……」
もはや小学生のように文句を言いながら、司郎は一階へ降りていく。
あやのはその後ろで、軽くお辞儀しながら付き添う。エレベーターは使わない主義だ。
だがこの日――
「……あら?」
エレベーターの前に立つと、扉が勝手に開いた。
中から、ひんやりとした空気が吹き出す。
「使えってこと?」
司郎は左足を引きずるように中へ乗り込んだ。
一瞬、あやのが止めようとしたが、言いかけてやめた。
エレベーターは司郎、あやの、梶原しか反応しない「特殊仕様」になっている。
ただし、**問題は“居住者”**のほうにあった。
扉が閉まる寸前――
中の非常灯が、ピカッと青白く点滅した。
「……あ」
あやのは気づいた。
今の光、ただの誤作動ではない。
山形さんだ。
* * *
山形さん。
このビルの元・会社員の地縛霊。かつてこのエレベーターで命を絶った。
彼は現在、「乗る人を驚かせること」を生きがい(?)にしていた。
時に耳元で咳払い。
時に背後で「行ってらっしゃい」と囁く。
時に「お先に失礼します」と床に落ちて消える。
だが――司郎にそれは通じない。
エレベーターの中。
「……さむっ! なに? 冷房壊れてるの!?」
司郎は怒鳴るように手すりを掴み、顔をしかめる。
山形さんは、影のように彼の背後に立っていた。
顔を半分だけ傾けて。
舌を突き出して。
バチンと首をかしげながら。
「……アタシ、あんたのそういうの、全然怖くないから」
その瞬間だった。
バチン。
蛍光灯がショートし、エレベーターがガクンと止まった。
「ちょっと!? 停まったわよ! ふざけんな山形ァ!!」
山形さんの姿がふっと消えた。
次の瞬間――天井の点検口から「ずり落ちる」ように彼がまた顔を出した。
「ぎゃあああああッ!? やめなさいってばアンタ!」
その叫びと同時に、エレベーターは自動的に再起動。
ブレーカーが戻り、非常灯が消えた。
地下一階に到着。扉が開く。
あやのが駆け下りてくると、そこには項垂れた司郎の姿があった。
「……ほんとに……このビル……心臓に悪いわ」
「山形さん、いつもの癖が出ましたね。注意しておきます」
「って、アイツ注意して効くタイプなの!? 霊って!」
「効きますよ。一応、話せばわかる霊です。たまに首がもげますけど」
「怖いのはそこよ!」
* * *
その日の午後、エレベーターの扉には
あやのの手書きでこう書かれた張り紙が貼られた。
「山形さんへ 他人に驚きを与えるのは1日1回まで。
もし守れない場合は、天井点検口を封印します。
― 真木あやの」
それから数日間、山形さんは大人しくなった。
が、エレベーターを降りたあとに「小さく拍手の音が聞こえる」という現象は……しばらく続いたという。




