第二十章 梶原、資格を取る
出るビルの一階、まだ陽の届かない早朝。
黒々とした静けさの中に、パソコンの起動音が響いた。
「……電源、入った」
梶原國護は、ほっと胸をなで下ろす。
機械が苦手な彼にとって、これだけでもちょっとした勝利だった。
卓上のLEDライトの下には、参考書が三冊。
「建築施工管理技士」「第二種電気工事士」「土木技術基礎」。
ページの端は折れ、蛍光ペンが何本も並ぶ。
彼は無言のまま椅子に座り、太い指でページをめくった。
ノートには、几帳面な文字でびっしりと「計算」と「記述」が書かれていた。
彼が資格を取り始めたのは、仙台から東京へ出てきたばかりの頃。
あやのに追いつきたかった――ただ、それだけだった。
あやのはなんでも出来た。
料理も、裁縫も、設計図の整理も、音楽も。
梶原から見れば、空を飛ぶ鳥のような存在だった。
だけど、彼は地を歩くしかない。
言葉は少なく、気持ちを表現するのも下手で、不器用だった。
それでも、彼なりに考えた。
「……資格、あれば、あやのの力になれる」
あやのが「何かをやりたい」と言ったとき、それを実現するには「許可」が要る。
工事するには届け出が必要で、現場には監督が必要で、配線ひとつ引くにもルールがある。
なら――自分が全部持てばいい。
あやのは最初、気づかなかった。
梶原が朝の三時に起きて勉強していることも、
昼休みに参考書を開いて黙々とノートをとっていることも。
でもある日、ふとしたことで見てしまった。
「……これ、全部? 梶くんの?」
リビングに積み上がった参考書の山。
施工管理、電気、衛生、造園、CAD、消防法、建築士試験の過去問――
その異様な量に、あやのは一瞬、目を見開いた。
梶原は「うん」とだけ答えた。
あやのはその山の一番上に置かれていたメモをそっと拾った。
「2025年中:施工二級合格、電気取得、次:衛生管理」
「2026年中:建築士一次→二次突破」
「……すごい、ね」
あやのの声には、尊敬と少しの戸惑いが混ざっていた。
「……全部……あやのの、となりに……いたいから」
それだけを言って、梶原はそっと背中を向けた。
不器用に、だけど確かな手で参考書を開いた。
あやのは何も言わなかった。
ただ、小さく深呼吸して、一度だけ頭を下げた。
「……ありがとう、梶くん」
その声は、彼の背中にちゃんと届いていた。
夜――
出るビルの屋上。
東京の空は高く、音が遠い。
梶原はひとりで空を見上げていた。
手には、小さな資格証。
「第二種電気工事士 合格通知」。
何枚目になるかもう分からない。
けれど、どの一枚も――あやののために、と思って取ったものだった。
ビルの屋上で風が鳴る。
遠くで、誰かのピアノの練習が聞こえた。
それを聴きながら、彼は静かに次の参考書を開いた。
「……次は……消防法……」
呟いた声は低く、だが揺るがなかった。




