第一章 霧の港町にて
夜の港には、魚の血と塩の匂いがまだ残っていた。冷たい潮風が防波堤の上を舐めるように渡り、そこに座る一人の子供の髪を静かに揺らしている。
その髪は真珠のような色をしていた。白でも銀でもなく、あたたかく淡い光を秘めた色合い。少年の姿をしているが、どこか人ならぬ雰囲気を漂わせている。年齢にして十歳ほどの外見。だが、その瞳の奥にある光は、百年を見てきた者のそれだった。
藍の中に金を散らしたその瞳は、遠くの海をじっと見つめている。夜の帳が下りているというのに、港の向こうに浮かぶ白い灯台の明かりが、淡く、彼の瞳に映っている。その灯りをじっと、何かを待つように、あるいは別れを惜しむように見つめていた。
風の音に混じって、どこか遠くで船の汽笛が鳴った。少年の肩が、微かに震えた。
「ここまでだ」
誰の声でもない。誰にも聞こえない、彼の中の感覚がそう告げていた。
それまで彼を育ててくれたものたちは、もういない。山の奥、古の神の許に託された命。赤子のころ、あやうく流されかけた命を抱き上げたのは、老いた妖怪のぬらりひょんだった。人の時間とは違う流れを生きる者たちの中で、彼は名を持たず、性も持たず、ただ「ちいさきもの」と呼ばれていた。
その暮らしは優しかった。風と共に歌い、獣と共に眠り、月に願いをかける夜もあった。けれど、人の世が近づくたび、胸の奥に重たいものが降り積もっていった。
――あれはなんだったのか。
見たこともない街の地図。山を下りた先に広がる世界。物語の中でしか知らない「学校」や「電車」や「図書館」。人の営み。
あるとき彼は、古い絵本の裏に書かれていた住所を写し取った。函館市。港町。そこに向かうと決めたとき、ぬらりひょんは何も言わず、ただ一言、
「あるがままにあれ」
とだけ、呟いた。
その言葉だけが彼の背中を押した。
今、函館の港に立つ彼は、まだ本当の名前を知らない。けれど必要なのは名札ではない。彼の足は、小さな決意を乗せて、確かに動き出していた。
星が見えない夜だった。霧がうっすらと水際に広がり、まるで夢の中のように町が滲んで見える。
初めて訪れる町。けれど、懐かしい音がした。電線の鳴る音。車のタイヤが濡れた道を走る音。人間たちの暮らしの音。それは騒がしく、あたたかく、遠くにあったはずのものだった。
彼はふと、手の中にある小さな紙片を見る。
「函館市中央図書館」
震える手でその文字をなぞる。そこが、最初の目的地だ。
まるで古いレコードの針が落ちたかのように、物語の幕が静かに開いてゆく。
少年――いや、「真木あやの」と、彼は自ら名乗ることになる存在は、歩き出す。誰の目にも留まらぬよう、音もなく、霧に紛れるようにして。
だが、この瞬間を、星のどこかで見ていた者がきっといる。
それは風かもしれないし、海かもしれない。
あるいは、眠らぬ神か、どこかの死神か。
人の世に、ひとつの光が差し込んだ。




