第二章 静けさの書架にて
図書館は、朝の光の中で静かに佇んでいた。
石造りの古い建物だった。外壁には時の流れが刻まれている。角には雨風に削られた獅子の彫像が据えられ、扉のガラスには青銅色の取っ手。開館の一時間前だというのに、すでに入口には数人の姿があった。
彼――あやの、といずれ名乗るその子供は、彼らから少し離れた木陰に立っていた。
手には、昨日の夜拾った観光用パンフレットがある。そこに書かれていたこの図書館の情報と、迷わずにたどり着いた自分の足跡。それだけが今の彼の全てだった。
何をするためにここに来たのか、自分でもはっきりとはわからない。ただ、この建物が持つ「知恵の匂い」が、彼を引き寄せた。
その匂いは、山にいたころ読んだ本と同じだった。頁の重なり、インクのかすかな香り、紙をめくるたびに響く音。
それは、風の声と似ていた。
火の音とも似ていた。
けれど、もっと深く、静かだった。
やがて開館の時間が来た。重たい扉が内側から押し開かれ、さほど大きくない人々の流れが生まれる。
彼もまた、何も言わずその中に混ざった。
受付の大理石カウンターは、磨き込まれて冷たい艶を放っていた。職員の女性が、静かな笑みとともに「おはようございます」と声をかけていたが、彼は会釈だけを返して、奥へと進んでいった。
迷わず、階段をのぼる。
足音を吸い込むカーペットの廊下を抜け、誰もいない閲覧室に入る。
その瞬間、彼の中に、確かな感覚が満ちた。
ここにいてもいい。
ここなら、名前を持ってもいい。
その感覚は言葉ではなかった。風が葉をそっとめくるように、思いが一枚の紙に落ちた。
室内には古い木の机と、読みかけの本が置かれている。陽光が斜めに差し込み、本の背表紙に薄い光の線を引いていた。
彼はその中の一冊を手に取った。
表紙の裏に、白いラベルが貼られている。「貸出カード」だ。
名前を書く欄がある。
鉛筆が近くにあった。
彼はすっとその先を取り、何の躊躇もなく書いた。
真木 あやの
それは、たったいま浮かんだ名だった。けれど、どこか遠い昔から知っていた気もした。まるでその名が、彼を待っていたかのように。
書き終えると、彼はその文字をじっと見つめた。
知らない誰かが読んだとき、この名を、人間の名として受け取るだろうか?
あるいは、この名前の下に、何者かが棲むと感じるだろうか?
……それでもよかった。
彼は、真木あやのになった。
世界は何も変わらなかったが、自分の中に、小さな軸が立った。
名前を持つということは、世界と契約するということだ。
窓の外、白い霧が晴れ始め、函館の町がゆっくりと姿を現していた。




