第27話『別離』-2
メレイを先頭に馬を進め、シャルロット達は大通りから外れた路地に入った。路地にも多くの店があるが、さびれた大通りよりも一層人通りが少ない。もっとも、路地に並ぶ店の雰囲気から、昼間は元々閉まっているのだろうと判断できた。
(……ガキ連れて歩くとこじゃねぇし)
かすかに漂う香と、歩く女性を見てワットがニースを振り返った。化粧の濃い、肩まで着物を垂らしたような格好をした女性が、生気の無い顔で歩いている。ワットと目が合っても、ニースは何も言わなかった。
(ここって……娼館区……?)
シャルロットも、アイリーンとパスの前では、口には出せなかった。今まで通った町にもこういう店はあっただろうが、足を踏み入れるのは初めてだ。ちらりとメレイを見上げても、メレイは至っていつも通りだった。
「ここよ、この店」
しばらく進んだところで、メレイが馬を止めた。店の正面に『葵の館』と、大きく書かれている。木造りで小さな敷地だが、五階建ての細長い高い建物だ。周囲の店と比べても、比較的その高さは目立つ。
店の脇に馬をつなぐと、メレイが正面入り口ではなく、店と隣店の間の路地から裏口へと入った。
「いいの? 勝手に……」
「平気よ、まだ開店前だから」
確かに、店内は薄暗く人の気配はない。木造の椅子やテーブルが並べられ、奥にはバーカウンターがある。どうやら食堂のようだ。「こっちよ」メレイは布の暖簾をくぐり、細い階段を登っていった。階段に足を乗せると、床の軋む音がした。
「……すげぇにおい」
上階に進むごとに強くなる香の匂いに、パスが鼻をつまんだ。
背後からの声を無視して、メレイは黙って階段を登り、やがて一番上階までのぼりきると、目の前にある部屋の前に立った。この五階には、その一室しかないらしい。部屋にはドアが無く、かわりに茶色いビーズの暖簾がかかっている。メレイが、暖簾の横の壁を軽くノックした。
「トーン?」
部屋から女性の返事があった。暖簾の先の部屋には香による煙がたちこめ、店内というよりは、誰か個人の部屋のようだ。一番奥に、女性が入り口向きに机にかじりつき、何かをにひたすら書いていた。
本が詰め込まれた棚が壁一面にずらりと並び、床にも書物が散乱している。女性の机すら、作業する場所がやっと空いている程度に本が積みあがっている。
「ついでに野菜も買って来てよ、今晩もたない」
黒の長い髪を一つに束ねた、古びた着物の女性が顔も上げずに言った。
「トーンじゃないわよ、ケイ」
暖簾をくぐり、メレイが言った。その声は、いつもと違う、どこか優しい声だった。
予想と違う声の主だったのか、女性が怪訝そうに顔を上げる。いつの間にか部屋の入り口に並ぶシャルロット達を一瞥し、一瞬眉をひそめるも、その視線はすぐに一人に絞られた。
「……ウソだろ」
女性の目が、見る見る開かれていくのがわかった。
「メ……レイ……、メレイなの?!」
椅子を倒す勢いで、女性が立ち上がった。三十代後半だろうか、一瞬、ものすごい美人に見えたが、女性が近づいてくると、それは違うとわかった。目鼻立ちのはっきりした顔は、化粧で描かれているものだ。腰まで伸びた黒髪をかんざしで一つにまとめ、多少よれが目立つ深い赤の羽織ものを、黒い帯で留めている。女性が勢いよくメレイの両肩を取った。
「信じらんない……!」
言葉になっていない喜びの顔に、メレイは「久しぶりね」と微笑んだ。
「久しぶりも何も! 何年ぶりよ! 今まで何の連絡もなしに……」
途中で、女性の言葉が途切れた。初対面であるシャルロット達を、その黒い目がさっと見回した。「連れかい?」その目がメレイに戻ると、メレイはシャルロット達を振り返った。
「ええ、実は宿探してるの。一晩、朱の塔の一部屋を貸してくれない?」
「一晩って……それしかいない気?」
「すぐ立つ予定なの。それより突然来てなんだけど、約束してた事だけど……」
メレイの言葉に、一瞬女性の顔がこわばったのを、シャルロットは見逃さなかった。だが、同じ視界で、アイリーンがエディに寄りかかったのも見えた。メレイも、それに気がついたようだ。
「アイリーンも疲れたでしょ。ケイ、皆を先に部屋に案内するわ。話は後にしましょ」
「え? ……ええ」
女性の表情は、まだ曇り気味だった。「朱の塔なら、四階の一番奥が空いてるから好きに使っていいよ」そう言って、女性はきびすを返して机の上の書物を片付け始めた。
ふいに、一番後ろの階段付近にいたワットが、階下からの足音に気がついた。ワットが振り返るのと、下の階から女性が顔を出すのは同時だっただろう。
明るい茶色の柔らかそうな髪を背中で揺らし、うつむいたままずかずかと階段を上ってくる。体の曲線を映し出したロングドレスに、大きく開いた胸元がいやに目立っている。
「ケイー、やっぱあの薬局のオヤジ、ウチの店の客にしかふっかけてないよ。もうあそこで買うのはやめ……」
言いかけで、目の前のワットとその一団に気がついて言葉が止まったようだ。化粧っ気の無いその顔は、目の下の隈を一層目立たせていた。「……うわ、何あんた達」メレイと年齢も変わらないだろうか、ワットを通り越し、ケイと呼んだ女性を首を伸ばして探しながら、眉をひそめながら部屋にいってきた。しかし、その怪訝そうな目はメレイで止まった。
その目が、見るからに大きく見開いた。
「……イ……ズ? イズじゃないの! ウソ!」
シャルロットはメレイを振り返った。「久しぶりね、トーン」メレイは女性に、微笑み返しただけだった。しかし、女性の顔はみるみる赤くなった。両手でメレイに飛びつくと、その勢いに、パスとアイリーンがさっと身を引いた。
「バカ! 今までどこにいたのよ……!」
喜んでいるのか、責めているのか。「何にも言わないで出てっちゃって! あんた……」わずかに、声が震えているように聞こえた。
「ごめんね」
メレイの低く優しい声に、トーンの顔が一瞬歪む。トーンは、そのままメレイから離れて背を向けた。
「でも、立ち寄っただけなの。明日出発する予定よ。今晩は朱の塔に泊まらせてもらうから」
「メレイ、あいつの噂をまた客から聞いたわ。最近良く聞くの」
ケイの言葉に、トーンとメレイが振り返った。しかし、トーンが見ているのはメレイの方だ。
「イズ、あんたまさかまだ……」
「まさかって何」
メレイの言葉に、トーンが一瞬唇を噛んで顔をそらす。しかし、次に顔を向けた時には、その顔には笑顔があった。
「なんでもない。それより、今夜は懐かしい話ができそうね」
「そうね。じゃ、荷物を置きに行きましょ」
メレイの言葉に、シャルロット達は順番に階段を降りた。狭い廊下では、大人数のすれ違いはほとんどできない。
「朱の塔はここの裏の建物よ」
一番後ろで、メレイが言った。
「メレイ、……イズって?」
階段を降りながら、シャルロットはメレイを振り返った。――その名には、聞き覚えがある。「確か前に……」いつだったか、メレイが一度だけその名を名乗った事を、シャルロットは覚えていた。
「ここでの私の名前よ。もう昔の名前」
「どっちがホントの名前なんだ?」
さらに前方のパスが振り返る。会話は、当然階段を降りている全員の耳に入っていた。「さあ」メレイの口調は、いつもと変わりなかった。
「どうでしょうね。ケイ以外は、皆この名前で呼んでいたわ」
この店がどういう店なのかは予測がつく。シャルロットは、それ以上メレイに何も尋ねられなかった。
朱の塔と呼ばれる建物は、葵の館よりは幾分新しい造りの建物だった。階段を登り、最上階でもある四階の一番奥の部屋にメレイが進むと、シャルロット達もそれに続いた。狭い部屋だがベッドは数個あり、場所さえあれば何人でも泊まれるような布団がいくつも積み上げられていた。
「ここ、宿屋なのか?」
アイリーンがメレイを見上げた。
「従業員用の部屋よ。今は昔よりも、空きが多いみたいね」
そう答え、メレイが荷を床に置く。「私ケイ達と話があるから、適当に休んでて」誰の返事も待たずに、メレイは部屋を出て行った。
「泊まれるなんてラッキーだったな」
パスがベッドの上に勢い良く飛び乗り、寝っ転がる。
「……にしてもくっせぇな」
ワットが部屋の窓を開けた。確かに、香の匂いで頭がくらくらする。窓の外はいつの間にか暗くなっており、空は暗雲が立ち込めていた。「……さっきまで晴れてたのに」エディが呟いた。
「ふぁー、……あたし寝よ」
大あくびと共に、アイリーンがベッドの上に倒れこむ。「アイリーン、着替えなきゃだめよ」シャルロットがアイリーンの背をを無理矢理起こしているのを見ながら、エディの視界にそこに立ったままのニースが目に付いた。
「ニースさん?」
「……え?」
エディの声で、ニースは我に返ったようだ。「大丈夫ですか?」ニースがぼうっとするのは珍しい。
「いや、……何でもないよ」
エディを通り越してニースがベッドに腰掛ける。しかし、心はそこに無いように見えた。
シャルロットが目を覚ましたのは、夜も更けた時間だった。シトシトと雨が窓に当たる音と、わずかな肌寒さで目が覚めたようだ。アイリーンと一緒に横になっているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。しかし、隣にアイリーンの姿は無い。静まり返った部屋に、明かりだけが灯ってた。
「……あれ」
体を起こすと、部屋の隅にメレイの後姿が見えた。荷をあさっているようだ。起き上がったシャルロットに、「あら、起こしちゃった?」と、メレイが振り返った。
「皆は……?」
部屋にいるのは、自分とメレイだけだ。
「ケイが夕飯を用意してくれたの。皆下に行ってるわ。あんたは気持ち良さそうに寝てたから」
メレイが笑うと、シャルロットは頬をかいた。そんなに疲れている気もなかったが、体が休養を求めていたのだろうか。「私も行くわ」シャルロットはベッドから足をおろした。
「じゃ、支度をしたら降りてきて。食堂は二階よ」
メレイは荷から何かを取り出すと、先に部屋から出て行った。――メレイのケイとの話は、もう終わったのだろうか。
そんな事を考えていると、再び部屋のドアが開いた。
「メレイ、ケイさん達って……」
振り返った途端、思わず言葉が止まった。メレイかと思った相手は、ワットだった。しかし、驚いたのはワットも同じだったかもしれない。一瞬、反応が遅れていた。
「……起きたのか」
シャルロットは思わず目を逸らした。ワットとは、グリンストンを出てから未だまともに顔を合わせていなかった。
部屋に用があったのか、シャルロットが起きていた事で流れる気まずい雰囲気に、ワットが息をついた。
「……まだあいつの言った事気にしてんのか」
ワットがシャルロットの隣のベッドに腰掛けたが、シャルロットは顔を向けられなかった。――気にするに決まっている。
一瞬迷ったが、意を決してシャルロットは顔を上げた。
「何で……何も言わなかったの? あんなふうに言われて……嘘なんでしょ……?」
シャルロットの祈るような目を、ワットはただその目で見つめ返した。
「全部が嘘じゃない。……だから、否定はできない」
強くはないが、はっきりした声で。ワットの言葉に、シャルロットは強く布団を握った。
「……どうして……?!」
「お前がどう聞いたか知らねぇけど……ただ、全部が本当じゃない。それだけは信じてほしい」
「な、何を信じろっていうのよ……!」
シャルロットは喉の奥から声を絞り出した。頭が混乱し、舌がうまく回らない。
「ワットが何も言ってくれなきゃわかんないし……何を信じていいのかだってわかんない! だって……」
「分かった」
突然腕をとられ、シャルロットの言葉は止まった。ワットがベッドに腰掛けたまま、シャルロットを引き寄せたのだ。その胸に抱かれると、シャルロットは頭が真っ白になった。
「確かに、俺はスーディベルと付き合ってたよ」
息をつくように、ワットが言った。
「……付き合ってたっつっても、俺はその日暮らしの薄汚れたガキで……」
抱きしめられると、ワットの顔はまったく見えない。
「そんなのが、地主の一人娘と釣り合うワケねえだろ? だから結局、俺はあいつと別れる事になった」
「……どうして……だったの? ホントに……」
「町の連中がどう言ってるかは知ってる。でもそれは、スーディーと別れた後だ。あいつと別れて……俺は何もかもどうでもよくなって……。あの時の事は、自分でもよく覚えてねえんだ。……酒を飲んで……手に当たる女と誰でもいいから寝て……」
ワットの低い声に、シャルロットは体の中の血が落ちていくのがわかった。それと同時に顔が熱くなった。
「わ……私……!」
自分が、酷く恥ずかくなった。――何を取り乱していたのだろう。ワットの気持ちを考えず、辛い過去を無理やり話させて。
「だからあの町では、嫌われて当然なんだよ。町を出たのだって、いられなくなったからなんだ」
「……ご、ごめ……」
体を支配し始める罪悪感と自分に対する嫌悪感で、シャルロットは指先が震えた。
(私最低だ……!)
自分の気持ちが先に立ち、ワットの気持ちを考えていなかった。グリンストンに入ったときから、ワットの様子はおかしかったではないか。
顔を上げると、ワットが微笑んだ。しかしその笑みは、自分に向けられているものとは思えなかった。まるで、昔の自分を笑っているような――。
「ワッ――」
言いかけで、シャルロットの言葉は止まった。ワットの唇が、額に触れたからだ。
「何か俺、泣かせてばっかだな」
ポンポン、とシャルロットの頭に手を乗せてから、ワットは部屋の出口に足を向けた。「降りるぞ、皆が待ってる」ワットが振り向きざまにそう言ったが、シャルロットは額を押さえたまま言葉が出なかった。
ワットが先に部屋を出て行っても、今までの自分勝手だった恥ずかしさ、そして、たった今の出来事への驚きで、ベッドに座ったまま、顔が熱くなるだけだった。