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20. 水面の月に似た何か

「彼」は足跡型のため池で見知らぬ少年と出会います

空は白い雲に覆われ、同じ色の霧が立ち込めている。白い巨大な生き物の体内でその内奥を目指すように歩くうち、いつしか霧を潜り抜け彼は足跡型の池のほとりに立っていた。水面は霧の向こうにぼんやりと見えるばかり、空も水も草木もすべて霧と同じ色に染まり境目が判別できない。あたりには虫の声が響きわたっている。動くものは何ひとつない。

彼は池の縁に立って水面を眺めた。そう遠くない水の上に何か白く丸いものが浮かんでいる。彼は最初、水面に月が映っているのかと思った。でもそんなはずはない。上空は霧と雲に覆われているのだし、何より今は夜ではない。

月ではない月によく似た何か。その澄み渡った色と光は、白い霧の中でもさらに白く際立っていた。どこか懐かしい感じのするその光を見つめるうち、彼は「祈り」のときと似た精神状態になった。今自分は地下室にいるのだと彼は思った。地下室にいてモエムを見つめている。そのときの感覚がよみがえる。ほんの数週間しか経っていないのに遠い昔のように感じられる。彼はその感覚の中にとどまり、離れようとしなかった。水面の白い月が割れて中からつややかなゼリーのようなピンク色の球体が覗いた。それは新しく生まれ変わったピンク色の月だった。そのとき彼が思い描いたのはそのような光景だった。

鋭く高い音が響き、彼の意識は現実に引き戻された。霧がさっきより少し薄くなっている。水面の白い円は消えていた。もう一度同じ音がごく近くから響いた。何かの鳴き声のようにも、あるいは金管楽器の高音のようにも聞こえる。彼はあたりを見渡したが動くものの姿はやはりない。

彼は夕方まで待ったが、月に似た何かが再び水面に現れることはなかった。


⚪⚪⚪


夏が終わる頃には人々はドロドロ事件のことをほとんど忘れ去っていた。ドロドロ化したものはすべて撤去され、町は騒動以前の状態に戻っている。

彼は昔のようにまた一人で恐竜の足跡の形の池を訪れるようになっていた。そして凪いだ水面に生じる波紋や浮かぶ木の葉や花びらを眺めながら時間を過ごした。

9月の終わりのある日、彼は足跡型の池のほとりで見知らぬ人の姿を見出した。彼が池にたどり着いたとき、人影は離れたところの岸辺に立って、双眼鏡で池やその周辺を見渡していた。挙措から察するに若い男であるようだった。双眼鏡の人物も彼の存在に気づいたらしく、2人は距離を隔てて視線を合わせたが、どちらも特に反応は示さなかった。人影はまた池のほうに双眼鏡を向け、彼は地面にチェアを置いて座った。


それから数十分ほどが過ぎて、彼がふいに顔を上げたとき、さっきの双眼鏡の人物がすぐ近くに立っているのに気付いた。その人物は彼が考えていたよりさらに若く、ほとんど少年のようだった。高校生ぐらいに見える。

少年が彼に声をかけた。「地元の方ですか」

彼は肯定した。

少年は、自分は辺鄙な場所にある山や池が好きで、しょっちゅうこうしていろんな場所を探し回っているのだと彼に語った。

「この池は気に入りました、今日で2度目なんです。何かいそうな感じがするんですよ。モンスターみたいな変な生き物とか、妖怪みたいな魚とか、そういうのがいるんじゃないかって」と少年は言った。

彼は愛想笑いを浮かべたが、何も言わなかった。

風が吹いて木の葉がざわざわと揺れた。その風に押されるようにして視界の端のほうから何かが水面の上を滑ってきた。それは一枚の薄い板のように見えたが、ひどく奇妙な色をしていた。いろんな色がでたらめに混ざったようなまだら模様をたたえている。でもそれは板ではない。花びらや葉や枝や茎などが集まりひとかたまりになって一枚の板のように見えていただけだった。

少年も双眼鏡で同じものを見ていた。2人は一言も発することなく、葉と花びらが作るかたまりを目で追っていた。まだら模様を構成する色が日差しを受けてきらめいていた。

彼にはまたそれが板のように見えはじめた。いくつもの葉や花びら、小枝や草や虫といったものが溶けて混じり合い、くっついて固まって板状の物質を形成しているのではないか。ただ植物が寄り集まっているだけなら、風に押されるうちに端の方が少しは散らばるはずだった。でもその気配すら見えない。最初の様相を崩すことなく水面を滑っている。板状のかたまりはそのまま水の上を流れて、半島状に突き出した陸地の向こうに隠れて見えなくなった。少年は顔から双眼鏡を外した。2人ともしばらくの間沈黙したままだった。

そろそろ帰るつもりだということを彼は少年に告げた。

「僕はもうしばらくここにいます」と少年は答えた。

面白いものが見つかるといいですね、と彼は言った。

「見つかりますよ。ここには何かあります。見つけるまで何度も来るつもりです。静かでいいところだから、いるだけで何となく楽しいですしね。さようなら、また会いましょう」

彼は池を去った。それからあと、彼が足跡型のため池を訪れることはなかった。


⚪⚪⚪


彼は地下室の床に一人で座っている。この薄暗く白い部屋そのものが一つの水槽のような気がしてくる。彼はそこに閉じ込められていて、得体のしれない巨大な何者かがどこかから彼の様子を観察しているのだ。彼はその視線が顔や身体の上を通過するのを感じる。

彼はモエムのことを思った。地下より深いさらに地下のどこか、すべてが溶けあう場所に今も潜むモエム。目に見えない領域を泳ぎ、いろんなものを溶かしてまわりながら、白い表皮をさらに白く輝かせるモエム。

池で出会ったあの少年はいずれ生き物を見つけるだろう。それを持ち帰り飼育するようになるかもしれない。彼はどこかの部屋のどこかの水槽で、生き物が新たな飼い主へ向けて泳ぎを披露する情景を思い浮かべた。その光景は遠い昔に読んだ題名も思い出せない絵本の一場面に似ていた。


<了>

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