カリスマと音楽
琴の歴史は長い。
華仙の歴史が日本と類似しているのであれば、大陸から伝来したのは8世紀。日本で言えば奈良時代である。それはもう歴史の教科書に出てくる平城京遷都の頃である。
そこから平安貴族の嗜みとなり、中世には仏教との絡みもありつつ、近世に入ると町人たちの文化としても広まっていく。その中で演奏法や楽曲といったものも様々な変化と進化を続け、歌と共に奏でられるという文化も登場した。
とはいえ奏水が生まれ育った21世紀の日本では琴に触れる機会などそう多くはないし、プロの演奏を聴く機会ならもっとない。学校教育でもそこまでの範囲はカバーしきれない。
奏水が生で聴いてきた音楽はやはり大半がポップスで、多少クラシックやジャズといったものも含まれるが、伝統音楽と言われると生演奏に触れた覚えはない。もちろん時代柄動画サイトで検索すれば演奏動画なんぞ山ほど出てくるのだろうが、実際にその場で音を聴いて、演奏家の手捌きや振舞いを見つめ、会場の空気を含めて丸ごと五感で感じるというのは動画サイトでは得られない体験だ。
……結局何が言いたいのかといえば奏水も琴の生演奏を聴きたい!ということだ。
というわけである休日の午後、奏水と琥珀は揃って街に出ていた。
しかも今回は大洲宮付近の繁華街ではなく、そこから少し離れた別の街まで足を伸ばしていた。気分転換かつ軽い運動としての散歩も兼ねて一時間ほど歩き、辿り着いたのは大洲宮界隈よりも少し規模の小さな繁華街。しかし人は多く訪れていて非常ににぎわっている。
「えっと、ここが長鈴だっけ」
「そうです。大洲宮周辺では比較的大きめの街ですね。農村地帯の一角に出来た街なので農産物の売り買いが盛んで、大洲宮にもこの辺りからの作物が入ってくることが多いです」
見渡すとやはり野菜を扱うお店が並び、しかしそれだけではなく紡績の製品だとか嗜好品までずらりと揃っており気分は京都観光の奏水だった。
「ふむふむ。で、人が集まるから文化も栄えると」
「まさしくそうです。特に宿場町としての機能も持ち合わせているので」
「へー、じゃあ大洲宮に来る人が立ち寄るんだ」
「ええ。大洲宮はこの国の中心に位置するので、そこから放射状に旅路が出来るわけでして、その途中にある街は必然的に宿場となっていったのです。ここは特に大洲宮に近いので色々な方面から集まる人と帰る人が立ち寄ります」
地理の勉強かな? いや、むしろ日本史でやった東海道五十三次っぽいな。
「そして文化が栄えるということは音楽もそこに入ってきます。人が集まる場所に芸者も集いますから」
「うん、それは同意」
「でないと稼ぎようもありませんし。そして農村部にありながら文化の発展が比較的進んでいるこの街には娯楽を求めている人間がごまんといます。日々の農作業だけでは退屈極まりないですからね。そして生まれた需要に応えるべく、この州の巫女が主導して造ったのが神楽堂なのです」
その台詞が終わるのと同時に琥珀が立ち止まり、目前の建物を見上げる。
奏水もそれにつられて上を向けば漆喰の少し曲がった瓦の趣深い木造建築が鎮座していた。周囲の建物より明らかに一回り大きいその規模と外観を、奏水は昔テレビで見た歌舞伎座に近しいと感じた。
しかしその規模に反して近寄りがたさはなくて、むしろこの場を訪れる人々を歓迎して迎え入れようとする雰囲気すら感じる。玄関の幅が広く取られているせいなのか、なんとなく感じる木の温もりのような何かの影響なのか、はて。
ともかく奏水にも入りやすい環境なのはいいことだ。
琥珀はこういった場にも慣れているようで先導してくれるから奏水も安心して中に入ることができた。コンサート会場特有のドキドキ感というか高揚感というか、それに近いものをこの国でも感じられたのも地味に嬉しい収穫だった。
「琥珀はこういうところって来ることあるの?」
「今はあまりないのですが、幼い頃は両親に連れてこられましたね。社会勉強といいますか、色々な経験を積ませたいと思ったのでしょう」
「なるほど、教育熱心な親御さんって感じ」
実際に琴の稽古もしていたというし、こういった場での演奏に触れる機会も多かったのだろう。琥珀はするすると人波を抜けて客席に入り込めばあっという間に空席を見つけて座ってしまった。奏水は完全に手を引かれる子供の立場だ。
そうして確保した席は中央前方、既に舞台に置かれている何台もの琴の弦の一本一本がしっかり目視で捉えられる距離。奏水が演奏者の手捌きや楽器の鳴りを間近で感じたいと考えていたのを琥珀が完璧に読んで選んだ座席だった。
「いやー、この距離感はたまらないね。ポップスもロックもみーんな前の方の座席はファンクラブ会員が抑えちゃうから一般人はこんなに間近で手元見れないんだよね。いやいやこれは相当に結構でございますよ琥珀さん」
「ふぁんくらぶ、ってなんです? あと急に敬称が付くと不安になります」
「琥珀様のお力に感謝でございますうへへへ」
「ちょっと気持ち悪いので黙ってもらえますか」
「はい仰る通りですすいませんでした」
テンションが上がって口調がおかしくなり始めた奏水を適切にあしらいながら、琥珀は今日の演目を改めて確認する。この後舞台で始まるのは琴の演奏家たちによる集団での演奏会で、今日は六人ほどが合奏するという内容だ。そしてこの演奏会を引っ張る代表格の演奏家が―
「琴演奏の名家である琴成家の現当主・琴成眞澄さん、ですね。もちろんわたしは名前を知っていますし、何なら以前演奏を聴いたこともありますが……奏水は初めてですよね?」
「うん。そもそも琴の生演奏自体が初めてだからどんな感じなのかなって期待してる」
先日二人に喧嘩を吹っ掛けてきた琴成佳純という巫女候補の親である。
こうして遠くまでわざわざ見に来たのは彼女を取り巻いてきた音楽の世界がどのようなものかを知りたかった、という奏水の意向によるものだ。
「苗字に琴が入ってるだけありますよ。じわじわ引き込まれます。世界観や音の広がり、立ち振る舞いまで一流です。わたしたちの"しんせさいざー"でも似た音は出せますが、やはり本物はすごいです」
「琥珀がそこまで褒めるとなると俄然興味が出るね。早く聴きたいなあ」
「あと十分くらいで開演ですね。おしゃべりしながら待ちましょう」
そうしてしばしの歓談を楽しんだ後、会場中の照明が一気に落ちる― ということはなく、いたって普通に演者が登壇して演奏会が始まった。ただ、その歩き姿の時点で既に風格というか厳かなオーラを発していることに奏水は思わず心中で唸った。
そして最後に舞台袖から現れたその人に客席の視線が集中した。
これまでよりも鋭く凛とした空気を纏いながら壇上を淑やかに進むその人こそが、今日の目的でもある琴成眞澄という人だった。ただそこにいるだけで場の空気を引き締めていく。
(うわ、この人すごいっ……! これがカリスマ性、人を引き付ける力!)
奏水の定義するカリスマ性とは簡単に言うと「存在や立ち振る舞いだけで人の意識を集める」という具合で、これを実現するのが「自然体を極める」ことだと考えている。
人前に出れば緊張するもの。ましてや舞台の上、多くの観衆の前なら当然。
しかしその緊張を経験と場数と実力によって乗り越え、自然体=緊張の一切ない身体の動き・心の平静を手にした者がカリスマと呼ばれる境地に達する、というのが奏水の見解だ。
そして今舞台上で一礼し、琴の前にすっと座って姿勢を正した彼女もまたそんなカリスマの一人なのだと思った。無論、奏水にはないものだから憧れるし研究もしたくなる。
だけど、そんな願望すら頭から消えてしまうほどの舞台を繰り広げるのもまたカリスマ。
奏水の思考は琴成眞澄が先導する圧巻の演奏と肌が粟立つような鮮烈な空気に包まれて霧散し、ただただ聴き入った。目前で桜がひらひらと散っている光景を幻視してしまいそうになったほどに没入した。
奏水は思う。音楽は創作であり、その創作を現実世界に鳴らすのが音楽家であると。
そして音楽には違う世界を見せる力がある。聴衆の五感に訴えかけて現実を超えさせる力がある。それを目前の演奏家たちは今まさに実践しているのだ。
(やっぱり……本物はすごいっ……)
奏水は我を忘れて約三十分間の演奏に耳を傾け続けた。




