第1話 会長、何のお話ですか?
六月も終わりに近づいた、ある金曜日の放課後。
俺は生徒会室の扉の前で、かれこれ三分ほど立ち尽くしていた。
別に、中へ入るのが怖いわけではない。
ただ、どうしてこうなったのかを考えると、どうにも釈然としないのだ。
そもそも俺、田辺聖斗は、この春に大阪から転校してきたばかりの高校二年生である。
転校して三か月近く。ようやくクラスの顔と名前も一致してきたし、休み時間に雑談する相手もできた。昼飯を一緒に食べる奴だっている。
学校生活は、それなりに順調だった。
もっとも、心から気を許せる友人ができたかと聞かれれば、少し返答に困る。
別にクラスの連中が嫌いなわけではない。むしろ、みんないい奴だと思う。ただ、途中から入り込んだ人間というのは、どうしても周囲の空気を読むことに神経を使う。
誰かが冗談を言えば笑う。何かを頼まれれば、できるだけ引き受ける。
そうやって波風を立てずに過ごしてきた結果、どうやら俺は、クラスの中で少々便利な人間になってしまったらしい。
そのことを思い知らされたのが、先週のホームルームだった。
ついこの前の生徒会役員選挙で生徒会の会計になったクラスメイトが、病気で長期間学校を休むことになったからだ。
気の毒な話である。
一日も早く元気になってほしい。
それはまあ、多少社交辞令的な気分がないでもないが、そう思う。
だが、だからといって、その代役を同じクラスから選べというのは、どういう理屈なのか。
担任の説明によれば、生徒会の規定だか慣例だかで、欠員が出た役職については、元の役員が所属するクラスから候補者を推薦することになっているらしい。
いや合理的やな!合理的やけども……。
立候補者はいなかった。
ところが、担任が困った顔をしていると、教室の後ろのほうから威勢のいい声が上がった。
「はーい! 田辺君がいいと思いまーす!」
……は?
声の主は、クラスでも中心的な存在の男子だった。
明るくて、誰とでも気軽に喋れる、いわゆる陽キャというやつである。
別に俺と仲が悪いわけではない。
それどころか、転校してきた当初は何かと話しかけてくれたし、今でも普通に会話する。
だからこそ、なおさら腹が立つ。
「おっ、いいじゃん!」
「田辺君、真面目そうだし!」
「頼めるんじゃない?」
教室のあちこちから、無責任な賛同の声が上がった。
いや、ちょっと待て。
真面目そうって何や。
俺が真面目かどうかなんて、お前らまだろくに知らんやろ。
そら不真面目でもないけども。
言いたいことはいくらでもあった。
あったのだが、担任までが、
「お、田辺。どうだ? やってみないか?」
などと期待に満ちた顔を向けてきたものだから、俺は思わず曖昧な笑みを浮かべてしまった。
……これがいけなかった。
断るなら、あの場できっぱり断るべきだったのである。
結局、俺が引き受ける方向で話が進み、後日、学校側の所定の手続きを経て、正式に生徒会会計に就任することになった。
ちなみに、推薦してくれた例の男子は、ホームルームが終わったあと、実に爽やかな笑顔で俺の肩を叩いた。
「いやー、田辺君でよかったよ! 頑張ってね!」
何がよかったんや。勝手なこと言いやがって。
そんなわけで、俺は今、生徒会室の前に立っている。
放課後はそれなりに自由に過ごせるはずだったのに、これからは生徒会の仕事が加わる。
まったく、えらいもんを引き受けてしまった。
もっとも、いつまでもここで突っ立っているわけにはいかない。
俺は小さく息を吐き、目の前の扉を見上げた。
そして、ようやく右手を挙げた。
コン、コン。
「失礼します。今日からお世話になります、田辺です」
扉の向こうから、澄んだ女性の声が返ってきた。
「はい。どうぞ、お入りください」
扉を開けると、そこには思っていたよりもずっと普通の部屋があった。
長机がいくつか並べられ、壁際には書類棚とホワイトボード。窓際にはコピー用紙の箱が積まれている。
もっとこう、重厚な机とか、歴代生徒会長の肖像画とか、そういうものがあるのかと思っていた。
いや、さすがに肖像画はないか。
「田辺君ですね。お待ちしていました」
部屋の奥から声がした。
長机の向こうに座っていた女子生徒が、手元の書類を置いて立ち上がる。
小野寺蓮花。
この学校の生徒会長である。
もちろん、顔は知っている。全校集会では何度も壇上に立っているし、会計就任の手続きでも一度挨拶を交わしていた。
学校中で有名な人だ。
成績優秀、品行方正、容姿端麗。教師からの信頼も厚く、生徒の評判もすこぶるいい。
艶のある長い黒髪に、すらりとした立ち姿。顔立ちは整っているが、近寄りがたい感じはしない。柔らかな微笑みがよく似合う、品のいい美人だった。
「今日からよろしくお願いします。小野寺蓮花です」
「あ、はい。田辺聖斗です。こちらこそ、よろしくお願いします」
俺が頭を下げると、会長も丁寧に頭を下げた。
「急に役員をお願いすることになってしまって、ごめんなさいね」
「いえ、そんな。別に会長のせいじゃないですし」
「そう言ってもらえると助かります。慣れるまでは大変かもしれないけれど、みんなでフォローしますから、安心してくださいね」
そう言って微笑む。
……なるほど。
評判がいいのもわかる気がした。
「田辺君、こっちこっち!」
横から明るい声が飛んできた。
見ると、長机の反対側に座っていた女子生徒が、こちらに向かって手を振っている。
茶色のボブヘアーに、愛嬌のある顔立ち。
「宮内あかりです。二年生で、書記やってるの。よろしくね!」
「あ、同じ二年なんや。よろしく、宮内さん」
「うん! 一年のときから生徒会にいるから、わからないことがあったら何でも聞いてね」
「ありがとう。助かるわ」
「会計の仕事も、最初は私が一緒にやるから」
「えっ、書記やのに?」
「うん。去年、会計さんのお手伝いもしてたから、だいたいはわかるよ」
ありがたい。ありがたいわ!
正直なところ、会計といっても何をするのか、まだよくわかっていないのだ。
もちろん、お金の管理をすることくらいは知っている。
ただ、高校の生徒会がどんなふうに予算を管理しているのかなんて、考えたこともなかった。そもそも、小遣い帳すらつけたことはない。
「それから、こちらが副会長の――」
会長が紹介しかけたところで、窓際の席にいた男子生徒が立ち上がった。
「どうも。副会長の柳です。よろしく」
「あ、よろしくお願いします」
「そんなに緊張しなくていいよ。仲良くやろう」
そう言って笑う。
背の高い、穏やかそうな三年生だった。
ほかにも書記の生徒が一人いて、俺を含めて全部で五人。
これが今年度の生徒会執行部らしい。
「それじゃあ、田辺君。まずはこちらに座ってもらえる?」
会長が空いている椅子を示した。
「はい」
「最初に、今の生徒会の仕事について簡単に説明しますね。そのあとで、会計の引き継ぎをしましょう」
会長は席に戻ると、手元のファイルを開いた。
「現在進めている主な仕事は三つあります。各部活動の予算執行状況の確認、文化祭実行委員会との連絡調整、それから校内設備に関する生徒からの要望の取りまとめです」
よどみのない説明だった。
早口というわけではない。むしろ、ゆっくりと落ち着いて話している。
なのに、不思議と頭に入ってくる。
「田辺君には、まず予算関係の書類に慣れてもらいたいと思っています。ただ、最初から難しいことをお願いするつもりはありませんから」
「はい」
「宮内さん、先月分の支出一覧を出してもらえるかしら?」
「はーい」
宮内さんが書類棚からファイルを取り出す。
「それと、柳君。例の追加申請、顧問の先生からお返事はありました?」
「ああ、さっき来たよ。条件付きで了承だって」
「そう。では、明日までに実行委員会へ連絡しましょう。私から話すわね」
「了解」
「うん」
会長は軽く頷くと、今度はもう一人の書記に目を向けた。
「先週お願いしたアンケートの集計は、どこまで進んでいます?」
「全学年分、入力は終わっています。あとは確認だけです」
「わかったわ。では、確認が済んだら私にも見せてください」
「はい」
……なんというか。
実に手際がいい。
指示は簡潔で、誰が何をしているのかをきちんと把握している。しかも、命令しているような感じがまるでしない。
仕事を頼まれた側も、当たり前のように返事をして動いている。
生徒会長というのは、こういうものなのだろうか。
少なくとも、俺が想像していたよりは、ずっとちゃんとした組織だった。
初めての生徒会の仕事を終え、家に帰った頃には、もう七時を回っていた。
もっとも、生徒会の仕事がそこまで長引いたわけではない。帰り道でちょっと寄り道をしただけだ。
夕飯の支度は既にできていて、俺は着替えを済ませると食卓についた。
「そういや、お兄」
向かいに座っていた妹が、唐突に口を開いた。
「ん?」
「生徒会に入ったんやて?」
「ああ、まあな」
「真面目か。きっしょ」
「お前、兄貴に向かって何ちゅうこと言うねん」
「だって生徒会やで? お兄が?」
「俺が生徒会入ったらあかんのか」
「いや、あかんことはないけど。似合わんやん」
「ほっとけ」
妹は鼻で笑うと、味噌汁に口をつけた。
一つ下の高校一年生。
同じ高校に通っているが、学校ではほとんど顔を合わせない。家ではこうして毎日のように顔を合わせるわけだが、最近は何かにつけて俺に突っかかってくる。
昔はもうちょっと可愛げがあったと思うんやけどなあ。
「で、何するん? 生徒会って」
「会計」
「えっ、お金触るん?」
「いや、実際の金の管理は先生がするらしい。俺は書類の確認とか、パソコンへの入力とか」
「ふーん」
興味を失ったらしい。
早いな、おい。
「まあ、でも、思ってたよりは悪ないで」
「はあ」
「生徒会。先輩らも親切やし、仕事もちゃんと教えてくれるし」
「へえ。ふうん。」
あ、もう全然聞いてへんなこいつ。
ところが。
「あ!そういや、生徒会長って小野寺先輩やんな?」
「ん? ああ、そうやで」
「へえ。あの人めっちゃ綺麗やんな」
「まあ、そうやな」
「頭もええらしいし」
「うん。仕事もできるみたいやで」
「ふーん」
妹が箸を止めた。
妙な顔で俺を見る。
「……何や」
「いや、良かったなあお兄」
ニヤニヤした顔でそう言う。
「なんやねん」
「別にぃ」
その言い方が、実に腹立たしい。
俺は黙ってご飯を口に運んだ。
まったく。
会長が美人だからといって、すぐに下世話な想像をするのは、実に下品である。我が妹ながら困ったものだ!
「まあ、せいぜい頑張りや」
「言われんでも頑張るわ」
「うん。小野寺先輩に迷惑かけんようにな」
「お前なあ……」
妹は、にやにや笑いながらご飯を食べている。
俺はため息をついた。
とはいえ、生徒会に入ったことについては、確かに少し考えが変わっていた。
朝までは、ただ面倒な仕事を押し付けられたと思っていた。
でも、実際に行ってみれば、雰囲気は悪くない。宮内さんも親切だったし、副会長も感じのいい人だった。
それに、小野寺会長。
あの人の下で仕事をするなら、学べることも多そうだ。
少なくとも、今日のところはそう思う。
「……お兄」
「今度は何や」
「ご飯、もう一杯いる?」
「……もらうわ」
「自分でよそい」
「お前が聞いたんやろが!」
妹はけらけら笑った。
……ほんま、可愛げのない奴である。
翌週月曜日。
俺の生徒会役員としての生活が、本格的に始まった。
もっとも、やることは初日と大して変わらない。宮内さんに教わりながら、PCで作業をする。たまに間違えては訂正し、わからないことがあれば質問する。
それだけのことだ。
ただ、何度か繰り返しているうちに、少しずつ勝手がわかってきた。
「田辺君、だいぶ慣れてきたね」
火曜日、宮内さんが俺の入力した表を確認しながら言った。
「そうかな」
「うん。最初よりずっと早くなってるよ」
「そら、同じこと何回もやっとるからなあ」
「でも、間違いも減ってるし。いい感じだと思う」
「ありがとう。宮内さんのおかげやわ」
「ふふっ。どういたしまして」
そんな具合に、俺の仕事は少しずつ順調になっていた。
一方、小野寺会長はというと。
……いや、なんというか。
あの人は、いったい何者なんだろう。
生徒会室にいる間、会長の手が止まっているところを、ほとんど見たことがない。
書類に目を通し、必要なところに印をつけ、ほかの役員からの質問に答え、時には先生と電話で話す。
かと思えば、宮内さんに呼ばれて席を立ち、パソコンの画面を覗き込んで何かを説明している。
それでいて、不思議と忙しそうには見えない。
慌てることもなければ、苛立った様子を見せることもない。誰かに話しかけられれば、きちんと手を止めて相手の話を聞いている。
そして、木曜日。
その日は、放課後から雨が降り始めていた。
窓の外では細かな雨粒が校庭を濡らし、時折、風に吹かれてガラスに当たっている。
生徒会室では、いつものようにそれぞれが仕事をしていた。
俺もようやく入力作業が一段落し、宮内さんに確認をお願いしたところだった。
「うん。大丈夫そうだね。お疲れさま」
「おお、よかった」
「じゃあ、次は――」
宮内さんが新しいファイルを手に取ろうとした、そのときだった。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「はい、どうぞ」
会長が答える。
扉が開き、一人の男子生徒が顔を覗かせた。
「あ、あの……すみません。こちら、生徒会室で合ってますか?」
「ええ、そうですよ。どうしました?」
会長が席を立った。
男子生徒は一年生らしかった。
制服の着こなしもどこか初々しく、胸元に抱えたクリアファイルを、ぎゅっと握りしめている。
何より、その顔色がよくない。
「あの、夏休みの教室使用の申請についてなんですけど……」
「はい」
「その……今日までに出さないといけないって、さっき聞いて……」
声がだんだん小さくなっていく。
「まだ、顧問の先生の確認ももらってなくて……それで……」
とうとう俯いてしまった。
会長は少しだけ表情を和らげると、穏やかに言った。
「そう。困ってしまったのね」
「……はい」
「わかったわ。まず、こちらに座ってもらえる?」
会長が空いている椅子を示す。
「大丈夫。順番に話を聞くから、慌てなくていいわよ」
男子生徒は小さく頷いた。
そして、恐る恐る椅子に腰を下ろした。
美術部の一年生だという男子生徒は、夏休みに美術室を使う許可を取るよう、先輩から申しつかっていたらしい。
ところが、詳しい説明もなく、実質的には丸投げだったという。提出期限が今日だということには気づいたものの、申請書には不備があり、このままでは到底間に合わない。
そこからの会長の差配は圧巻だった。男子生徒には可能な限り不備を修正するよう指摘し、どうしようもない部分は生徒会顧問と交渉した。やや強引な方法だったが、会長が冷静で、丁寧で、そして優雅だったので、まったく悪い印象は持たなかった。
「一応解決ね。特にあなたたちの顧問の先生、かなり協力してくださったから、よくお礼を言うのよ」
「はい!ありがとうございます!」
例の生徒が深々と頭を下げるのを見て、俺は心から思った。
……本当に、仕事のできる人だ。
それから、二十分ほど経った頃だろうか。
再び、生徒会室の扉がノックされた。
「失礼します……」
先ほどの一年生だった。
どうしてかまた浮かない顔をしている。その後ろに明らかに不機嫌そうなもう一人の男子生徒。
「あら、どうしたの。まだ問題があった?」
会長がそう尋ねる。
「いえ、小野寺さん。うちの1年が本当にご迷惑かけたそうで……」
なるほど。美術部の先輩ということらしい。
「俺、先週頼んだよな? 申請出しといてって」
「は、はい……」
「だったら、普通もっと早く確認しない?」
一年生の顔が、ますます曇っていく。
「すみません……」
「いや、謝られても困るんだけど」
ここで説教をするのか……。
「小野寺先輩、すみません。本当にうちの1年がご迷惑を。意気揚々と帰ってきて、先輩に助けられた話をしたときには、顔から火が出るかと思いましたよ」
さらに後輩に向かって
「君、お詫びもほどほどに出てきたんだろ」
「……」
……うわ。
なんか嫌な感じの人やな。
要は、美術部員として、後輩が「あの」小野寺さんに迷惑をかけた。上級生の自分は小野寺さんにきっちり謝罪しにきたってことなんだろうけど……ねえ。
一年の彼は深々とお辞儀してお礼言うてたし、十分やないか。……それに。
「次からは本当に気をつけてよ。こういうの、一回やらかすと信用なくすから」
「……はい。すみませんでした」
「だから、謝るだけじゃ――」
「ちょっと、いいかしら」
静かな声だった。
小野寺会長が、二人のほうを見ていた。
「……あ、小野寺先輩」
上級生らしい男子生徒が、少し姿勢を正した。
「あなた、美術部の二年生ね?」
「はい」
「さっきのお話を聞いていたのだけど、この子に申請を任せたのは、あなたなの?」
「はい。そうです」
「そう。じゃあ、一つ教えてほしいの」
会長は、ゆっくりと言葉を続けた。
「申請の締め切りや、顧問の先生の確認が必要なことは、この子に伝えていた?」
「……え?」
「ちゃんと説明していたのかしら?」
「いや、それは……」
二年生が言葉に詰まった。
「……別に、そこまで細かくは」
「そう」
会長は頷いた。
「では、提出が済んだかどうか、あなたのほうで確認はした?」
「いえ。でも、頼んであったので……」
「そうね。頼んでいたのよね」
会長の口調は、相変わらず穏やかだった。
けれど、その表情は少しだけ真剣なものになっていた。
「後輩に仕事を任せるのは、悪いことではないと思うわ。でも、任せた以上、きちんとできているか確認することも大切じゃないかしら」
「……はい」
「それに、この子はまだ一年生でしょう? 入学して、三か月しか経っていないのよ」
二年生は黙っている。
「知らないことも、わからないことも、たくさんあると思うの。だからこそ、あなたが教えてあげてほしかったわ」
「…………」
「もちろん、この子にも自分で確認すべきところはあったと思う。それは、さっき本人にも伝えたの」
会長はそこで一度言葉を切った。
「でもね」
声は静かなままだった。
「その子だけが悪かったように言うのは、私は違うと思うわ」
……おお。そうや。俺もそう思った。
俺は思わず、会長の顔を見た。
怒鳴っているわけでもない。
相手を睨みつけているわけでもない。
それなのに、言うべきことを、きちんと言っている。
「……すみません」
二年生が、小さな声で答えた。
「いえ、謝ってほしいわけではないのよ」
会長は少し表情を和らげた。
「今回はなんとかなったのだから、次から同じことが起こらないようにしてもらえたら、それでいいの」
「……はい」
「それと」
会長は一年生のほうに目を向けた。
「あなたも、わからないことがあったら、遠慮せずに先輩や先生に聞いてね」
「はい!」
「うん。じゃあ、二人とも、夏休みの制作、頑張ってね」
最後には、いつもの柔らかい笑顔に戻っていた。
二人は揃って頭を下げ、生徒会室を出ていった。
扉が閉まると、室内には再びキーボードを叩く音が戻ってきた。
会長も、何事もなかったかのように席に着く。
俺はしばらく、その姿を眺めていた。
……なんちゅうか。
「田辺君?」
「……えっ?」
宮内さんの声に、我に返った。
「どうしたの? ぼーっとして」
「あ、いや。何でもない」
「そう?」
宮内さんが、ちらりと会長のほうを見た。
それから、何となくわかったような顔で笑う。
「会長って、すごいよね」
「……うん」
俺は素直に頷いた。
「ほんま、すごい人やと思うわ」
宮内さんは、にこりと笑った。
「でしょ?」
まるで、自分が褒められたかのような顔だった。
……ああ。
なるほど。
こういう人だから、みんなから慕われているんやな。
俺は改めて、小野寺会長という人のことを、少しだけわかったような気がした。
それから、さらに数日が過ぎた。
翌週、水曜日。
生徒会の仕事にも、だいぶ慣れてきた。もう二週間近くになるもんな。
相変わらず宮内さんにはお世話になっているけれど、簡単な入力作業なら、もう一人でこなせる。
初日はどうなることかと思ったが、人間、案外なんとかなるものらしい。
もっとも、宮内さんに言わせると、まだまだ覚えることはあるそうだ。
「よし、できた」
俺は入力を終えたファイルを保存し、椅子の背もたれに体を預けた。
「宮内さん、こっち終わったで」
「はーい。じゃあ、確認するね」
「お願いします」
宮内さんが俺のパソコンを覗き込み、画面をスクロールする。
「うん。大丈夫そう。お疲れさま!」
「おお、よかった」
「最近、あんまり直すところもなくなってきたね」
「そら、宮内さんが何回も教えてくれたからな」
「あはは。田辺君も頑張ってるからだよ」
そう言われると、素直に嬉しい。
何しろ、代役とはいえ、一応は生徒会の役員なのだ。
いつまでも教わってばかりというのも、申し訳ない。
「田辺君」
不意に、別の声がした。
振り返ると、小野寺会長がこちらを見ていた。
「はい?」
「少し、いいかしら?」
「あ、はい。もちろんです」
会長は自分の席から立ち上がると、こちらへ歩いてきた。
「最近、ずいぶん仕事に慣れてきたみたいね」
「え? ああ、はい。おかげさまで」
「ふふっ。最初の頃と比べると、入力もずいぶん早くなったでしょう?」
「そうですね。まあ、最初がひどかったんで……」
「そんなことないわ。慣れていなかっただけでしょう?」
会長はそう言って、俺のパソコンの画面に目を向けた。
「それに、最近は同じところで間違えることもなくなったし、わからないことがあれば、ちゃんと確認してから進めているわね」
「……え?」
「書類の扱いも丁寧だと思うわ。宮内さんから教わったことを、きちんと覚えているのね」
俺は思わず、会長の顔を見た。
……そんなところまで、見てくれていたのか。
会長はいつも忙しそうに仕事をしている。
ほかの役員から次々と相談されるし、先生とのやり取りも多い。
そんな中で、俺みたいな新米会計の仕事ぶりまで、ちゃんと把握していたらしい。
「あの……ありがとうございます」
「あら。どうしてお礼を言うの?」
「いや、その……ちゃんと見てくれてはったんやなって」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
何やねん、ちゃんと見てくれてはったって。
小学生が先生に褒めてもらったみたいやないか。
けれど、会長はそんな俺を笑ったりしなかった。
「もちろんよ」
ごく当たり前のことのように言う。
「同じ生徒会の仲間だもの。田辺君が頑張ってくれていることくらい、ちゃんとわかっているわ」
……ああ。
なんちゅう素敵な人や。
俺が何か特別なことをしたわけではない。
ただ、任された仕事を、なるべく間違えないようにやっていただけだ。
それでも、この人はちゃんと見ていてくれる。
「……ありがとうございます、会長!」
気づけば、俺は勢いよく頭を下げていた。
「俺、これからも頑張ります!」
「ふふっ。ええ、期待しているわ」
会長が微笑む。
そして。
「…………」
なぜか、少しだけ間があった。
「……それだけかしら?」
「……はい?」
俺は顔を上げた。
「えっ、あ、いや……頑張るだけやなくて、もっと仕事覚えて、ちゃんと役に立てるように――」
「あっ、ごめんなさい」
会長が、小さく首を振った。
「そういうことじゃないの」
「……はあ」
「今のは忘れて頂戴ね、田辺君」
「え? あ、はい……」
……なんやったんやろ。
何か言い足りなかったんやろか。
俺が考え込んでいると、会長はいつもの笑顔に戻った。
「それじゃあ、引き続きよろしくね」
「はい!」
会長は自分の席へ戻っていった。
俺はその後ろ姿を見送りながら、しばらく首を傾げていた。
……まあ、ええか。
ともあれ、会長が俺の仕事を認めてくれている。
そのことが、今は素直に嬉しかった。
「うんうん。いい顔してるねー田辺君。わかるよ」
おもむろに隣の宮内さんがそう言った。
「え、な、なにが?」
「会長素敵すぎるもんねー」
クスクスと笑う宮内さん。
「え、いや。俺はそういう……」
そういう……つもりでないこともないが。おこがまし過ぎる。
「いいんだよー。田辺君みたいなの、それこそ雲霞のようにいるからねー」
……うんか?
「さ、仕事仕事!」
宮内さんは言うだけ言って、仕事に戻った。
そして、金曜日。
生徒会に入ってから、ちょうど二週間が経った。
生徒会室の居心地は悪くなかった。
宮内さんは親切だし、副会長も気さくだし。
それに、何より。
……いや、まあ、それはええとして。
その日も、俺はいつものように会計の仕事を片づけていた。
七月も中旬に入ろうという時期である。夏休みが近いこともあって、生徒会室には何となく慌ただしい空気が漂っていた。
俺は宮内さんと一緒に書類を整理し、頼まれた入力を済ませた。
「よし。これで今日の分は終わりかな」
宮内さんが伸びをする。
「お疲れさん」
「田辺君もお疲れさま。今週も頑張ったね」
「いやあ、まだまだやけどな」
「またまた。そんなこと言って、もう結構できるようになってるじゃん」
「そう言うてもらえると嬉しいわ」
時計を見ると、もう六時近かった。
副会長は先生に呼ばれて、少し前に生徒会室を出ていった。もう一人の書記も、用事があるとかで先に帰っている。
宮内さんも、机の上を片づけ始めた。
「じゃあ、私もそろそろ帰ろうかな。田辺君は?」
「俺も帰るわ」
そう言って、パソコンの電源を落とす。
そのときだった。
「田辺君」
聞き慣れた、涼やかな声。
顔を上げると、会長が自分の席からこちらを見ていた。
「はい?」
「このあと、少し時間をもらえるかしら?」
「え? あ、はい。大丈夫ですけど」
「よかった。ちょっとお話ししたいことがあるの」
会長はそう言って、にっこりと微笑んだ。
……お話。
何やろう。
もしかして、仕事のことで何か相談でもあるんだろうか。
それとも、今後の生徒会活動について、何か伝えておきたいことでもあるのか。
いずれにせよ、会長からわざわざ声をかけてもらえるというのは、悪い気がしない。
「じゃあ、私はお先に失礼しますねー」
宮内さんが鞄を持ち上げた。
「あら、宮内さん。お疲れさま」
「お疲れさまです、会長。田辺君も、また来週ね」
「おう。またな」
宮内さんはひらひらと手を振り、生徒会室を出ていった。
扉が閉まる。
生徒会室には、会長と俺の二人だけが残された。
……なんか、ちょっと緊張するな。
別に、変な意味ではない。断じて。
尊敬する先輩と二人きりになって、しかも何か話があると言われたのだ。
緊張くらいするやろ。普通。
「ごめんなさいね、引き止めてしまって」
「いえ、全然。俺、急いでないんで」
「そう。ありがとう」
会長は自分の机の上を整えると、椅子を引いて立ち上がった。
「田辺君、こちらに座ってもらえる?」
「はい」
俺は勧められた椅子に腰を下ろした。
会長も向かいに座る。
こうして正面から見ると、改めて綺麗な人だと思う。
長い黒髪。整った顔立ち。すっと伸びた背筋。
普段から上品な人だけれど、こうして向かい合うと、なおさらそう感じる。
「さて」
会長が、膝の上で両手を揃えた。
「実はね、田辺君。前から一度、あなたとお話ししてみたいことがあったの」
「はあ」
「でも、まだ生徒会に入って間もなかったでしょう? だから、少し様子を見ていたのだけど」
……様子?
「この二週間、あなたのことを見ていて、ようやく確信が持てたの」
「……確信?」
何の確信やろう。
もしかして、今後も会計の仕事を任せても大丈夫だと判断してくれたんだろうか。
それなら、ありがたい話ではある。
「田辺君」
「はい」
「あなた、大阪の出身だったわね?」
「え? あ、はい。そうですけど」
「今年の四月に、こちらへ転校してきたのよね」
「はい」
「そうよね」
会長は満足そうに頷いた。
……ん?
何で今、出身地の話になったんや?
「それでね、田辺君」
会長は、少しだけ身を乗り出した。
「あなた、ぼけないわよね?」
「…………」
……は?
「……ええと」
「この二週間、ずっと見ていたのだけど」
会長は真剣な表情で続ける。
「あなた、自分からぼけたことが一度もないでしょう?」
「……ぼけ?」
「ええ」
……ぼけ。木瓜。……いやいや。
なんや。はは、まさかな。そんな。
あ、生徒会にはそういう専門用語でもあるんやきっと。
「会長、あの……ぼけって」
「もちろん、お笑いのボケよ」
食い気味だった。
……やっぱりそのボケかーい。…………え?
俺は思わず瞬きをした。
「……え?」
「あなた、大阪の人でしょう?」
「……はい」
「でも、これまで自分からボケたことがないわ。だから、きっとそうなんだと思うの」
……何が?
「それで、先日のこともあったでしょう?」
「先日?」
「私が、田辺君にお仕事のことでお話ししたとき」
「あ、はい」
褒めてもらったときのことか。
「あのときも、あなたは最後まで真面目に答えてくれたわね」
「……はい?」
「だから、もう間違いないと思うの」
会長は、いかにも納得した様子で頷いた。
何を、納得してるんやこの人は?
「会長、あの、すみません。ちょっと話が見えへんのですけど……」
「あら、ごめんなさい。そうよね。肝心なことを言っていなかったわ」
会長は、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「私ったら、気が早くて」
「はあ……」
「つまりね」
会長は、まっすぐ俺を見つめた。
「田辺君は、ツッコミなのね?」
「………………」
………………。
…………はあ?
「……いや、会長」
「なあに?」
「俺、何の話をされてるんですか?」
「だから、お笑いの話よ」
「それはわかりましたけど!」
「あら、よかった」
「よくないです!」
思わず声が大きくなった。
あかんあかん。
相手は会長やぞ。
落ち着け、俺。
「ええと……なんでいきなり漫才の話を……」
「大阪の人でしょう?」
「……そうですけど」
「常在漫才じゃないの?」
いや凄い偏見。常在戦場みたいに言うな。
「いやいや……」
「ボケないということはツッコミ」
真顔でおっしゃる。
「…………」
……あかん。
この人が何を言っているのか、全然わからん。
いや、言っている日本語はわかる。
でも、意味がわからん。
そもそも会長の顔で、声で、いきなりそんな突飛なこと言われても……。
会長はそんな俺の困惑など気にも留めず、穏やかに微笑んだ。
「それでね、あなたには私にツッコんでもらいたいの」
「…………は?」
「こう……なんでやねん!って」
そう言って会長がした仕草は、手の甲を相手の胸にあてるテンプレのアレではなかった。
明らかに「はたく」やつだった。
いやいや、そんなこと……。そんなこと……。
「そんなことできるかい!」




