第6話 警官と女子高生と噂話
俺はゆっくりと階段を下りる。角を曲がり、壁沿いの生活家電コーナーを通ると、長蛇の列が出来ているレジに並んだ。
商品が山ほど入った籠を床に置き、このまま置き去りにして逃げたいと思った。だが、そんなことをすれば、かえって目立つ。俺は列が進むたびに籠を持ち上げ、一人分ずつ前へ移動した。
「まだか……」
今日は土曜日だからか、店内は買い物客で賑わっていた。当然、それにつれてレジも人でごった返している。
後ろを向くことはできない。さっきの警官が下りてきていたら、振り返った拍子に目が合うかもしれない。フードの下を覗き込まれれば、髪を剃った程度の変装で誤魔化せる保証はなかった。
フードを被った客なら、ほかにもいる。俺だけが目立つわけではないはずだ。そう自分に言い聞かせながら、視線を前に固定した。幸いにも、生活家電コーナーに並ぶテレビは、どれも電源が落ちていた。今の俺には、それだけでもありがたい。
(さっきの警官はまだ二階にいるのか……?)
俺は下唇を噛む。籠を持つ手の人差し指が、落ち着きなく持ち手を叩いていた。
「お次のお客様、どうぞ」
四十歳くらいの女性店員に無言で籠を差し出す。そこそこ重量があったため、台に置くとゴトッ、と音がした。
ピッ、ピッ、と女性は一つずつ商品をスキャンしている。俺はもどかしさを感じながら、あらゆる通知をオフにしているスマホを見る。時計が二分進んでも、会計は終わらなかった。
「お会計が、9,820円です」
俺は財布から一万円札を取り出し、レジ横の精算機に入れる。途中、入れる角度が悪かったのか、一万円札が二回ほど吐き出された。そのたびに握りしめた左手から汗が滲んだ。
手早く商品をLサイズのレジ袋に袋詰めし、出口から見える細い路地に早足で移動する。明かりの消えたテナントの脇に、階段へ続く共用の入口があった。ガラス戸を引いて中へ入り、通りから見えない位置に腰を下ろした。
「っはぁ!危ねぇ、あんな所を見回ってるとは思わなかった」
俺は冷ややかな空気を思いっきり吸い込むと、震える息を落ち着かせるように、ゆっくりと吐き出した。
「とりあえず、ここまで来れば大丈夫だろ。今回は見つからずに済んだらしいが、また同じようなことがあったら逃げ切れる気がしねぇ……」
走ったわけでもないのに、心臓がバクバクと鳴っていた。左手にも鈍い痛みがあり、指には籠の持ち手の痕が残っている。気づかないうちに、ずっと力を込めて握っていたらしい。
「よっこらせっ」
掛け声とともに俺は立ち上がる。そして、入口の陰から店の唯一の出入り口を確認する。
「警官はまだいいけど……」
老若男女問わず、様々な人が店内を出入りしていた。だが、探している人物は見当たらなかった。
「……瑠璃は?」
あいつはまだ、警察官と同じフロアにいる。赤い髪が出口に現れるのを待ちながら、俺はレジ袋を握り直した。
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「ケイ?どこ行くの」
私の呼びかけに、圭は知らんぷり。そのまま下に行ってしまった。
「む……変装グッズ買うんじゃなかったの」
せっかく見つけてあげたのに。私は手に持っているブラウンのウィッグを眺めた。
「別に私が使うわけじゃないし、まあいいか」
圭がいらないならしょうがない。私はウィッグを元の場所に戻そうと、バラエティコーナーへ向かった。その一角に見覚えのある顔を見つけ、思わず足が止まる。
「あっ……!佐野くん……!」
気づいたときには駆け寄っていた。ばっ、と佐野くんがプリントされたキーホルダーを手に取る。
「やっぱり、かっこいい」
多分その時の私は、ちょっと気持ち悪いくらい目を輝かせていたと思う。写真に見入っていると、すぐ後ろから落ち着いた声がした。
「失礼、お嬢さんも曽野というアイドルを探しに?」
「え?あ、いや……」
振り向くと、四、五十歳くらいの警察官が立っていた。ワシのように鋭い目つきなのに、色素の薄い青緑色の瞳は、不思議と優しげに見えた。
「娘がこのアイドルグループを好きでね。店内巡回のついでに下見しておこうと思ったんだ」
「あ、そうなんですね」
私は手に持つ大判のキーホルダーを見た。そこにはアイドルユニット『M!LK』のメンバー、佐野勇斗の写真が大きくプリントされている。
「えーと、私が持ってるのは佐野くんで、あっちの赤い服を着てる方が曽野くん。娘さんが好きなのは曽野くんだと思います」
「そうなのか、なんだかややこしいね」
いや、リンゴとナシくらいの違いなのに。そう思っていると、警官は曽野くんのキーホルダーを手に取った。細い指でつまんだキーホルダーを青緑色の目で見つめている。どう見ても興味があるようには見えなかった。
「職務中だからね、買うのは今度にしよう」
「職務中……」
そういえば、警官が店の中にいるのはあんまり見ない気がする。そこで、ようやく圭のことを思い出した。
「っ、ケイ!」
あ、やば。やっちゃった。圭を探しに来たんだろうか。だったら、さっき名前を呼んだのはまずかった。しかも、今また言っちゃった。
「お嬢さん、テレビでやってる殺人事件は知っているかな?この県で起こった事件だ」
「え、はい……」
「お嬢さんは、その事件の容疑者と何か関わりを持っている?」
「……」
やっぱりそうだ。圭のことを聞きたいんだ。
「いえ……あるわけないですよ。そんな殺人鬼とだなんて」
「そうか」
警官は襟元を整え、背筋を伸ばした。
「一瞬だけど、君がフードを被った男と一緒にいるのを見た」
どきり、と心臓が跳ねた。私、何も悪い事をしていないのに。
「お兄さん?」
「違います」
「じゃあ彼氏かな」
「ち、違います!」
思わず強く否定すると、警官は小さく笑った。
「そうか。それは失礼した」
「……ただの他人です」
「他人?」
「はい」
「なるほど」
それ以上、何も聞いてこなかった。私は少しだけ肩の力を抜く。てっきりドラマみたいにあれこれ質問されると思っていたのに、警官は曽野くんのキーホルダーを棚へ戻しただけだった。
「まあ、心配しなくてもいいよ」
「……何がですか?」
「さっきの男のことだ」
心配しなくてもいい?警察官がそれ言っちゃう?私を安心させようとしているのだろうか。警官は私から目を離し、階段の方を見ていた。
「ニュースに出ている田代圭とは、顔が違う。名前が同じだっただけかもしれないね」
「……そうです」
よかった。そう答えようとした、そのときだった。
「それに――」
がやがやとした店内で、落ち着いた様子の警官が続ける。
「田代圭は、人を殺していない」
「……え?」
聞き間違いじゃないよね?私は無意識に一歩分後ずさっていた。警官がゆっくりとこちらを向く。
「なんで……そんなこと分かるんですか?」
警官の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「君は、僕がそう言った理由を知りたいんだね。彼からも、同じことを聞いたのかな。自分は殺していない、と」
答えてはいけない。そう思った時点で、もう表情に出ていたのかもしれない。警官は私が黙ったままでいるのを確かめるように、一呼吸置いた。
「君はフードの男と一緒にいた。彼が離れたら、ケイと呼びかけた。そして今、田代圭の話に驚いた」
背中がすっと冷たくなった。
「ち、違――」
警官が私の目を真正面から見た。
「さっきの男は田代圭だね?」
「……他人です。ただの」
「そうか」
あっさりと引いた。それが逆に怖かった。どこまで分かっていて、何を聞こうとしているんだろう。
「まあいい。忠告だけしておこう」
警官は私に背を向ける。
「彼に興味本位で近づくのはやめておきなさい」
「待ってください!」
警官の足が止まる。
「あなた、ケイの何を知ってるんですか?」
返事はなかった。警官は振り返らず、そのまま階段へ向かって歩いていった。私はキーホルダーを握ったまま後を追ったが、買い物客の間を抜けて一階へ下りたときには、もう店の外に出ていた。
路肩に停めてあったパトカーに乗り込み、走り去っていく。私は出口の手前で立ち止まり、その姿を見送った。
「あの人、一体なんなの……?」
私はパトカーが去っていった方向を、呆然と見つめていた。圭は殺していない。あの人は、確かにそう言った。
だったら、どうして圭は逃げているの?




