第一章 古虎渓へ
第一章 古虎渓へ
少し前の話になる。
昔から、僕はホラーというものに妙に惹かれていた。
映画館で絶叫するタイプではないし、スプラッター映画も得意じゃない。むしろ、血が飛び散るだけの作品は苦手だ。
好きなのは、「もしかしたら本当にあるかもしれない」と思わせる話だった。
誰もいない廃墟。
夜中の山奥。
地図から消えかけた集落。
そんな場所には、人の想像力が勝手に物語を作り出してしまう。
そして、その想像こそが一番怖い。
幽霊を信じているわけではない。
霊感なんてもちろんない。
だからこそ確かめたくなる。
本当に何かがいるのか。
それとも、人間は暗闇だけで勝手に恐怖を作り出してしまう愚かな生き物なのか。
……まあ、刺激に飢えていただけなのかもしれない。
株で損をするのも自己責任なら、ホラースポットへ行って呪われるのも自己責任。
若かった僕は、本気でそんな馬鹿なことを考えていた。
その日の目的地は、岐阜県の古虎渓だった。
問題は、そこへ行くまでだった。
我が家では車を借りるだけでも一苦労なのである。
「危ないからダメだ。」
父は毎回そう言う。
いやいや、安全運転だから。
……百パーセント嘘である。
普段は、たぶん、安全だ。
「事故ったら絶対助けたらんでな!」
玄関で怒鳴る父。
「はいはい。」
そう生返事だけして家を飛び出した。
今思えば、「ホラースポットへ行く」と正直に言ったのが原因だったろう。
父はそういう話が大嫌いなのだ。
玄関のドアが閉まる音が、まるで最後通告のように響いた。
待ち合わせ場所には、中学時代からの友人二人がいた。
久しぶりの再会だったが、挨拶もそこそこに話題は今夜の目的地へ移る。
「本当に行くの?」
「ここまで来て帰るわけないだろ。」
誰かが笑う。
その笑い声だけが妙に明るく、夜の駐車場へ吸い込まれていった。
古虎渓。
地元では知らない人はいないくらい有名な心霊スポットだった。
山奥に取り残された古い旅館。
ひどい食中毒で多くの宿泊客が亡くなり、その責任を負った経営者が首を吊った――。
そんな噂が語り継がれていた。
もちろん、本当かどうかは誰も知らない。
そんな話は腐るほどあるのが世の中の現実。
さらにホラースポットの噂など、尾ひれがついて大きくなるものだ。
実際はただの人手不足かもしれないし、本当は、一家心中とさらに悲惨かもしれない。
それでも、人は怖い話が好きなのだ。
写真で見た旅館は、不気味だった。
窓ガラスは割れ、蔦が建物を覆い、時間そのものが止まったように見えた。
二十年か三十年か。
誰にも忘れられた建物だけが、山の中で静かに朽ちている。
そんな印象だった。
夜九時。
名古屋を出発した。
国道十九号線までは街の灯りが続いていた。
しかし一本脇道へ入った瞬間、世界が変わる。
街灯が消える。
コンビニもない。
家の明かりすらほとんど見えない。
窓を少し開けると、川の流れる音だけが聞こえた。
昼間なら気持ちのいい渓谷なのだろう。
だが夜になると、その静けさは別の顔を見せる。
静かすぎる。
おかしい?
虫の鳴き声すら、どこか遠慮しているようだった。
「……本当に人、住んでる?」
誰かがぽつりと言った。
その一言に、車内が少しだけ静かになる。
旅館を探して川沿いを走る。
「ここじゃない?」
「いや違う。」
「行き止まりだ。」
バックで戻る。
また細い道へ入る。
そこは普通の民家だった。
「すみません。」
誰もいない家に謝りながら、また引き返す。
気付けば一時間以上、山道をさまよっていた。
ようやく見つけた建物は、暗闇の中に巨大な黒い影として立っていた。
写真以上だった。
建物というより、山に飲み込まれた巨大な生き物のように見える。
誰も喋らない。
エンジン音だけが響く。
正面は封鎖され、中へ入ることはできそうにない。
もちろん、不法侵入など論外だ。
外から眺めるだけ。
それだけでも十分だった。
十分のはずだったが、、、
「……帰る?」
誰かが言う。
しかし、もう一人が笑った。
「いやいや、それだけで帰るの?」
「男として、どうなん?」
その一言で全員が笑った。
若さとは、不思議なものだ。
引き返せばいい場面ほど、前へ進みたくなる。
絶対に駄目と言われるほどやりたくなる。
こうして僕たちは、新たな目的地を決める。
伊勢神トンネル。
愛知県最恐スポット。
そう呼ばれる場所だった。
古虎渓からは決して近くない。
しかし、そのときの僕たちに距離は関係なかった。
恐怖よりも、好奇心の方が勝っていたのだ。
山道を走り始める。
長い下り坂。
カーブ。
またカーブ。
助手席では友人が青ざめている。
後部座席からは「気持ち悪い……」という声。
運転している僕まで酔いそうだった。
豆腐屋の自家用車でも紙コップに水が入っていたら水がなくなってしまうほどのカーブばかりだった。
そのとき。
一台の車が反対車線から飛び込んできた。
野太い排気音。
良い音を奏でる。
一瞬だけ見えた丸いテールランプ。
「あっ!」
「GT-Rだ!」
漆黒の山道を、一筋の流れ星のように駆け抜けていく。
その姿を見た瞬間、不思議と眠気も疲れも吹き飛んだ。
「負けてられんな。」
「行け行けどんどん」
そう思った。
……思っただけだった。
こちらはトヨタ・ナディア。
勝負になるはずがない。
結局、現実を受け入れ、安全運転で進むことにした。
すると突然、ナビの残り距離が十キロ増えた。
「え?」
「なんで?」
「壊れた?」
さっきまで真っすぐだった案内が、突然左へ曲がれと表示している。
「絶対おかしいだろ。」
「でもナビは左って言ってる。」
「逆じゃない?」
誰も答えを持っていない。
まるで、何かが行く手を拒んでいるようだった。
それは、まるで行くのを拒むかのような・・・
車からのメッセージなのだろうか?
もちろん偶然だ。
古いナビが遠回りを選んだだけ。
そう自分に言い聞かせる。
それでも車内には、さっきまでとは違う静けさが流れていた。
誰も笑わない。
エンジン音だけが夜の山へ吸い込まれていく。
その先に待っていたものを、このときの僕たちはまだ知らなかった。
次回「伊勢神トンネル 山道編」
この道はどこへ続くのか
はたして、彼等は無事トンネルにたどりつくことが出来るのか・・・・
三人の男達の伝説が始まる




