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急に地球が滅びないかな、と異世界で私は呟いた 〜気絶のフリで乗り切るはずが、私を召喚した令嬢に転生を待たれていた件〜  作者: めるしー


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二つの月の下で

 暗号の手帳を、ガウンの内側に隠したまま。


 私の、異世界での「一日」は、続いていく。


 昼が、近かった。


「お嬢様、お昼の前に、少しお休みになってください。朝から、お屋敷を歩き回られて、お疲れでしょう」


 エマは、とにかく、世話を焼きたがった。やれ膝掛けだ、やれ水分だと、甲斐甲斐しい。記憶喪失の上に病み上がり(ということになっている)の主人が、よほど心配らしい。


 正直、ありがたかった。緊張の連続で、私の精神は、すり減っていたから。


 昼食は、軽く済ませた。柔らかいパンと、スープと、果実を少し。病人食の延長みたいな献立だったけれど、文句はない。むしろ、この身体——シルヴィアの胃は、たくさんは受けつけないようだった。少し食べると、すぐに、満ちてしまう。


(……やっぱり、弱ってるんだな。この身体)


 食べながら、私は、改めて、思う。「時間がない」と、夢のシルヴィアは言った。この、すぐに疲れる身体が、その証拠みたいで——少し、こわい。


 食後、エマに促されるまま、私は、昼の休憩を取った。


 慣れない異世界。慣れない演技。気を張りっぱなしだった神経が、柔らかな寝具の上で、ほんの少し、緩む。気づけば、うとうとと、浅い眠りに、落ちていた。


-----


 夕刻。


 目を覚ますと、エマが、申し訳なさそうに、告げた。


「お嬢様……今夜は、その。皆様で、夕食を、とのことで。旦那様が」


「皆様、って?」


「旦那様と……奥様と、フレデリカお嬢様、と」


(……家族、勢ぞろい、か)


 来た、と思った。


 父コンラート、継母、そして継姉フレデリカ。シルヴィアの「家族」が、一堂に会する食卓。記憶喪失の令嬢にとって、これほどの、ハードモードはない。


 でも、逃げられない。私は、覚悟を決めて、食堂へ向かった。


-----


 食堂は、広かった。


 長いテーブルに、まず、父コンラートが、着いていた。私を見ると、ぎこちなく、けれど、安堵したように、頷く。昨日の、不器用な父だ。


 その向かいに——フレデリカ。蜂蜜色の髪を、夜会向けに結い直して、つんと、澄ました顔をしている。私と目が合うと、ふい、と、視線を逸らした。相変わらず、嫌われているらしい。


 そして、コンラートの隣に、もう一人。


 ふくよかで、優しげな顔立ちの、中年の女性が、座っていた。


「あらあら、シルヴィアさん……! 起きて、大丈夫なの? 無理は、していない……?」


 その人は、私を見るなり、おろおろと、腰を浮かせた。


「ええと、その、何か、食べられそう? 食べられないものは、ない? あ、でも、無理は、しないでね。あらあら、どうしましょう、わたくし、こういうとき、何て言えば……」


(……あ。この人、いい人だ)


 一瞬で、わかった。


 おろおろと、けれど、心から、私を案じている。エマと、同じ匂い。この人が——継母、なんだろう。シルヴィアにとっての、義理の母。


 あとで、エマに聞いて、名を知った。ローザ、というらしい。


「お、お気遣い、ありがとうございます。……大丈夫です」


 私が、そう答えると、ローザは、ほっとしたような、それでいて、まだ少し困ったような、複雑な笑みを、浮かべた。


 食事が、始まった。


 ……正直、気まずかった。


 コンラートは、無口だ。何か話そうとして、口を開きかけては、結局、何も言えずに、また閉じる。ローザは、その沈黙を埋めようと、あれこれ話題を振っては、空回りして、おろおろする。フレデリカは、つんと澄ましたまま、ほとんど口をきかない。


(……再婚家庭の、気まずさ、満載だ)


 血の繋がらない、母と娘。先妻の子と、後妻と、その娘。みんな、お互いに、気を遣って、でも、どう接していいか、わからなくて。


 ぎくしゃくした、けれど——どこか、悪意のない、家族だった。


 誰も、悪い人じゃない。ただ、不器用なだけ。父も、継母も、たぶん——フレデリカも。


(……シルヴィアは、この中で、どんな気持ちで、過ごしてたのかな)


 ふと、そんなことを、思った。


 優しくて、好奇心旺盛だった、シルヴィア。この、ぎくしゃくした食卓で。実母を亡くし、新しい家族に、気を遣いながら。だから、息が詰まって——変装して、街へ、逃げ出していたんだろうか。


 その答えは、わからない。


 ただ、フレデリカが、一度だけ。私が、スープを口に運ぶのを、ちらりと、見たような気がした。けれど、目を向けると、彼女は、すいと、視線を逸らしてしまった。


(……まあ、嫌われてるしね)


 私は、深く考えず、食事を、続けた。


-----


 夕食が、終わると。


 エマが、にこやかに、告げた。


「では、お嬢様。お風呂の、ご用意が、できておりますよ」


「……お風呂?」


 その言葉に、私は——少し、身構えた。


 というのも。貴族のお風呂、というものが、どういうものか。私には、まるで、見当が、つかなかったからだ。


 そして、案内された浴室で、私の不安は、的中した。


「では、お召し物を。お手伝いいたします」


「え」


「お背中を、お流しいたしますね。それから、髪も」


(……え、ええ?!)


 エマが、当然のように、私の世話を、焼こうとする。つまり——一人で、入らせて、もらえない。誰かに、裸を見られ、洗われ、世話をされる。それが、この世界の、貴族令嬢の、入浴らしい。


(む、無理! 恥ずかしい!)


 元・量産型JKの、庶民感覚が、全力で、悲鳴を上げた。一人で、さっと、湯船に浸かりたい。誰かに洗われるなんて、いたたまれない。


「あ、あの、エマ。今日は……自分で、入りたいの。その……記憶を、失くしてから、人に、触れられるのが、少し、こわくて」


 苦し紛れの、言い訳だった。でも、エマは、はっとして。


「まあ……! そう、ですよね。申し訳ありません、配慮が、足りず。……では、すぐ外に、おりますから。何かあれば、お呼びください」


(……セーフ)


 記憶喪失、本当に、便利だ。今日、何度、この盾に、救われただろう。


 一人になって、私は、おそるおそる、湯に、身を沈めた。


 ……温かかった。


 じんわりと、強張っていた身体が、ほどけていく。香油の、優しい匂い。広い、贅沢な、浴室。


 元の世界の、狭いユニットバスとは、何もかも、違う。でも——お湯の温かさだけは、同じだった。


(……はあ)


 久しぶりに、心の底から、息を、吐いた。


-----


 その夜。


 ふかふかの寝具に、身を、横たえる。


 今日も、なんとか、乗り切った。記憶喪失を盾に、父を、継母を、フレデリカを、ユリ——いや、ユリウスは、明日か。とにかく、たくさんの人を、相手に、演じ続けた。


 ようやく、一人きり。


 張り詰めていた緊張が、ゆっくりと、ほどけていく。


 そして——緊張が、ほどけたとき。


 ふいに、冷静な「私」が、戻ってきた。


(……私、これから、どうなるんだろう)


 暗い天井を、見上げながら。初めて、ちゃんと、考えた。


 この身体で、いつまで、生きていくんだろう。シルヴィアの「時間がない」身体で。記憶喪失を、いつまで、演じ続けるんだろう。暗号は、解けるんだろうか。託された「何か」を、私は、背負いきれるんだろうか。


 そして——もっと、根本的な、問い。


(元の世界は……どうなったんだろう)


 私が、いなくなった、元の世界。


 お父さん。お母さん。あの、不器用だけど優しい両親は、今頃。


 突然、いなくなった娘を、探しているだろうか。泣いているだろうか。


 それから——妹。


 二つ下の、妹。素直じゃなくて、いつも、私につっかかってきて。「お姉ちゃんなんて」って、生意気ばかり言って。でも、私が落ち込んでると、こっそり、お菓子を、机に置いていくような。そんな、可愛い、妹。


(……あの子、今頃、どうしてるかな)


 胸の奥が、ぎゅう、と、痛んだ。


 それに——劇団。


 最近、入った、市民劇団。来月の、公演が、近かった。私の、役も、あった。小さな役だけど、初めての、外部公演で。あんなに、楽しみにしていたのに。


(……私が、いなくなって。公演、どうなったんだろう)


 代役を、立てたんだろうか。それとも、迷惑を、かけたんだろうか。みんな、困っているだろうか。


 考え始めると、止まらなかった。


 元の世界に、置いてきた、たくさんのもの。家族。妹。友達。劇団。何気ない、日常。コンビニも、スマホも、エアコンも。


 もう、二度と、戻れないかもしれない、それら。


(……帰りたい、な)


 ぽつり、と。


 心の中で、呟いた。


 昼間は、考える暇もなかった。生き延びるのに、必死で。でも、夜の、静けさの中で、一人になると——こらえていたものが、じわりと、滲んでくる。


 目尻に、熱いものが、溜まった。


 でも、私は、こぼさなかった。ぐっと、まばたきで、押し戻した。


(……泣くのは、違う)


 泣いたって、帰れない。それは、わかっている。それに——シルヴィアだって。あの、泣きながら笑った、シルヴィアだって。きっと、たくさんの「帰りたい」を、抱えて、それでも、笑って、私に、託したんだ。


 なら。


(……今は、まだ。泣かない)


 私は、寝返りを、打った。


 窓の外に、二つの月が、寄り添うように、浮かんでいた。元の世界の、たった一つの月とは、違う。それでも、月は、月だった。同じ夜空を、見ているような、気が、少しだけ、した。


(……おやすみ。お父さん。お母さん。それから——生意気な、妹)


 届くはずのない、おやすみを、心の中で、呟いて。


 私は、目を、閉じた。


 明日もまた、幕は、上がる。


 でも——今だけは。ほんの少しだけ。


 池崎緑に、戻らせて、ほしかった。

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