おやすみなさい
※今回は少し怖い描写があります。苦手な方はご注意を。
黒い靄が、津波のように——私たちへと、襲いかかってきた。
身構える。来る。そう、思った。
なのに。
……シンッ。
唐突に。世界から、音が、消えた。
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……。
…………。
………………。
風の音も。仲間の息遣いも。何もかもが、ふつり、と途切れる。
目の前が、墨を流したように。真っ黒に、塗りつぶされていく。
(……え。みんな……?)
さっき隣にいた、ユリウスも。ピピも、フェンも、シルヴィアも。誰もいない。ただ、どこまでも続く、黒い闇の中に。私は、一人で立っていた。
しん、と。静まり返った、闇。
その静けさが、なぜか——たまらなく、怖い。耳が痛いくらいの、無音。
自分の心臓の音だけが。
やけに、大きく。
響いている。
ことり。
どこかで。何かが——動いた、気がした。
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ふと。
目の前が、明るくなった。
(……あれ。ここ)
見慣れた景色。元の世界。わたしの部屋。窓の外には、見慣れた街並み。テーブルには、家族がいる。無口な父。二つ下の、生意気な妹。
(……お父さん。お母さん……みんな)
懐かしさに、胸が詰まる。ああ、帰ってこれたんだ。そう思った——その、ときだった。
みんなが、ゆっくりと、こちらを向く。
「……どうして」
妹の目から。つう、と、赤い——血の涙が、流れた。
「どうして、私たちを、捨てたの?」
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ぞわ、と。背筋が——凍る。
父も、母も。みんな、みんな。眼窩から、どろりと血を溢れさせながら。私を、責めるように見つめている。
「捨てて、いったくせに」
「もう、帰ってこないくせに」
「お前の、居場所なんて——どこにも、ない」
(……ちが……っ、わたしは……!)
声が、出ない。喉が、貼りついたように。みんなの血の涙が、責める声が。わたしの胸を、ぐちゃぐちゃに抉っていく。
みんなの手が、ゆらり、と——こちらへ伸びてくる。冷たい指先が、わたしの足首を。腕を。首を——掴んで。ずる、ずる、と。暗いどこかへ、引きずり込もうと——。
「いや……いやぁっ——!」
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はっ、と。目を、開ける。
(……っ、はあ、はあ……)
草原だった。陽の光。風。そばには、ユリウス。ピピ。フェン。シルヴィア。
(……夢? よかった……今のは、悪い夢……)
全身から、力が、抜ける。よかった。みんな、無事だ。安堵が、胸に、広がって——。
「みどり?」
ピピが、不思議そうに、私を、覗き込む。
「どうしたの? そんな、怖い顔して」
「ううん。なんでも——」
ない。そう、言いかけて。
ぼたり。
ピピの——身体が。半分から、ぐずりと、崩れた。泥のように。溶けて。
「な……っ!?」
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「みど、り……たすけ……」
ピピの声が、途切れる。フェンが。シルヴィアが。ユリウスが。次々と、どろどろに溶けて、崩れて。地面に——黒い染みに、なっていく。
「いやっ、やめて! みんな——!!」
手を、伸ばす。届かない。掬おうとした、その手の中で。みんなが、指の隙間から——こぼれ落ちて、消えていく。
『——ほぅら。言ったでしょう』
どこからか。声が、響く。底冷えのする、女の声。
『あなたの、そばにいると。みぃんな、こうなるの。あなたが、関わったから。あなたが、選んだから。——だから、死ぬのよ』
「ちが……っ、ちがう……!」
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ふと。
背後に——誰かの、気配。
振り向いた。そこに——ユリウスが、立っていた。
「ユリウス、様……!」
よかった。無事だった。そう思って、駆け寄ろうと——した、瞬間。
ユリウスの瞳が。氷のように、冷たく私を見据えた。
「……近寄るな」
「……え?」
「君は——シルヴィアの、偽物だ」
どくん、と。心臓が。嫌な音を、立てた。
「最初から、わかってた。君は、シルヴィアじゃない。その身体を乗っ取った——別の、何か。気持ち悪い。よくも、ずっと騙してくれたな」
「ちが……っ、わたし、は……」
「僕が、愛しているのは。シルヴィアだけだ。君なんかじゃ、ない。……返せよ」
ユリウスの声が。憎しみに、染まる。
「シルヴィアを——返せ! お前さえ、いなければ! お前が、シルヴィアを、奪ったんだ!」
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(……あ……ああ……)
それは。わたしが、いちばん——言われたくなかった、言葉。
ずっと、心の奥底に。澱のように沈めていた、恐怖。わたしは、しょせん——借り物。まがいもの。本物の、シルヴィアじゃ、ない。
「あなたは、あなた」。そう、言ってもらえた、はずなのに。その温もりさえ、今は。指の間から、こぼれ落ちていく。
「ごめん、なさい……わたし、わたし……」
謝ることしか、できない。だって——本当に。わたしは、偽物だから。ユリウスの言う、とおりだから。
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また——闇。
はっ、と、気づくと。私は、また。真っ黒な、闇の中に。立っていた。
(……今のも。夢……?)
わからない。どこからが夢で、どこからが現実なのか。さっき目を覚ましたのも、きっと——夢の中。じゃあ、今は? 今のこれは、現実? それとも——。
ずぶり。
足元が。沼のように——沈んだ。
「……っ!?」
黒い、ぬかるみ。それが、わたしの足を。膝を。腰を。ゆっくりと、呑み込んでいく。もがく。抜けない。むしろ、もがくほど——深く、沈む。
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ずる。ずる。
(……たす、けて)
誰か。誰でもいい。声を——出そうとする。でも、喉からは。掠れた、息しか、出ない。
みんなの顔が、浮かぶ。エマ。フレデリカお姉様。コンラート様。ピピ。フェン。シルヴィア。ユリウス様。イザベラ。
(……みんな……)
会いたい。もう一度。でも——その顔も。一つ、また一つ。闇に溶けて、霞んで——思い出せなく、なっていく。
(……あれ。わたし。誰の顔を……思い出そうと……)
名前が。記憶が。大切だった、はずのものが。ぜんぶ——闇に、吸い取られて、いく。
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もう、いいや。
ふっ、と。そんな、考えが。浮かんだ。
もう、疲れた。ずっと、必死だった。知らない世界で、借り物の身体で。気を張って、演じて、戦って。……もう、十分頑張った。じゃ、ないか。
ここで、目を、閉じれば。きっと——楽に、なれる。誰も、傷つかない。誰も、死なない。わたしさえ、いなくなれば——。
ずぶずぶと。闇が、胸まで、迫る。
わたしは——ゆっくりと。目を、閉じようと、して。
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その、ときだった。
ずる……。
闇の、どこかで。何かが——蠢いた。
(……何?)
ずるり……。
粘ついた、音。何かが。ゆっくりと——こちらへ。近づいて、くる。
(……いや。もう……こないで……)
ずる……ずる……。
音は。止まらない。確実に。一歩、また一歩。私の方へ——。
そして。
闇の中に。ゆらり、と。深紅の、ドレスが——浮かび上がった。
王妃だった。でも——夜会で、見た姿とは。どこか、違う。
顔の、輪郭が。能面のように、のっぺりと。表情が、ない。瞳は、どこも見ていない。虚空を、映したまま。そして、その白目は——墨を流したように。真っ黒に、染まっていた。
人間の、顔じゃ、ない。
ぞわり、と。生理的な、嫌悪が。背筋を、這い上がる。
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『……ふふ』
王妃の唇だけが。ゆっくりと、三日月に吊り上がった。瞳は、虚ろなまま。笑っている、はずなのに。少しも、笑っていない。
こてり。
王妃が。首を、横に——傾けた。人形が、糸で吊られて、傾くように。不自然な、角度で。
じっと。私を——見ている。いや、見ていない。その黒い瞳には。何も、映っていない。
(……っ)
声が、出ない。あまりの、不気味さに。喉が、凍りつく。
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『——だぁれも、来ないわ』
ぽつり、と。それだけを。囁いた。
くすくす、でも、げらげらでも、ない。ただ——静かに。感情の、ない声で。
こてり、と。今度は、反対側に。首を、傾ける。
そして——ゆっくりと。私の頬に。冷たい手を、添えた。氷のように、冷たい指。
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『おやすみなさい』
吐息のような、声。
王妃の、真っ黒な瞳が。すぐ、目の前に迫る。底のない、その闇に。私の意識が——吸い込まれていく。
(……あ……)
抗う、力は。もう、なかった。
ずぶり。
最後に、残った、わずかな視界も。黒く、塗りつぶされて——。
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しん、と。
静まり返った、闇の中で。
くすり、と。女の、笑う気配だけが。いつまでも。いつまでも——。




