草原の、答え
その夜。私は、机に向かって。あの手帳を、開いていた。
シルヴィアが遺した、暗号の手帳。少しずつ解き明かしてきた、彼女の言葉。
『だから、あなたを呼んだ』『生きて、ほしい』『わたしの代わりに、この身体で』『あなたにしか、できない』『この世界を……』
そこから先が。どうしても、読み解けなかった。
(……この世界を。どうするの、シルヴィア)
最後の一文。そこに、すべての答えが隠されている。そんな気が、していた。
-----
私は、手鏡を、取り出した。
修行を重ねて、今では。フェンの力を借りなくても、この鏡を通してシルヴィアと心を通わせられる。
「シルヴィア。いる?」
そっと呼びかける。鏡の中のほのかな光が、ゆらりと揺れた。
『……みどり』
優しい声が、胸の奥に直接響いてくる。あたたかくて、少し寂しげな。シルヴィアの声。
「暗号、また考えてたの。でも、最後のところが、どうしても解けなくて」
『……ごめんね。わたしも力になりたいけれど。あの暗号は……わたしが解いてあげることは、できないの』
「うん。知ってる。自分で、解かなきゃ、いけないんだよね」
-----
以前、シルヴィアは言っていた。暗号は自分では教えられない、と。全部あの手帳に込めたから、あなたの手で解いてほしい、と。
なぜ、そんなまどろっこしいことを。最初は、そう思った。でも今は、なんとなくわかる気がする。
これは、シルヴィアから私への最後の信頼なのだ。あなたなら、きっと解ける。あなたにしか、できない。そういう託す気持ちが、込められている。
「ねえ、シルヴィア」
私は、鏡に、語りかけた。
「あなたって、どんな人だったの? 記憶のない、わたしには。わからないこと、ばっかりで」
『……ふふ。どうしたの、急に』
「なんとなく。あなたのこと、もっと知りたくなって。だって、わたしはあなたの身体で。あなたの人生を引き継いで、生きてるんだもの」
-----
鏡の光が、柔らかく、揺れた。
『……わたしはね。臆病で。欲張りな、女の子だったわ』
「臆病で、欲張り?」
『大切なものを守りたかった。でも、自分の力ではどうにもできなくて。だから、あなたを頼ってしまった。こんな勝手な話に、巻き込んで』
その声には。深い、後悔と。それから——拭いきれない、申し訳なさが、にじんでいた。
「……巻き込まれた、なんて。思ってないよ」
私は、静かに、言った。
「最初は、たしかに。びっくりしたし、元の世界に帰りたいって思った。でも、今は。この世界で出会った人たちのこと、守りたいって思ってる。エマも。お父様も。お姉様も。ユリウス様も。……それは、わたしの本当の気持ち」
『……みどり』
「あなたが、わたしを選んでくれたから。わたしは、ここにいる。だから、後悔なんて、しないで」
-----
鏡の中の光が。ふるり、と、震えた。まるで——泣いている、みたいに。
『……ありがとう。あなたを、選んで。本当に……よかった』
その声が、あんまり優しくて。あんまり切なくて。私は、なぜだか胸が締めつけられた。
(……シルヴィア。どうして、そんな。今にも、消えてしまいそうな、声で)
まるで、お別れを惜しむような。そんな響きが、彼女の声にはいつもあった。気のせい、だろうか。
ふと。私は、前から、気になっていたことを。尋ねてみたくなった。
「ねえ、シルヴィア。あなたには……好きな人が、いたの?」
『……どうして?』
「ユリウス様が言ってたの。昔のあなたは、誰かに恋をしているような目をしてた、って」
鏡の光が。ほんの少し、揺れた。それから、ぽつり、と。
『……ええ。いたわ。でも……叶わない、恋だった』
(……っ)
叶わない、恋。その言葉に。胸が、ちくりと、した。
(……まさか)
ある考えが、浮かんで。私は、息を、のんだ。
(……シルヴィアの、好きだった人って。もしかして……ユリウス様?)
幼馴染。深い青の瞳の、優しい貴公子。シルヴィアが彼に恋をしていたとしても、何もおかしくない。むしろ、自然だ。
でも——叶わなかった。
三人は、昔は仲が良かった。なのに、シルヴィアとイザベラの間には。何か、深いわだかまりが生まれた。シルヴィアがイザベラを傷つけるような、そんな出来事が、あったらしい。
(……もしかして)
そのせいで。シルヴィアは、ユリウスへの想いを諦めて、身を引いたんじゃないだろうか。親友のイザベラを傷つけてしまった負い目から。自分は、幸せになってはいけない、と。
頭の中を色々な考えがぐるぐると回る。
(……だとしたら。あんまりだ)
胸が、ぎゅっと、なった。
(……そっか)
すとん、と。何かが胸に落ちた。重たい、何かが。
(……やっぱり。ユリウス様が、見ているのは。シルヴィア、なんだ)
昔も、そして今も。彼が想っているのは、この身体の本当の持ち主。わたし(中身)じゃ、ない。
わかって、いたはずなのに。改めて、突きつけられると。やっぱり——痛かった。
『……みどり?』
「あ。ううん。なんでも、ない」
私は、慌てて笑顔を繕った。けれど、胸の奥の鈍い痛みは。しばらく、消えなかった。
「……シルヴィア。暗号を、解いたら。どうなるの?」
私は、思いきって、尋ねてみた。
『……それは』
シルヴィアは、少し、口ごもった。
『……解いたとき。きっと、わかるわ。今は——まだ、言えないの。ごめんね』
(……また、はぐらかされた)
でも、それ以上は聞けなかった。シルヴィアの声が、あんまり優しくて。何か大切なことを隠している、そんな気がしたけど。問い詰めるのは、なんだか怖かった。
-----
「……ねえ、シルヴィア。最後の暗号。本当に、この手帳だけで、解けるの?」
ふと、浮かんだ、疑問を、口にした。
ここまでは、手帳の文字を丁寧に追えば解けた。でも、最後の一文だけは。何度見返しても、糸口すらつかめない。まるで、足りないピースがどこかにあるみたいに。
『…………』
シルヴィアは、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと。
『……みどり。あなたは、聡い子ね。……ええ。最後のひとつだけは、この手帳には書けなかった。書いたら、気づかれてしまうから』
「気づかれる? 誰に」
『……それも、今は、言えない。でもね』
鏡の光が、ゆっくりと、ある方向を指し示すように揺れた。
『あなたが、初めて、精霊と心を通わせた場所。あそこに——きっと、答えがあるわ』
-----
(……初めて、精霊と心を通わせた場所)
脳裏に浮かんだのは、あの草原だった。
風に揺れる緑の草。きらめく湖。そして、そこで出会ったピピ。私がこの世界で初めて、心を通わせた精霊。
なぜか、あの場所のことは。記憶を失った今でも、妙に心に焼きついている。穏やかで、優しくて。どこか、懐かしいような。
「あの、草原に。答えが……?」
『ええ。でも、今はまだ。その時じゃないわ。あなたがもっと力をつけて、覚悟が決まったとき。きっと、導かれる』
シルヴィアの声は。静かで。でも——確信に、満ちていた。
(……あの草原)
私は、窓の外に、目を、やった。
夜空の、どこか。あの草原の、方角を。見つめるように。
-----
『みどり、まだ起きてるのー?』
いつのまにか、ピピが、ぽてぽてと枕元にやってきた。眠そうに、目をこすっている。
「あ。ごめん、ピピ。起こしちゃった?」
『ううん。……ねえ、みどり。なんだか今日のみどり、あの草原のこと考えてる?』
「……えっ。なんで、わかったの?」
『なんとなく。……僕もね、たまに思い出すんだ。あの場所のこと。すごく大事な場所だった気がするんだけど。……うまく、思い出せないんだ』
(……ピピも?)
不思議そうに首をかしげる、ピピ。その、あどけない瞳の奥に。ほんの一瞬、何か遠くを見るような色が、よぎった気がした。
(……気のせい、かな)
でも。なんだろう。ピピと、あの草原。そして——最後の暗号。
ばらばらの点が、また、ひとつ。静かに繋がろうとしている。そんな予感が、した。
「……ピピ。いつか、一緒に。あの草原に、行こうね」
『うん! 行こう、みどり!』
無邪気に笑うピピを、そっと抱き寄せて。
私は、まだ見ぬ答えの待つあの場所に。静かに、想いを馳せた。




