公爵家の招き
エマの、誘拐騒ぎから。しばらく、経った頃。
グランツ公爵家から、正式な、招待状が、届いた。
「……公爵家から?」
差出人を見て、私は戸惑った。グランツ家。ユリウスの生家。四大公爵家の一つで、この国でも指折りの名門だ。
招待状には、丁寧な文字でこう記されていた。「先の騒動の折、ご令嬢に世話になった。ぜひお礼を申し上げたい」と。
(……エマのこと、かな)
あの夜、ユリウスが救出を手伝ってくれた。その縁でだろうか。一介の伯爵令嬢が公爵家に招かれるなんて、本来ならありえないことだ。
『わあ、みどり。すごいお家に行くんだね!』
ピピが、無邪気に、はしゃぐ。
(……緊張、するなあ)
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グランツ公爵邸は、壮麗だった。
手入れの行き届いた広大な庭園。重厚な石造りの館。グリュンヴァルト家も貴族の家だけれど、格が違う。さすがは、四大公爵家。
通された、応接室で。私を、迎えてくれたのは。
「よく来てくれたね、シルヴィア嬢」
ユリウスによく似た、深い青の瞳の紳士だった。けれど、その瞳には。ユリウスよりずっと長く生きた者の、落ち着きと威厳が宿っている。
「父のグランツ公爵だ。といっても、君が幼い頃から知っているはずなんだがね。記憶がないと聞いた。なら、改めて、だ」
公爵は、目尻に、皺を寄せて、笑った。
「久しぶりね、シルヴィア嬢。ユリウスの母です。あなたが小さかった頃を知っているのよ。……もっとも、あなたは覚えていないでしょうけれど」
隣で柔らかく微笑んだのは、品のいい夫人だった。聡明そうなまなざし。それでいて、どこか人をほっとさせる温かさがある。
(……ユリウスの、ご両親)
昔は、私もこの方たちと面識があったのだ。三人で遊んでいたなら当然だ。でも、今の私にはその記憶はない。申し訳なさと不思議な感覚が、入り混じる。
私は、慌てて、淑女の礼をした。
「ご無沙汰しております。シルヴィア・グリュンヴァルトと申します。……記憶がおぼつかず、失礼がありましたら、お許しください」
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「そう、畏まらないでくれ」
公爵は、鷹揚に、笑った。
「先日は、息子が世話になったね。いや、正しくは。こちらが礼を言う番か。君の侍女が危ない目に遭ったと聞いた。その救出にユリウスが関われたことを、私は誇りに思っている」
「いえ。むしろ、ユリウス様には助けていただいて。お礼を言わなければならないのは、わたしの方で……」
「ふふ。親子で、お礼の、譲り合いだな」
夫人が、おっとりと笑った。場が、ふわりと和む。
「ユリウスから聞いていますよ。あなたが、とても勇敢なお嬢さんだと。侍女のために、危険を顧みず立ち向かったと」
(……ユリウスが、そんなことを)
頬が、熱くなる。
「それに、あの子が。あんなに誰かのことを楽しそうに話すのは。久しぶり、でしたから」
夫人の、言葉に。私は、どきりと、した。
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お茶をいただきながら、話は自然と昔のことに移った。
「シルヴィア嬢。君は、記憶を、失くしたと、聞いたが」
「はい。お恥ずかしながら。昔のことが、ほとんど」
「そうか。……なら、知らないかもしれないな。君とユリウスと、それからイザベラ王女が。幼い頃、よく三人で遊んでいたことを」
(……三人で)
知っている。でも、大人の口から聞くのは初めてだ。私は黙って、続きを待った。
「あの頃は、本当に仲が良くてね。特に、君のお母上がご存命の頃は」
(……お母様)
心臓が、小さく、跳ねた。
「君のお母上は。それは聡明で、心の優しい方だった。身分の隔てなく、誰にでも分け隔てなく接する。……今の君を見ていると。ああ、あの方の娘さんだな、と。そう思うよ」
(……シルヴィアの、お母様)
優しい人だったんだ。シルヴィアの母は。その面影を、今の私(中身は別人だけど)にまで重ねてもらえるなんて。なんだか不思議で、そして少しだけ誇らしかった。
「……ああ、そうそう」
夫人が、懐かしそうに、目を細めた。
「あの頃は、王妃殿下とも親しくしていらしたのよ。お母上と王妃殿下は、それは仲のよいご友人で。お二人で庭園を歩いていらした姿を、今でも覚えているわ」
(……王妃と、お母様が?)
どくん、と。心臓が、跳ねた。
思わず、手にしていた、ティーカップを。落としそうに、なる。
あの王妃が。あの、底知れない虚ろな瞳の。むせ返るような闇の気配をまとった、あの人が。シルヴィアの母と、友人?
(……うそ。だって、あの人は)
頭が、混乱した。
母を奪った「あの人」。暗号が警告した存在。私がずっと追ってきた、すべての元凶。その正体は王妃かもしれない、と。私は、そう思い始めていた。
なのに——その王妃が。かつては、母の、親しい、友人だった?
(……どういう、こと。仲が、よかったのに……?)
母の死。王妃の変貌。二つの点が、私の中で激しくぶつかり合う。けれど、線にはならない。むしろ、わからなくなる。
もし——本当に、親友だったなら。なぜ。どうして——こんなことに。
「……今の、王妃殿下からは。少し、信じられない、かもしれないわね」
夫人も、ふと言葉を濁した。まるで、王妃も昔とは変わってしまった、とでも言いたげに。
(……変わって、しまった)
その言葉が。やけに——重く、響いた。
みんな、変わってしまった。イザベラも。そして、王妃も。母が亡くなった、あの頃を境に。
(……まさか。お母様の死が。何か……?)
ぞわり、と。背筋を、冷たいものが、伝った。
何か、とてつもなく大きなものの。輪郭に、触れかけている。そんな気が、した。でも、それが何なのかは。まだ、わからなかった。
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「お母上が、亡くなってから。少しずつ——みんな、変わっていった。特に、イザベラ王女は」
公爵の、声が。少し、沈んだ。
「昔は明るくて、まっすぐな子だった。それが、いつからか人が変わったようになってしまって」
(……イザベラ)
ユリウスも言っていた。「昔は、あんなじゃなかった」と。やっぱりイザベラは、どこかで大きく変わってしまったのだ。何かに蝕まれるように。
(……何が、あったんだろう)
その「何か」が、きっと。今、この世界を覆おうとしている闇と、無関係ではないはずだ。でも、それはまだ。確信のない予感にすぎない。
公爵夫妻も、さすがにそこまでは知らない様子だった。ただ純粋に、変わってしまった王女を案じ。そして、亡き友人(シルヴィアの母)を懐かしんでいる。それだけだった。
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和やかな、時間。けれど——その中で。私は、ひとつ。気になることを、知ってしまった。
お茶の席で、使用人が何気なく口にした言葉。
「——ユリウス様と、イザベラ王女殿下の、ご婚約の件は。その後、いかが……」
その瞬間。場の、空気が。わずかに、張りつめた。
(……婚約?)
公爵が、すっと、表情を、引き締める。
「……その話は。今は、よい」
使用人が、慌てて下がる。気まずい沈黙。それを取りなすように、夫人が静かに口を開いた。
「……お聞かせしてしまいましたね。ええ、お恥ずかしい話。王家から、ユリウスをイザベラ王女の婚約者に、と。そういうお話が、ずっと来ているのです」
(……っ)
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胸が、ずきりと、痛んだ。
ユリウスと、イザベラの——婚約。
「でも、ご安心を。私たちも、できる限り、お断りしています。今は、なんとか『候補』のままで、留めていますわ」
夫人は、穏やかに微笑んだ。けれど、その言葉の裏ににじむ苦労が、私にもわかった。
そして——公爵が。少し、声を、落とした。
「……正直に言おう。あの子にその気がないというのも、ある。だが、それだけではない。近頃の王家には。どうにも……不穏な空気が、ある」
(……不穏な、空気)
「うまくは言えん。だが、王妃殿下が実権を握られてから。何かが、おかしい。王はめったに表に出られず、決定の多くがあの方のお考えで進む。……このようなときに、安易に王家と縁を結ぶのは。賢明とは、思えん。当主として、慎重にならざるを得ないのだ」
(……っ)
胸が、どきりと、した。
公爵も感じている。今の王家の、おかしさを。あの王妃の、不穏な何かを。理屈ではなく、為政者としての勘で。
お父様と、同じだ。みんな気づいている、言葉にできないまま。あの王妃の奥に潜む、何か得体の知れないものに。
王家からの縁談。四大公爵家といえど、いや、四大公爵家だからこそ。むげには断れない。それでも——この、不穏を、感じ取っているからこそ。必死で抵抗して、やっとの思いで「候補」というぎりぎりの線で食い止めている。それが、限界なのだ。
(……そうだったんだ)
ユリウスには。王家からの——婚約の、話が。重く、のしかかっていた。
そんな人に。私みたいな一介の伯爵令嬢が、淡い想いを抱いているなんて。
(……身の程、知らずも。いいところ、だ)
ずきずきと——胸が、痛む。
わかっていた、はずだ。ユリウスとは住む世界が違う。彼が見ているのはシルヴィア(のガワ)で、中身の私じゃない。その上、婚約話まで。
(……期待なんて。最初から。しちゃ、いけなかったんだ)
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「……シルヴィア嬢?」
「あ——す、すみません。少し、ぼうっと、して」
慌てて、笑顔を繕う。令嬢の仮面。演者の技術。
「いいえ。こちらこそ。気詰まりな、話を、して、しまったわね」
夫人が、気遣わしげに私を見た。その聡明なまなざしが、まるで私の胸の内まで見透かしているように感じて。私は思わず、目を伏せた。
帰り際。玄関まで見送りに出てくれた夫人が、ふと、私の手をそっと握った。
「シルヴィア嬢。……また、いらしてね。あなたと、話せて。とても、楽しかったわ」
「……はい。ありがとう、ございます」
その温かい手のぬくもりに、なぜか泣きそうになった。
優しくされるほど、近づけるほど、思い知る。私は、この人たちの輪の中に。本当には入れないのだ、と。
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帰りの、馬車。
窓の外を流れる景色を、私はぼんやりと眺めていた。
『……みどり。元気、ない?』
ピピが、心配そうに、見上げる。
「……ううん。だいじょうぶ」
そう答えながら、私は知っていた。だいじょうぶなんかじゃ、ないことを。
ユリウスへの想い。それは、どんどん大きくなっていく。彼の優しさを知るほど、誠実さを知るほど。彼の家族の温かさに、触れるほど。
なのに——その想いは。きっと、永遠に。届かない。
住む世界の違い。王家からの婚約。そして、彼が見ているのは私じゃない、という事実。
(……それでも)
私は、窓の外を、見つめた。
届かなくても。報われなくても。この、気持ちは——たしかに、ここに、ある。
せめて——彼が。あの、優しい家族と。穏やかな、未来を、過ごせますように。
たとえ、その、隣に。私が——いられなくても。
夕暮れの、空が。じんわりと——滲んで、見えた。




