さらわれた、侍女
異変は、街だけじゃ、なかった。
闇の靄が、広がるにつれて。人々の心が、すさんでいく。街の、治安も。日に日に、悪くなっていた。
物騒な噂を、よく聞くようになった。夜道で人が襲われた。子供がいなくなった。質の悪いよそ者が、増えた。
(……闇が。こんなところにまで)
精霊が見えない普通の人たちには、原因なんてわからない。ただ、なんとなく世の中がぎすぎすして、不穏になっていく。その本当の理由を知っているのは、私みたいなごく一部だけ。
でも。まさか。それが。こんなに、身近に、降りかかってくるなんて。
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その日。エマが、帰ってこなかった。
午後に、近くの市場へ、買い物に。そう言って、出かけたきり。日が暮れても。夜になっても。戻らなかった。
「……エマ。どこにいるの」
胸騒ぎが、する。あの、しっかり者のエマが。何も言わずに、こんなに遅くなるなんて。ありえない。
『みどり。僕、探してみる!』
ピピが、すぐに、飛び出した。気配を、たどる、ピピの力。けれど。
『……だめだ。気配が、薄い。それに……街の、靄が、邪魔して。うまく、たどれないよ』
(……っ)
闇の靄が。ピピの力まで、阻んでいる。こんなときに。
『……みどり。落ち着け』
フェンが、現れた。
『気配がたどれないなら、別の手でたどる。私が、街じゅうの “音” を拾ってやる。エマの声。手がかりになりそうな会話。何か、引っかかるはずだ』
「……お願い、フェン!」
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フェンが、風に乗せて。街の、無数の音を、拾っていく。
その間に。私は、屋敷の者に、聞き込みを、した。エマを、最後に見た人。市場の、様子。
やがて——フェンが、戻ってきた。その顔は、険しい。
『……みどり。よくない、話だ』
「何か、わかったの?」
『市場の裏通りで、若い侍女が数人がかりで連れ去られた、という話を拾った。……時間も、特徴も。エマと一致する』
(……連れ去られた)
血の気が、引いた。
『それと——もう一つ』
フェンの、声が、低くなる。
『連れ去った連中。どうやら——人を売り買いする輩、らしい。最近、街の治安が乱れて。そういう汚れ仕事をする者が、幅を利かせ始めている』
(……人を、売り買い)
ぞっと、した。
エマが。そんな、連中に。
(……早く。助けないと)
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でも——おかしい。
ただの、人さらいに。なぜ、エマが。屋敷に仕える、侍女を、狙うなんて。たまたま?
考えていた、そのとき。一通の走り書きが、屋敷に届けられた。差出人は——書いていない。けれど、その品のいい筆跡に。見覚えが、あった。
短い、一文。
『あなたの、大切な侍女は、預かったわ。身の程を、思い知るといい』
(……これは)
ぴん、と、来た。
この、傲慢な、もの言い。私を、見下す、響き。間違い、ない。
(……イザベラ、王女)
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なぜ。イザベラが。
彼女とは——お茶会で、対峙して、以来だ。私を、嫌っているのは。わかっていた。でも。エマを、さらうほど——?
(……わからない。でも)
理由は、後だ。今は——エマを、助けるのが、先。
私は、すぐに、動こうとした。けれど。
相手は——王女。一介の伯爵令嬢の私が、どう立ち向かえばいい。下手に動けば、エマだけじゃなく私も危ない。屋敷に、迷惑がかかるかも。
(……でも。エマを、見捨てるなんて。できない)
迷い。焦り。そんな私の心に、すっと黒い靄が、忍び寄ろうとするのを感じた。
(……っ。だめ。呑まれない)
心を、鎮める。修行した通りに。落ち着け。冷静に、考えるんだ。
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そのとき。
「——シルヴィア!」
慌ただしい、足音とともに。客間に、駆け込んできた人が、いた。
「ユリウス様……?」
ユリウスだった。息を切らして。いつもの、穏やかさは、どこにもない。
「無事か。……よかった、君は、無事だったんだね」
(……どうして、ここに)
聞けば。近頃の街の治安の悪化を。調べて、回っていたのだという。
「最近、領内が、ひどく物騒でね。夜盗に、人さらい。原因がつかめないまま、被害ばかりが増えている。……公爵家として、放ってはおけない。それで、自分の足で街を見て回っていたんだ」
(……そうだったんだ)
いつも、街でばったり会うのも。お忍びでふらついている、わけじゃなかった。彼はずっと、民のために。この、得体の知れない不穏の正体を、探っていたのだ。
精霊が見えない彼には、闇の靄のことまではわからない。それでも、その影響が引き起こす、現実の惨状に。誰よりも早く気づいて、動いていた。
(……まっすぐな、人だな)
「その、調べの途中で。君の屋敷が騒がしいと聞いて。何かあったのかと、駆けつけたんだ」
「侍女が、さらわれたと——本当か」
「……はい。たぶん。イザベラ王女殿下に」
ユリウスの、表情が。さっと引き締まった。
「……イザベラが」
彼は、少し、目を伏せて。それから低い声で呟いた。
「……イザベラは。昔はあんなじゃなかった。優しくて。まっすぐで。……いつから、変わってしまったんだろう」
(……ユリウス)
「でも——今は、それを、考えている場合じゃ、ない。君の侍女が、危ないんだろう」
ユリウスは。まっすぐ、私を、見た。あの、深い青の瞳で。
「僕も、手伝う。一緒に、助けに行こう」
「えっ。でも——ユリウス様を、巻き込むわけには」
「巻き込まれるさ。勝手にね」
ユリウスは。ふっと、笑った。こんなときなのに。どこか——頼もしい、笑み。
「言っただろう。君が困ったときは——僕を、頼ってくれ、って。……今が、そのときだ」
(……っ)
胸が、熱くなった。
一人じゃ、立ち向かえない、と。怯んでいた。でも——この人が。そばに、いてくれる。それだけで。こんなにも——心強い。
「……ありがとう、ございます。ユリウス様」
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出かける支度を、していると。
廊下で——フレデリカと、鉢合わせた。
「……どこへ、行くの。こんな、時間に」
その顔は。いつもの、ツンとした表情、じゃ、なかった。明らかに——心配して、いる。
「……エマが。さらわれて。助けに、行くんです」
「っ……。あなた、自分が何をしようとしているか、わかっているの。危ないわ。よりにもよって、こんな物騒なご時世に」
「でも——行かないと。エマを、見捨てられません」
フレデリカは。何か言いかけて——ぐっと、唇を、噛んだ。それから、絞り出すように。
「……無事に。帰ってきなさい。絶対に。……心配——させないで」
(……フレデリカ)
「……はい。必ず」
私は、頷いた。
フレデリカの、その、不器用な、優しさを。背中に、受けて。
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屋敷を出る。空には、分厚い雲。星も、月も見えない。まるで、これから向かう先の闇を、暗示するように。
でも。
隣には——ユリウスが、いる。肩には——ピピ。そして、フェンも。
(……待っててね、エマ)
私は、夜の、街へと。一歩を、踏み出した。
大切な人を、救うために。
迫りくる、闇の中へ。




