虚ろな、瞳
それは、突然届いた。
一通の、招待状。差出人を見て、血の気が引いた。
王妃殿下。
(……どうして。わたしに)
夜会で一度、遠目に見ただけ。言葉を交わしたことも、ない。あの、底知れない寒気を放つ王妃が。なぜ、名もなき伯爵令嬢の私を。
招待状には、こう、あった。「内輪の、お茶会に。ぜひ、シルヴィア嬢を」と。
(……断れない)
王妃からの、招待。一介の、令嬢が、断れるはずも、ない。
『……みどり』
肩の上で、ピピがいつになく強張った声で言った。
『……いやな、予感が、する。あの招待状から……ずっと。冷たい気配が、にじんでる』
(……うん。わたしも)
手鏡を、握りしめる。シルヴィアに相談しようか。でも。
(……シルヴィアを、不安にさせたく、ない)
あの優しい人は、きっと心配して、自分を責める。だから今は、黙っておこう。
代わりに、ぎゅっと拳を握った。
(……大丈夫。修行も、した。精霊王にも、会えた。今のわたしなら——)
恐れてばかりは、いられない。これも、前へ進むための一歩だ。
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約束の日。王城の、一室。
通されたのは、豪奢な、けれどどこか冷え冷えとした客間だった。
そして——そこに。
王妃が、いた。
深紅の、ドレス。結い上げた、艶やかな髪。整った、美しい顔。なのに——その瞳だけが。
底なしに、虚ろだった。
まるで、どこまでも深い井戸を覗き込んだような。光の届かない、闇。
(……っ)
その瞳と、目が、合った、瞬間。
ぞわり、と全身が粟立った。
以前、夜会で感じた、あの寒気。それが今は、比べ物にならないほど強く、私を包み込む。
修行で研ぎ澄ました、精霊士の目が。はっきりと捉えていた。
この人からは。あの、街の黒い靄と同じ。いや、それ以上の。深く、濃く淀んだ闇の気配が、溢れている。
(……この人、は)
『……みどり。だめ。気を、強く、持って』
ピピの震える声が、かろうじて私を現実に引き戻す。
(……うん。落ち着け。落ち着け、わたし)
心を、鎮める。修行した通りに、意識を研ぎ澄ます。そうしないと、この気配に呑み込まれそうだった。
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「……よく、来てくれたわね。シルヴィア」
王妃が、微笑んだ。
美しい微笑み。なのに、少しも温かくない。まるで、精巧な人形が。笑う真似を、しているような。
「お招き、ありがとう、ございます。王妃殿下」
私は令嬢の仮面を、必死に保ちながら。優雅に、礼をした。震えそうになる声を、抑えて。
「ふふ。そんなに、畏まらなくて、いいのよ。……ただ、ね。少し——あなたに。興味が、湧いたの」
(……興味)
「あなた——一度、倒れて。記憶を失くしたのでしょう? それなのに——最近は。ずいぶん、社交の場で活躍していると聞くわ。あちこちのお茶会に顔を出して。……まるで、人が変わったように、ね」
ぞくり、とした。
見られている。私の、動きを。誰かが王妃に報告しているのか。それとも王妃自身が、どこかで見ていたのか。
(……どこまで。知られてる)
「……記憶が、ないぶん。手探りで。一生懸命、なだけ、ですわ」
私は慎重に、答えた。当たり障りなく。何も悟られないように。
「あら。謙遜を。……いいえ。わたくしには、わかるの。あなたは——とても、賢い、子。それに——」
王妃の、虚ろな瞳が。すうっと細められた。
「何か。特別な——力を。持っているのではなくて?」
(……っ!)
心臓が、跳ねた。
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(……まさか。気づかれてる……?)
精霊士だと、この人は気づいているのか。それとも、カマをかけているだけ?
判断が、つかない。
でも、ここで動揺を見せたら、終わりだ。私は必死に、令嬢の仮面の奥で、表情を殺した。
「特別な、力——ですか? まさか。わたしなど、ただの。不調から、立ち直った、だけの。平凡な、娘ですわ」
にっこりと、完璧な微笑みで返す。演者の技術。心を、悟らせない。
王妃は——しばらく。じっと、私を、見つめていた。あの、底なしの瞳で。私の、奥の、奥まで——覗き込むように。
(……お願い。何も、見抜かないで)
その視線は。ただ、顔を見ているのとは違った。
まるで、私の内側。もっと奥の、魂の芯まで。直接、手を伸ばして探ろうとしているような。ぞわぞわとする、不快な感覚。
(……っ。やめて)
でも、次の瞬間。
その探る気配が、ふっと何かに阻まれたように、すっと引いた。
まるで、見えない壁が。私と王妃の間に、そっと立ちはだかったみたいに。
(……?)
何が起きたのか、わからない。ただ、王妃が、私の奥を。それ以上、覗き込めなかった。それだけは、なぜかはっきりと感じた。
(……何か……守られて、る?)
理由は、わからない。でも今、確かに何かが。あの覗き込む気配から、私を守ってくれた。
長い、沈黙。
やがて王妃は、ふっと興味を失ったように、視線を外した。
「……そう。それなら、いいの。ふふ。変なことを、聞いて——ごめんなさいね」
(……っ。はあ……)
危なかった。心臓が、まだ激しく鳴っている。
でも、なんとか。やり過ごせた、らしい。
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「ねえ、シルヴィア。一つ——忠告を、してあげる」
帰り際。王妃が、ふいに言った。
「この世界は。あなたが思うより、ずっと残酷で、無慈悲なの。……賢いあなたなら、わかるでしょう? 余計なことに、首を突っ込まない方がいい。身の丈に合った、穏やかな暮らしを。そうすれば——長く、生きられるわ」
(……長く、生きられる)
その言葉に。背筋が、凍りついた。
ただの忠告じゃ、ない。これは、警告だ。いや、あるいは——脅し。
「余計なことに、首を突っ込むな」。「そうすれば、長く生きられる」。
まるで、私が何かを嗅ぎ回っていることを、知っているかのような。そして、それをやめろ、と。さもなければ——と。
(……この人は。やっぱり)
確信は、まだない。でも。
この、底知れない闇の気配。私を探るような言動。そして、この警告。
すべてが、告げている。
この人こそが、きっと。私が追っている、何か大きなものの中心にいる、と。
「……ご忠告。ありがとう、ございます」
私は深く、頭を下げた。顔を見られないように。込み上げる恐怖と、それからかすかな怒りを、隠すために。
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王城を出て、馬車に乗り込んで。ようやく、大きく息を吐いた。
『……みどり。だいじょうぶ?』
「……うん。なんとか、ね」
全身が、汗でぐっしょりと濡れていた。あの客間にいたのは、ほんの短い間。なのに、何時間も緊張し続けたみたいに。どっと疲れが押し寄せる。
(……あの人)
王妃の、虚ろな瞳が。脳裏に焼きついて、離れない。
あの、深く濃い闇の気配。街の靄など、比べ物にならない。あれは——もしかしたら。
(……「あの人」、なの?)
暗号が、警告していた——「あの人」。母を、奪い。シルヴィアを、追い詰めた、存在。
まだ確信は、ない。でも今日、確かに一歩。その影に、近づいた気がした。
そして、同時に。
向こうも、私に。目をつけた。
(……これから。どうなるんだろう)
窓の外。王城の尖塔が、夕闇に黒くそびえている。
その、どこかで。あの虚ろな瞳が、今もじっと。私を見ているような。そんな、薄ら寒い予感がした。
静かに。でも確実に、何かが動き始めていた。




