鎮める、力
街で、あの、黒い靄を、見てから。
私は——修行に、いっそう、身を、入れるように、なった。
あんなものが——街に、出始めている。人の心を、煽り。蝕み。じわじわと——世界を、淀ませて、いく。シルヴィアは、言った。「もっと、増える。もっと、ひどくなる」と。
(……何か。私に、できることは)
ただ、怯えて、見ているだけなんて。耐えられなかった。
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「シルヴィア。……あの、黒い靄に。わたし、何か——できないかな」
手鏡を、握りしめて。私は、問いかけた。
『……みどり』
シルヴィアの声が。少し——躊躇うように、揺れた。
『正直に、言うとね。あれを——根っこから、祓うのは。今のあなたには、まだ……ううん。たぶん、わたしにも、できなかった。あれは——それくらい。手強い、ものなの』
(……やっぱり)
甘く、ないのは。わかっていた。低級とはいえ。あれは、精霊。私みたいな、駆け出しが。どうこう、できる相手じゃ、ない。
『……でも』
シルヴィアの声が。ふと——優しく、なった。
『一つだけ。あなたに——できることが、ある』
「……ほんと?」
『あの靄はね。人の、心の、隙間に。入り込んで——負の感情を、煽るの。不安。苛立ち。憎しみ。そういうものを——大きく、育てて。糧に、する』
(……糧に)
『でもね。逆に、言えば。煽られた心を——鎮めて、あげれば。靄は、糧を、失う。その人から——離れていく。あなたの力で。蝕まれた心を、そっと——元に、戻してあげるの』
(……心を、鎮める)
それは——覚えが、あった。
黒い靄を、見たとき。私の胸も、ざわついた。でも——シルヴィアに、教わった通りに。意識を、研ぎ澄まし、心を、鎮めたら。ざわめきは——すっと、引いた。
(……あれを。他の人にも)
『そう。自分の心を、鎮めたみたいに。今度は——他の人の、心に。そっと、寄り添って。鎮めて、あげる。……簡単じゃ、ないけど。あなたなら——きっと、できる』
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そこから——新しい、修行が、始まった。
心を、鎮める。自分のではなく——他者の、心を。
それは——思った以上に、難しかった。他人の、心の、ざわめきに。寄り添い。同調しすぎず。でも、突き放さず。そっと——鎮めていく。
何度も。何度も。シルヴィアの、導きと。ピピや、フェンの、助けを借りて。私は——その、感覚を。少しずつ、掴んでいった。
『……いいぞ、みどり』
フェンが——珍しく。素直に、褒めた。
『お前の、その力は。荒々しく、ねじ伏せる、力じゃ、ない。そっと、寄り添って——癒す、力だ。……まあ。お前らしい、力だな』
(……私らしい)
なんだか——嬉しかった。
倒す力じゃ、なくて。守る力。鎮める力。誰かを——そっと救う、力。それは——きっと。誰かと争うより、誰かを助けたい。そんな、私の——根っこと。同じ方向を、向いている。
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そして——ある日。
私は——その力を、試す日が、来た。
街の、外れ。小さな、広場で。一人の、若者が。うずくまって、いた。
まわりには——あの、黒い靄が。べったりと——まとわりついている。今までで、いちばん、濃い。
「……もう、嫌だ。何も、かも……どうでも、いい」
若者は——虚ろな目で。ぶつぶつと、呟いていた。生気の、ない顔。心が——闇に、呑まれかけて、いる。
(……あの人。あのままじゃ)
『……みどり。気を、つけろ』
フェンが、緊張した声で、言った。
『あの靄は——濃い。お前も、呑まれかねん。……やるなら。慎重に』
「……うん」
私は——ごくり、と。唾を、のんだ。怖く、ないと言えば。嘘になる。でも。
(……見過ごせ、ない)
目の前で。人が、苦しんで、いるのに。何も、しないなんて——できない。
私は、若者に——そっと、近づいた。
「……ピピ。フェン。手伝って」
『うん!』
『……やれやれ。仕方ない』
二匹の、気配が。ふわりと——私を、包む。心強い。
私は——目を、閉じて。意識を、研ぎ澄ませた。
若者の、心の——ざわめきを、感じる。不安。絶望。「どうでもいい」という——投げやりな、闇。それに、黒い靄が、まとわりついて。さらに——煽って、いる。
(……大丈夫。落ち着いて)
私は——そっと。その、ざわめきに、寄り添った。同調は——しない。呑まれない。ただ、静かに。温かく。包み込むように。
(……もう、大丈夫だよ。怖くない。あなたは——一人じゃ、ない)
言葉では、なく。心で。そっと——語りかける。
すると——。
若者の、まわりの、黒い靄が。ゆらり、と——揺れた。まるで——居心地が、悪く、なったみたいに。
糧を——失って、いく。煽るべき、心が。鎮まって、いくから。
やがて——黒い靄は。すうっと——若者から、剥がれ。空気に、溶けるように——薄れて、消えた。
(……っ。やった……!)
「……あれ。おれ。……何して、たんだっけ」
若者が——ぱちぱちと、瞬きを、した。虚ろだった、目に。光が——戻っている。
「……なんか。すごく、嫌な、気分だったような。……でも。あれ。なんで、こんなとこに」
彼は——不思議そうに、首を、かしげて。それから、ふらりと、立ち上がり。何事も、なかったように——歩いて、いった。
(……よかった)
へなへなと——力が、抜けた。
助けられた。あの人の、心を。闇から——引き戻せた。私の、力で。
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でも。
その、安堵は——長くは。続かなかった。
『……みどり。喜んでいるところ、悪いがね』
フェンが、ぽつり、と、言った。
『……あの靄。消えた、わけじゃ、ない』
(……え?)
『あの人から、離れただけだ。糧を失って——どこかへ。また、別の心の隙間を、探しにいっただけ。……根っこは。何も、変わっちゃいない』
(……あ)
その言葉に。私は——はっと、した。
そうだ。私が、したのは。あの、若者を——助けた、だけ。靄を、その人から、引き剥がした、だけ。
でも——靄、そのものは。消えて、いない。また、別の、誰かに。とりつくだろう。そして——靄は。きっと、どこかで。次々と——生まれ続けている。
(……根本を、どうにか、しなきゃ)
一人を、助けても。また、次。また、次。それでは——きりが、ない。
この、靄が——どこから、来るのか。なぜ、湧くのか。その、大元を——断たなければ。本当の、解決には——ならない。
(……「あの人」)
また——その、影が。頭を、よぎる。
すべての、元凶。母を、奪い。シルヴィアを、追い詰め。そして——この、靄を、生み出している(かもしれない)、何か。
(……結局。そこに、行き着くんだ)
私は——唇を、噛んだ。
目の前の、一人を、助ける、力は。手に、入れた。でも——それは。あくまで、対症療法。根っこを、断たなければ。世界は——蝕まれ続ける。
そして、その根っこは——きっと。私が、まだ、たどり着けていない。あの、暗号の、いちばん奥。「あの人」の、正体に——繋がっている。
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その夜。
私は——手鏡に、語りかけた。
「シルヴィア。……一人、助けられたよ。あなたの、教えてくれた、力で」
『……そう。よかった』
シルヴィアの声は。優しく——でも、どこか。切なげ、だった。
『でもね、みどり。あなたは、もう——気づいて、いるんでしょう』
「……うん」
私は、頷いた。
「一人ずつ、助けても。きりが、ない。根っこを——断たなきゃ。本当には、終わらない。……その根っこが。きっと——暗号の、奥に、ある」
『……ええ。その通りよ』
シルヴィアの声が。静かに——響いた。
『だから——お願い。焦らず。でも、止まらずに。一歩ずつ。暗号を——解き続けて。あなたが、たどり着いた、そのときに。きっと——すべてが、わかるから』
(……うん)
私は——手鏡を、ぎゅっと、抱きしめた。
道は——まだ、遠い。でも。確かに——私は。一歩ずつ。進んでいる。
目の前の、誰かを、救う、力を。手に入れて。そして——その先に、ある。大きな、戦いへと。
窓の外。二つの月が。今夜は——少しだけ。さっきの、若者の、瞳のように。澄んだ光を——取り戻して、いる気が、した。




