風の狐の、気づき
ローテンベルク家の、お茶会から、数日。
私は、久しぶりに、あの場所へ、足を、運んでいた。
シルヴィアの、隠れ家。
街の、外れ。精霊の力でしか、入れない、不思議な小部屋。シルヴィアが、誰にも知られずに遺した——秘密の空間。変装道具と。あの、不思議な手鏡が、置かれている場所。
(……ここなら、落ち着いて、向き合える)
私が、抱えてきたのは——例の、暗号の手帳。
お茶会で、過去の手がかりは、増えた。母の死。三人の、決別。「わざと、嫌われ役を、演じた」シルヴィア。でも——肝心の、核心には。まだ、届かない。
そして——この、暗号。「気をつけて。あの人に。お願い、あなたに託したい」。そこまで、読めて。その先は、ずっと——固く、閉ざされたまま。
(……もう一度。挑んでみよう)
ピピの力で、同じ気配の記号を、繋いで。一部は、読めた。でも——そこから、先は。ピピが、どれだけ、頑張っても。びくとも、しない。
『うう……。ごめんね、みどり。僕、これ以上は……気配、たどれないよ』
「ううん。十分だよ、ピピ。ここまで、来られたのは、あなたのおかげ」
ピピを、労いながら。私は、手帳を、見つめた。
残りの、記号の海。意味を結ばない、羅列。きっと——ここに、シルヴィアの、いちばん伝えたかったことが、隠れている。母のこと。イザベラのこと。そして——「託したい」、その続きが。
(……どうすれば)
手詰まり、だった。
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その、ときだった。
『——なんだ、それ』
ふわり、と。風が、頬を、撫でた。
フェンだった。気まぐれに、ふらりと、現れた、風の狐。私の、手元を、金色の目で、覗き込んでくる。
「ああ、フェン。これね、暗号なの。シルヴィアが、遺した……でも、もう、読めなくて」
『……ふうん』
フェンは、しばらく。手帳を、じっと、見つめていた。
いつもの、気だるげな様子とは、少し、違う。何かを——確かめるように。耳を、ぴくり、と、動かして。
『……みどり。これ。お前たちは、目で、読もうとしているのか?』
「え? ……うん。そうだけど。だって、文字、だもの」
『ふむ』
フェンは、ふっと、鼻を、鳴らした。
『なるほどね。だから、行き詰まる』
(……え?)
『いいか。私は、風の精霊。音を、聞く者だ。……この手帳からはね。文字の、形だけじゃない。“音”の、流れが——聞こえるんだよ』
(……音?)
『この記号たちは。並びを、目で追うんじゃ、ない。声に出して——読み上げる、ためのものだ。ほら。よく、ご覧』
フェンが、しなやかな尾で。手帳の、ある一節を、示した。
『同じ”響き”を持つ記号がある。お前たちが、気配で繋いだのは——本当は、“音”の繋がりだったんだ。気配と音は、近いものだからね。だから、途中までは読めた。でも——その先は。気配だけじゃ、足りない。“声に出して読む”という、最後の鍵が、要る』
(……声に、出して、読む)
頭の中で。何かが——かちり、と。噛み合う、音が、した。
そうだ。私は——演者だ。
台本を、ただ、黙読するんじゃ、ない。声に出し。音に乗せ。意味を、立ち上がらせる。それが——演技の、第一歩。
なのに、私は。この暗号を——ずっと、目だけで、追っていた。読み解こう、解読しよう、と。理屈で。頭で。
(……そうか。これは)
読むものじゃ、ない。
——口に、出す、ものだ。
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私は、フェンに、教わりながら。記号の、“音”を、一つずつ、拾い始めた。
同じ響きの、記号を。声に、乗せて。たどたどしく。それでも——舌に、乗せて、いく。
すると——不思議なことに。
今まで、意味を結ばなかった、記号の羅列が。音として、繋がった瞬間。すうっと——言葉に、なって、ほどけていく。
まるで——閉ざされていた、扉の、鍵穴に。ぴたりと、鍵が、合うように。
(……読める……!)
声に出して、読み上げた、その先に。
新しい、シルヴィアの、言葉が——姿を、現した。
——わたしの、大切な、人を。守れなかった。
(……大切な、人)
心臓が、跳ねた。
——わたしの、せいで。あの人は。
そこで、また、記号が、乱れる。けれど——声に出して、たどると。ぽつり、ぽつりと。続きが、ほどけて、いく。
——でも。もう、繰り返さない。あなたには。同じ、思いを。させたくない。
(……シルヴィア)
胸が、締めつけられた。
大切な人を、守れなかった。自分の、せいで。——母のこと、だろうか。それとも——イザベラ?
誰のことかは、まだ、わからない。でも——シルヴィアの声が。文字の向こうから。確かに——聞こえた気が、した。後悔と。痛みと。そして——「あなた」への、祈りのような、何かが。
(……あなた、って。わたしの、こと?)
シルヴィアは——これを読む「あなた」に。同じ思いを、させたくない、と。書いている。
それは——たぶん。この身体に、入ることになる、私への。メッセージ。
(……守れなかった。繰り返さない。させたくない)
断片を、繋ぎ合わせる。でも——肝心の、ところは。まだ、霧の中だ。誰を、守れなかったのか。何を、繰り返さないのか。そして——私に、何を、託したいのか。
その、いちばん、核心の部分は。声に出しても——まだ、読めなかった。まるで——もっと、別の、鍵が、要る、みたいに。
『……ふん。そこから先は』
フェンが、ぽつり、と、言った。
『私にも、聞こえないね。もっと——深いところに、仕掛けられている。音だけじゃ、届かない、何かが』
(……まだ、ある、のか)
暗号は——一段、進んだ。でも、その先には。さらに、固い、扉が、待っていた。
それでも。
(……一歩。近づいた)
ずっと閉ざされていた、シルヴィアの、心の一端に。確かに——触れられた。声に出して、読む。その、たった一つの気づきで。手詰まりだった壁が——動いたのだ。
「……ありがとう、フェン。あなたの、おかげ」
『……べつに。退屈しのぎだ。それに——』
フェンは、ふいと、目を、逸らして。
『……あの女の、声に。少し、興味が、湧いた。それだけさ』
(……ふふ。素直じゃ、ないなあ)
ピピも。フェンも。私一人じゃ、辿り着けなかった、場所へ。連れて、行ってくれる。
二匹の、相棒に。心の中で、感謝しながら。
私は——もう一度。手帳の、その先の、まだ読めない記号たちを。そっと、指で、なぞった。
(……待っててね、シルヴィア。あなたの、声。きっと——最後まで、聞き届けるから)
窓の外。傾いた陽が。隠れ家の、小さな部屋を。茜色に、染めていた。
その隅で——あの、不思議な手鏡が。なぜか、ことり、と。小さく、光った、気が、した。




