どんなに姿を変えても
その日。私は、ついに、決行した。
栗色のウィッグを、被る。地味な街娘風の、ワンピースに着替える。目深に帽子を被れば——鏡に映るのは、もう、銀髪の令嬢じゃ、なかった。どこにでもいる、平凡な街娘。
(……おお。完璧)
我ながら、変装の出来に満足した。これも、演劇部で培った技術だ。役になりきること。別人に見せること。お手のもの、とまでは言わないけれど、心得は、ある。
エマには、「少し、庭を散歩してくる」と伝えてある。シルヴィアが、いつも使っていた脱走ルートは、隠れ家の走り書きで、だいたい、見当がついていた。屋敷の裏手の、使用人用の通用口。そこから、外へ出られる。
でも——問題は、そこまで、誰にも見られずに、たどり着けるか、だ。
広い屋敷には、あちこちに、使用人がいる。記憶を失くした私は、屋敷の構造も、完璧には、覚えていない。下手に歩き回れば、誰かに、見つかってしまう。「お嬢様、そんな格好で、どちらへ?」なんて、聞かれたら——一巻の終わりだ。
でも、私には——心強い、味方が、いた。
「ピピ。お願いがあるの」
『なになに?』
「通用口まで、人に見つからずに、行きたいの。……どこに、誰がいるか。気配で、わかる?」
『あ、それ、得意! まかせて!』
ピピは、得意げに、ふわりと宙を漂った。そして、廊下の先を、すいっと覗き込む。
『えっとね……あっちの角、人がいる。料理人さんかな? でも、こっちの廊下は、誰もいないよ! 今のうち!』
(……っ、すごい)
探し物だけじゃ、ない。気配を読む、というのは——こういう使い方も、できるのか。
私は、ピピの案内に従って。足音を忍ばせ、人の気配を掻い潜りながら、屋敷の中を進んだ。
『止まって! 次の曲がり角、メイドさんが、来る!』
(……っ)
慌てて、柱の陰に、身を隠す。数秒後、本当に、メイドが、通り過ぎていった。危なかった。
『よし、今! 行こう!』
ピピのナビゲーションは、的確だった。まるで、屋敷中の人の動きが、手に取るようにわかっているみたいに。おかげで、私は、一度も見つかることなく——使用人用の通用口へと、たどり着いた。
(……ピピ、ほんとに、頼りになる)
『えへへ。でしょ?』
誇らしげに胸を張る(みたいに、ぷくっと膨らむ)ピピに、私は、心の中で感謝した。この子と契約して、本当に、よかった。
通用口を、そっと、抜ける。
元気になった身体は、軽かった。少し前なら、屋敷を抜け出すなんて、体力的にも無理だった。でも、今なら——歩ける。外の世界を、この足で。
(……いざ、街へ)
私は、胸を、高鳴らせて。初めての、異世界の街へと、足を、踏み出した。
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街は——想像以上に、活気に、満ちていた。
石畳の通り。立ち並ぶ商店。焼きたてのパンの、香ばしい匂い。色とりどりの果物を並べた、露店。行き交う、人々の賑わい。
(……すごい。本物の、異世界の街だ)
貴族の屋敷や、王城の夜会とは、まるで違う。もっと、生活感があって、温かくて、雑多で。元の世界の商店街を、少しだけ思い出す。
『ねえねえ、みどり! あれ、なに!? いい匂い!』
(あれは、パン屋さんだね)
ピピと、心の中で、こっそり、やりとりしながら。私は、街を、歩き回った。
露店を、覗いて。知らない果物に、目を丸くして。大道芸人の、芸に、足を止めて。
(……楽しい)
久しぶりの、感覚だった。
この世界に来てから、ずっと。気を張って、謎を追って、生き延びることに必死で。こんなふうに、ただ無防備に楽しむなんて——なかった。
変装の、おかげだ。「シルヴィア」じゃ、ない。誰にも知られていない、ただの街娘。誰の目も、気にしなくていい。
(……シルヴィアも、こんな気持ち、だったのかな)
ふと、思う。脱走して、変装して、この街を歩いていた、シルヴィア。きっと、彼女も——この解放感を味わっていた。令嬢の重荷を、ほんの少し下ろして。
なんだか、少しだけ、シルヴィアと気持ちが通じた気がして。私は、ほんのり笑った。
その、ときだった。
「——っと。すまない。大丈夫か?」
人混みの中で、誰かと、肩が、ぶつかった。
よろけた私を、とっさに、支えてくれた、その手。聞き覚えのある、穏やかな、声。
(……え)
顔を、上げる。
そこに、いたのは——黒髪に、深い青の瞳の、青年。
ユリウス・グランツ、だった。
(……なんで、ここに!?)
心臓が、跳ね上がる。
ユリウス。よりにもよって。私の「変化」を、見抜いた、あの、鋭い人。
(でも——大丈夫。今の私は、栗色の、街娘。シルヴィアだとは、気づか——)
「……シルヴィア?」
(——っ!?)
ユリウスは、私を、まっすぐに、見つめて。確信を、込めて、その名を、呼んだ。
心臓が、止まるかと、思った。
栗色の、ウィッグ。地味な、服。完璧な、変装だったはず。なのに——どうして。
「……っ、人違い、ではありませんか。わたし、そんな名前、では——」
苦し紛れに、しらを、切ろうとする。声色も、変えて。庶民の、娘らしく。
でも、ユリウスは。ふっと、目元を、和らげて、言った。
「無駄だよ。……どんなに、姿を変えても。僕には、わかる」
(……っ)
その、静かな確信に。私は、観念した。
「……どうして、わかったんですか。こんなに、変装してるのに」
声を、潜めて、尋ねる。周りに、聞かれたら、大事だ。
ユリウスは、少し考えるように、間を置いて。それから——ほんの少し、いたずらっぽく、けれど、どこか優しく、笑った。
「さあ。……なんとなく、かな」
(……なんとなく、って)
「君の、雰囲気は。髪の色や、服くらいじゃ……隠せないよ」
(——っ)
不意打ちの、言葉に。なぜか、頬が、熱くなった。
その「君の雰囲気」が——「シルヴィアの」なのか、それとも、「今の私=緑の」ものなのか。彼が、どっちを見ているのか。わからなくて。妙に、落ち着かない気持ちになる。
『みどり、みどり! この人、誰? 知ってる人?』
(……っ、こら、ピピ。静かに)
ピピが、ユリウスの周りを、興味津々で飛び回っている。もちろん、ユリウスには見えていない。今、返事をするわけには、いかない。私は、必死で平静を装った。
「……あの。このことは」
「ああ。誰にも、言わないよ」
私が、言い終わる前に。ユリウスは、あっさりと、頷いた。
「令嬢が、変装して街に出る。……まあ、褒められたことではないけれどね。でも、君には、君の事情があるんだろう。詮索は、しない」
(……この人)
また、だ。また、この人は——何も聞かずに。私の事情を、丸ごと受け止めて、許してしまう。
なぜ。どうして、そこまで。
わからない。でも——その、懐の深さに。張り詰めていた、警戒が。また少し、ほどけて、しまうのを、感じた。
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして。……それより」
ユリウスは、ふと、表情を、緩めて。
「せっかくだ。少し、付き合うよ。……女性が一人で歩くには、この辺りは、少し人通りが多い。何かあっては、いけないからね」
(……それは)
体のいい、口実な気が、した。でも——その気遣いが、嫌じゃ、なかった。
「……はい。お願い、します」
気づけば、私は、頷いていた。
こうして。変装した、私と。黒髪の、貴公子は。賑わう街を、並んで、歩くことに、なったのだった。
(……なんか、変なことに、なったなあ)
でも、不思議と。悪い気は、しなかった。
肩の上では、ピピが『デートだ! デートだ!』と、はしゃいでいる。
(……っ、ちがう。デートじゃ、ないから)
心の中で、全力で、否定しながら。それでも、私の頬は——ほんの少し、熱を、持ったままだった。




