暗号の、隙間
屋敷に戻った、その夜。
私は、自室で、ランプの灯りを頼りに。例の暗号の手帳を、開いていた。
『わー、なにそれ! 変な模様!』
肩のあたりで、ピピが、興味津々に覗き込んでくる。契約してから、この子は、ずっと私のそばにいる。人前では静かにしているよう、なんとか言い聞かせて。二人きりの今は、自由にはしゃがせていた。
「暗号、っていうの。大事な人が、遺した、メッセージらしいんだけど。……どうしても、読めなくて」
手帳に並ぶのは、見慣れない記号の羅列。文字のようで、文字でない。シルヴィアの身体は、この世界の言葉を読めるのに。この暗号だけは、どうしても意味を結ばなかった。
もう、何度挑んだか、わからない。規則性を探し、並べ替え、見比べて。そのたびに、跳ね返されてきた。
(……今日も、だめ、かなあ)
半ば、諦めの気持ちで、ページを、めくる。
その、ときだった。
『……あれ?』
ピピが、ふと、首を、傾げた。
『ねえ、みどり。この紙……なんか、変な気配が、する』
「……気配?」
『うん。ここと、ここ。なんか……奥に、別のものが、隠れてる、みたいな』
ピピが、ちょこちょこと、ページの、ある箇所を、指し示した。
(……隠れてる?)
探し物。ピピの、得意なこと。隠れたものを、気配で、見つける。
まさか——この暗号にも、何か、隠された仕掛けが、あるんだろうか。
「ピピ。その『隠れてる』ところ、もっと、詳しく、わかる?」
『んー……はっきりは、わかんない。でも、この記号と、この記号。なんか、つながってる感じ。同じ、気配がするよ』
(……つながってる、同じ気配)
私は、ピピが示した、記号を、じっと、見つめた。
言われてみれば。バラバラに見えた記号の中に、ところどころ、同じ「気配」を持つ——いや、ピピにしか気配は感じられないけれど。同じ「形の癖」を持つものが、紛れている気がする。
規則性。今まで、見えなかった、規則性。
(……もしかして)
頭の中で、何かが、噛み合う音が、した。
この暗号は、たぶん。ただの記号の羅列じゃ、ない。同じ気配——同じ規則を持つ記号同士を繋いで、拾い出していくと。そこに、本当の文字が浮かび上がるんじゃ、ないか。
私は、ピピの「気配」を頼りに。同じ印を持つ記号を、一つずつ、拾い、並べ、置き換えていった。
演劇の、台本を読み解くときみたいに。一文字ずつ、丁寧に。
どれくらい、そうしていただろう。
やがて——記号の海の中から。たった、数文字だけ。意味のある、言葉が、姿を、現した。
(……読めた)
息を、のんだ。
完全じゃ、ない。ほんの断片。暗号の、ごく一部。それでも——確かに、そこには、シルヴィアの遺した言葉が、あった。
震える指で、その文字を、なぞる。
——気をつけて。
最初に、読めたのは、その、ひとことだった。
(……気をつけて?)
何に。誰に。それは、書かれていない。いや、その先は、まだ、暗号のままで、読めない。
さらに、拾っていく。途切れ途切れの、断片を。
——あの人に。
(……あの人)
ぞくり、と、した。
あの人。シルヴィアは、誰かを——名前は伏せたまま、「あの人」と、呼んでいる。気をつけろ、と。警告して、いる。
誰だろう。シルヴィアが、こんなふうに、暗号にまでして、警告する、相手。
夜会で出会った、人たちの顔がよぎる。酷薄な、イザベラ。底知れない寒気の、王妃。あるいは——まだ見ぬ、誰か。
(……わからない)
でも、確かなのは。シルヴィアは、これを読む「誰か」に——たぶん、私に。危険な「あの人」の存在を、伝えようと、していた。
そして、もう一つ。私は、別の断片を、読み解いた。
——お願い。あなたに、託したい。
(……託したい?)
心臓が、跳ねた。
託したい。私に。何を——?
その先は。
また、暗号の壁に、阻まれて。読めなかった。
「……ここまで、か」
私は、深く、息を、吐いた。
目の奥が、じんと痛む。集中しすぎて、この弱い身体が悲鳴を上げている。これ以上は、今日は無理そうだった。
でも——大きな、前進だった。
ピピの、おかげで。ずっと固く閉ざされていた暗号に、ようやく、最初の隙間が開いた。
『みどり、すごい! 読めたの?』
「うん。……ピピのおかげ。ありがとう」
私が、頭を撫でるように、指先を近づけると。ピピは、嬉しそうに、その指に、ぷるん、と身体を寄せてきた。ひんやりと、心地いい。
(……気をつけて。あの人に。そして——託したい、何かを)
読み解いた、断片を、頭の中で、繋ぎ合わせる。
シルヴィアは。やっぱり、私に何かを遺そうとしている。ただのメッセージじゃ、ない。「警告」と、「お願い」。それも——よほど、重大な。
(……あなたは、誰に、気をつけろって言うの。私に、何を、託したいの)
暗がりの中、私は、手帳を、そっと、抱きしめた。
答えは、まだ、暗号の、向こう。
でも、必ず解いてみせる。シルヴィアが、命がけで——そう、命がけで遺したに違いない、この言葉の続きを。
(……待っててね、シルヴィア)
胸の奥が、また、ほんのり、温かくなった。
まるで——「うん」と、頷いて、くれたみたいに。
その夜、私は。読めたばかりの短い言葉を、何度も、何度も、頭の中で繰り返しながら。
いつのまにか、眠りに、落ちていた。
枕元では、ピピが、丸くなって。小さく、寝息のような、水の音を、立てていた。




