急に地球が、滅びないかな
それから、数日。
私の体調は、少しずつ、良くなっていった。
夜会の疲れが抜けると、不思議と、身体が軽い日が増えた。もともと弱い身体ではあるけれど、ずっと寝込んでいるほどでも、ない。
「お嬢様。せっかく、お加減もよろしいのですし。少し、外の空気を吸われては、いかがですか?」
ある朝、エマが、そう勧めてきた。
「気晴らしに、ハイキングなど。お屋敷の外に、見晴らしのいい草原があるんです。お嬢様、昔から、あの景色がお好きで」
(……草原)
その言葉に、なぜか、胸が、ざわついた。
行ってみたい。理由は、わからない。でも、無性に、その場所を、この目で見たくなった。
「……うん。行ってみる」
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馬車に揺られて、しばらく。
たどり着いた、その場所で。私は、思わず、息をのんだ。
見渡す限りの、草原。きらきらと陽の光を浴びて、草木が輝いている。遠くには、街並み。一際目を引く、高い時計塔。ダイヤモンドみたいな装飾が、眩く光っている。
(……綺麗)
来るのは、初めてのはずだ。なのに——どうしてだろう。なぜか、胸が、締めつけられる。懐かしいような、泣きたいような。初めて見る景色なのに、ずっと前から知っていたみたいな。
(なんで、こんな気持ちに……)
シルヴィアが、この景色を好きだったから、だろうか。彼女の「好き」が、この身体に、残っているのかもしれない。——いや。それだけじゃ、ない気がする。うまく、言葉にできないけれど。
胸の奥が、また、ほんのり温かくなった。あの、力。まるで「ここだよ」と頷いているみたいに。
「エマ。わたし、少し、周りを、見てくるね」
「あ、はい。あまり、遠くへは……」
「すぐ戻るから、大丈夫」
私は、エマを残して、草原を、歩き出した。
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しばらく歩くと、小さな、水場があった。
澄んだ、湧き水。光を弾いて、きらきらと、揺れている。
なんとなく惹かれて、私は、その縁にしゃがみ込んだ。水面に、銀髪の少女——シルヴィアの顔が映る。
その、ときだった。
『——あ。きみ、見えてるの?』
(……え?)
声が、した。
幼い、舌足らずな、声。きょろきょろと、辺りを見回す。誰も、いない。
『こっちこっち! 水の中だよ!』
水面を、見る。
そこに——いた。
水滴が寄り集まったような、小さな姿。透き通った、青い身体。つぶらな目をきらきらさせて、こちらを見上げている。手のひらに乗りそうなくらい、小さな、何か。
(……なに、これ)
『わあ! やっぱり、見えてる! 久しぶりだなあ、僕のこと見える人! ねえねえ、きみ、精霊士でしょ?』
(……精霊、士)
心臓が、跳ねた。
精霊。精霊士。ヘルガ先生が言っていた、おとぎ話。失われた、伝説。それが——今、目の前に、いる。喋っている。
(……本当に、いたんだ。精霊って)
まさか、と思っていた。気のせいだと思おうとしていた。でも——違った。この温かい力も、きっと。全部、本物だった。
私は、震える声で、尋ねた。
「あなた……精霊、なの?」
『そうだよ! 水の精霊! ……あれ、でも、きみ、知らないの? 自分が精霊士なのに?』
「わたしが……精霊士?」
『うん! だって、僕が見えてるもん。精霊が見えるのは、精霊士だけだよ』
(……わたしが、精霊士)
いや。待って。
頭の中で、必死に考えを巡らせる。私が、精霊士? でも、私は——池崎緑だ。元の世界では、ただの女子高生。精霊なんて、いるはずもない世界の。
だとしたら。精霊士なのは——私じゃ、なくて。
「ねえ。もしかして……シルヴィアが。この身体の、本当の持ち主が——精霊士、だったの?」
私は、すがるように、尋ねた。
あの、温かい力。医者を切り抜けさせ、鏡へ導き、鍵を見つけさせた、あの力。あれが、シルヴィアの——精霊士としての力だったなら。全部、繋がる。
でも。
水の精霊は、こてん、と、首を傾げた。
『うーん? どっちだろう。きみの魂、すっごく、珍しいんだもん』
「珍しい?」
『うん。なんだか、二つの魂が、混ざってるみたいな。どっちが、もともとの精霊士なのか……僕には、わかんないや』
あっけらかんと、精霊は、言った。
『でも、それって、重要なこと? 精霊士は精霊士でしょ?』
(……重要かって)
めちゃくちゃ、重要だ。
私が精霊士なのか、シルヴィアが精霊士なのか。それは、この力が、誰のものなのか。そして——私が、これから、どうなるのか。全部に、関わってくる。
でも、この無邪気な精霊に、それを説明しても、たぶん、通じない。
私は、別の質問を、ぶつけることにした。いちばん、知りたかったことを。
「ねえ。……二つの魂が、混ざってるって、言ったよね。それって——分けることは、できるの? もとに、戻すことは」
元の世界に、帰る。その、可能性。
わずかな、望みを込めて。私は、尋ねた。
精霊は、きょとんとして、それから、私の顔をじいっと見つめた。
『んー……無理じゃないかなあ』
(——っ)
『だって、きみの魂、もう、この身体と馴染みきってるもん。根っこまで、しっかり絡まってる。これを引き剥がすのは……うん。たぶん、無理。やったら、きみ、消えちゃうかも』
あっさりと。
まるで、天気の話でもするみたいに、精霊は、言った。
(……馴染み、きってる)
(戻れ、ない……かもしれない、ってこと?)
言葉が、出なかった。
心のどこかで、わかっていた。たぶん、もう、元の世界には帰れないんだろうな、と。鏡の夢で、シルヴィアが「ありがとう、来てくれて」と言ったときから。うっすらと、覚悟はしていた。
でも。
こうして、はっきりと、突きつけられると。
お父さん。お母さん。生意気な、妹。劇団の、みんな。あの、何気ない日常。
全部、もう——戻れ、ない。
膝の上の手が、ぎゅっと、握りしめられた。
その、ときだった。
『あ、そんなことより!』
精霊が、ぴょん、と水面から跳ねた。深刻な空気なんて、まるでお構いなしに。
『ねえねえ、きみ、せっかく精霊士なんだしさ! 僕と、契約しようよ!』
「……は?」
『僕ね、ずーっとこの水場にいるの、退屈だったんだ! 契約したら、きみと一緒に、いろんなとこ行けるんでしょ? 山とか! 海とか! 街とか! ねえ、いいでしょ? ねえ!』
つぶらな目を、きらっきらさせて。精霊は、無邪気に、ねだってくる。
私が、今、人生最大級の絶望の淵にいることなんて。これっぽっちも、気づかずに。
(…………)
(……あー、もう。だめだ)
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
元の世界には、もう帰れないかもしれない。複雑すぎる人間関係。読めない幼馴染。本物の悪役と、ぞっとする王妃。解けない暗号。正体のわからない、温かい力。そして、目の前で「契約しよ!」とはしゃぐ、無邪気な精霊。
考えなきゃいけないことが、多すぎる。抱えなきゃいけないものが、重すぎる。
(……普通のJKが背負えるキャパなんて、とっくに、超えてるんですけど)
私は、ただの、女子高生だったのだ。演劇部で、芝居をして。家族や友達と、笑って。何気ない毎日を、過ごしていた、普通の。
それが、どうして、こんな——世界の命運でも、託されたみたいな顔を、しなきゃいけないんだろう。
私は。
澄み渡る、異世界の空を、仰ぎ見た。
二つの月の片割れが、昼の空に、薄く浮かんでいる。
元の世界には、もう帰れないかもしれない。そう告げられた直後に。目の前の精霊は、「契約しよ!」とはしゃいでいる。
なんて、温度差だろう。
なんて——馬鹿馬鹿しくて、笑えてくる状況だろう。
私は、大きく、息を吸って。
そして——元の世界から、何度も口にしてきた、いつもの口癖を。もう一度、呟いた。
「……あ〜あ。急に地球が、滅びないかなぁ」
いつもは、ただの軽口だった。
でも、今は——ほんの少しだけ、本気で、そう思った。




