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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『結晶』 ~section9:空間の破綻と、孤独なブルペン~

 松脂(ロージン)の純白と、硬式野球ボールの縫い糸が極限まで削り取られて塵となった、鮮烈な真紅。

 透明な半球状のアクリルカバーの中に、まるで神聖な祭壇の供物のように封じ込められたその『紅白の結晶』の正体を如月さんの口から告げられた瞬間、僕の脳内で、これまでバラバラに散らばっていた点と線が、強烈な電流を伴って一気に結合していくのを感じた。


 投手がボールを握るために使う滑り止めの粉と、野球ボールを構成する赤い糸の残骸。

 それが、この学園で最も高く、他のどの建造物からも見下ろされることのない、この旧校舎七階の屋上の『ど真ん中』に、強固な接着剤で永遠の質量として固定されている。

 オカルト的な呪いの儀式でも、不気味な盛り塩でもない。これは、極めて泥臭く、そして極めて純粋な『野球』という競技に直結する、生々しいルーツの痕跡だ。

 僕は、自分の推測が今度こそ完璧に真理を捉えたという強烈な確信に打ち震え、強風の中で片膝を突いている如月さんの横顔に向かって、上ずった声を張り上げた。


「……分かりましたよ、如月さん! そういうことだったんですね!」


 僕は弾かれたように立ち上がり、吹き荒れる暴風に声がかき消されないよう、大きく一歩前に踏み出した。そして、防護フェンスの代わりとなっている手摺り壁(パラペット)越しに、眼下に広がる夕暮れの学園全体を力強く指差した。


「松脂と、ボールの縫い糸の粉末。投手の命とも言えるその二つのルーツが、こんなに大量に、しかも厳重に保存されて残されている。そしてここは、学園の中で最も高い場所だ。……野球のフィールドにおいて、グラウンドの中で周囲より一段高く土が盛られ、すべての視線を集めながら『投手』が君臨する絶対的な丘……。つまり、ここは犯人が見立てた『ピッチャーマウンド』なんですね!」


 僕は興奮のあまり、早口でまくし立てた。

 昨日からずっと、僕はこの巨大な見立てのスケール感と如月さんの圧倒的な論理の前に、ただ怯えながら後ろをついて回ることしかできなかった。だが、今なら分かる。この屋上という空間が持つ、圧倒的な優位性と特異性の意味が。


「考えてみれば当然です。南棟の三階にある音楽室が、第一のルーツである『バッターボックス』。そこからずっと北に離れたこの旧校舎の屋上は、あの本塁を見下ろすには絶好のポジションだ。犯人は、この屋上を巨大なピッチャーマウンドに見立てていたんだ! だからこそ、投手の存在を証明するこの紅白の粉末が、この場所に残されている……。空間の配置として、これ以上ないくらい完璧じゃないですか!」


 僕は息を切らしながら、自分の導き出した鮮やかな結論に酔いしれていた。

 高い場所から、見下ろすようにボールを構える。それはまさに、マウンドという空間の絶対的な性質そのものだ。赤い糸の粉が残るほどボールを強く握りしめた孤高の投手が立つべき場所は、マウンドをおいて他にあり得ない。


 僕は、如月瑠璃という絶対的な観測者から、初めて肯定の言葉を引き出せるのではないかと期待し、夕日の残光を受けて怪しく輝く彼女のアメジストの瞳を真っ直ぐに見つめた。


 しかし。

 僕のその『完璧な正解』を聞いた如月さんの反応は、僕の期待を根底から粉砕するほど、あまりにも冷酷で、静寂に満ちたものだった。


 彼女は、僕の言葉に驚くことも、呆れてため息をつくことすらもなかった。

 ただ、荒れ狂う風の中で艶やかな漆黒のロングストレートヘアを激しく靡かせながら、その深い紫色の瞳の奥に、絶対零度の氷柱(つらら)のような、鋭く冷徹な光を宿らせただけだった。


「愚鈍」


 たった二文字の宣告。

 それは、旧校舎の屋上に吹き荒れる猛烈な風の咆哮すらも一瞬にして凍りつかせるほどの、圧倒的な質量を持った『論理の刃』だった。


「え……?」


 僕は、予想外の無慈悲な拒絶に言葉を失い、間抜けな声を漏らした。


「愚鈍。愚か者。致命的なまでの観測の放棄。……サクタロウ、お主のその三次元的な空間認識能力の欠如には、もはや憐憫の情すら湧かぬな」


 如月さんは、片膝を突いた低い姿勢からゆっくりと立ち上がり、純白の手袋で自身の乱れる黒髪を静かに、そして気高く押さえた。

 彼女の視線は僕を通り越し、眼下に広がる広大な学園のジオラマを、まるでチェス盤の上の駒を見下ろすかのような、一切の感情を排した俯瞰の視座で捉えていた。


「サクタロウ。お主はまたしても、目の前にある『ロージンバッグの粉がある』という表面的な情報だけに飛びつき、都合の良い感情という名のノイズで、幾何学という絶対的な論理を曇らせておる。……ここが『マウンド』だと? フン、滑稽じゃな。この狂気の図面における、致命的な『空間の破綻』に、お主はまだ気づいておらぬのか」


「破綻……? 破綻って、何がですか! だって、投手の粉が落ちている一番高い場所なんですよ! ここ以外にマウンドになり得る場所なんて……」


「わしはさきほど図書室で、お主にこう言ったはずじゃ。『あの体育館での検証はすでに終了しておる。走者が進むべき一塁、二塁、三塁のベースは、あの天空に固定された』とな」


 如月さんは、夕闇に沈みゆく眼下の景色に向かって、純白のシルクに包まれた指先をスッと伸ばした。


「空間の座標を、もう一度お主のその使われていない脳内の三次元グリッドに正確に展開してみよ。……我々が昨日発見した、第一のルーツ。永遠に打たれることのないバットが残されていた、学園の南端に位置する南棟の音楽室。そこが『ホームベース』じゃな」


「はい。南棟が、ホームベースです。それは間違いないですよね」


「ならば、そこから北へ向かって広がるのが、野球のダイヤモンドという『正方形』の幾何学じゃ。……昨日、我々が潜入したあの巨大な北の体育館。あそこの暗黒の天空には、摩擦熱で焼け焦げた滑車と共に、三つの車輪が吊るされていた。あれがそれぞれ、一塁、二塁、三塁に見立てられた塁ベースじゃ」


「……はい」


 僕は彼女の言葉に従い、眼下の景色に透明な直線を引いていく。

 手前の巨大な平屋根を持つ北の体育館が、二塁ベース。ずっと奥の南棟が、ホームベース。


「野球のルールにおいて、ピッチャーマウンドとは、ダイヤモンドの『どこ』に位置する空間じゃ?」


「それは……ホームベースと、二塁ベースを結ぶ直線の、ちょうど中間点です。内野のど真ん中」


 僕がそう答えた瞬間、如月さんの薄い唇の端が、不敵に、そして残酷に吊り上がった。


「左様。本塁と二塁の、ちょうど中間点。……ならば、その幾何学的な座標を、眼下の現実の景色に当てはめてみよ。音楽室の本塁と、体育館の二塁。その二つの建造物を結ぶ直線の、完全なる『中間地点』には、一体何が存在しておる?」


 僕は弾かれたように、パラペットから身を乗り出し、眼下の景色を再確認した。

 南棟の音楽室から、北の体育館。その二つの建物の距離は優に数百メートルはある。そして、その二つの建造物を結ぶ直線の、ちょうど真ん中に横たわっているのは……。

 今まさに、来月の文化祭に向けていくつもの白い大型テントが設営され、生徒たちが忙しなく動き回っている、広大な土の平原。


「……あ」


 僕は、自分の口から間抜けな吐息が漏れるのを止められなかった。

 南棟と体育館の中間地点。そこにあるのは、如月学園の野球部が日々の厳しい練習で汗を流し、血と泥に塗れて白球を追いかけている場所。

 本物の、野球の『中央グラウンド』だ。

 そしてそのグラウンドのど真ん中には、当然のことながら、実際の野球部が使用している『本物のピッチャーマウンド』が、今も確実に存在しているのだ。


「気づいたようじゃな。幾何学的な視点から見れば、犯人が描いた巨大なダイヤモンドにおける『マウンド』の座標は、あの中央グラウンドのど真ん中にしかなり得ぬ。……対して、我々が今立っているこの旧校舎はどうじゃ?」


 如月さんの純白の指先が、スッと方向を変え、僕たちの足元を指し示した。


「この旧校舎は、北の体育館の『さらに北側』に位置しておる。本塁からマウンドを通り、二塁ベースを突き抜けた、そのさらに奥深くの延長線上。……サクタロウ。野球のフィールドにおいて、二塁ベースの遥か後方に広がるその空間を、何と呼ぶ?」


「……センター。中堅手のもっと後ろの……外野……」


 僕は、自分の描いていた薄っぺらい推理の城が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。

 間違いない。空間の配置が、完全に矛盾している。

 もしここがマウンドだとしたら、バッターボックスとの間に、二塁ベースである体育館が挟まっていることになってしまう。それでは走者が逆走することになる。そんな野球盤は、物理的にもルールの面でも絶対に存在しない。

 ここは、ダイヤモンドの中心ではない。

 外野の、それも遥か後方。スコアボードすらも飛び越えた、スタジアムの完全なる『外側』なのだ。


「その通りじゃ。ここはマウンドなどではない。幾何学的に、そして物理的に、この旧校舎の屋上は、華やかな試合が繰り広げられるダイヤモンドからは完全に切り離された、外野フェンスのさらに外側に位置する隔離空間じゃ」


 如月さんの言葉が、夕暮れの冷たい風に乗って屋上に響き渡る。

 空間の破綻。

 僕は自分の愚かさを恥じると同時に、さらなる巨大な『謎』に直面し、混乱の渦に突き落とされていた。


「待ってください、如月さん。じゃあ、なんでこんな所に投手のロージンがあるんですか!? ここはマウンドじゃない。試合の行われるフィールドですらない、完全に隔離された場外の空間です。なのに、どうして犯人は、わざわざこんな外野の奥深くで、ロージンの粉を落とすようなことをしていたんですか! そんなの、論理的に説明がつかないじゃないですか!」


 僕が半ばパニックに陥りながら叫ぶと、如月さんはアメジストの瞳を細め、僕の混乱を冷ややかに、しかしどこか深い確信を伴った眼差しで見つめ返した。


「お主はまた、事象を表面的な『意味』だけで捉えようとしておる。マウンドではない場所で投手が粉を落としているから、矛盾していると? ……違う。そうではないのじゃよ」


 如月さんは、荒れ狂う風に漆黒の髪を靡かせながら、アクリルカバーの中に封じられた紅白の粉末へと、再び静かに視線を落とした。


「野球という競技において、華やかなグラウンドから完全に隔離され、外野フェンスのさらに外側にひっそりと設けられた『もう一つの丘』が存在することを、お主は知らぬのか?」


「もう一つの……丘……?」


「左様。そこは、試合という本番の舞台からは遠く切り離された場所。観客の歓声も、バットがボールを弾き返す快音も届かない、閉鎖的で孤独な空間。マウンドに上がることを許されず、ただ己の出番が来るかもしれないという一縷の望みだけを抱いて、黙々と、ひたすらにボールを投げ込み続けるためだけに存在する場所。……野球場における、その隔離空間の正式名称は何じゃ?」


 如月さんの問いかけが、僕の脳裏の最奥にある一つの単語を、力強く引きずり出した。

 外野のさらに奥。

 投手が、孤独に準備をするための場所。

 出番を待つ、補欠やリリーフ投手たちの、重苦しい熱気に満ちた檻。


「……ブルペン」


 僕の口から零れ落ちたその言葉は、風の音に掻き消されそうなくらい掠れていたが、如月さんの耳には確かに届いていた。

 彼女は、まるでそれが世界の絶対的な真理であるかのように、重々しく首を縦に振った。


「その通りじゃ。ここはマウンドではない。あの天才投手が、己の狂気の見立ての図面の中で明確に定義づけた、永遠に外界から隔離された『孤独なブルペン』なのじゃよ」


 ブルペン。

 その言葉の持つ、あまりにも重く、あまりにも悲痛な質量の前に、僕は息をするのすら忘れて立ち尽くした。

 華やかなマウンドではなく、外野フェンスの向こう側にある隔離空間。

 この旧校舎の屋上は、その空間的性質を、これ以上ないほど完璧に満たしていたのだ。



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