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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『結晶』 ~section8:銀のルーペと、松脂の正体~

 吹き荒れる強風が、透明な半球状のアクリルカバーの硬質な曲面にぶつかり、ヒュウヒュウと鼓膜を直接引き裂くような甲高い風切り音を立て続けていた。

 夕日に赤黒く、血の色を混ぜたような毒々しい朱に染まり始めた旧校舎七階の屋上。その広大なコンクリートの平原の完全なる中心点で、僕たちは膝を突き、身を寄せるようにしてその『紅白の結晶』を囲んでいた。

 透明なドームの向こう側で、外部の暴風など一切存在しないかのように微動だにせず静止しているその粉末。それは、僕が先ほどデジタルの妄執に囚われて口にした『盛り塩』などという安直でオカルト的な意味合いを、その圧倒的な無機質さと物理的な実存によって、ただ沈黙のままに冷酷に否定し続けていた。


 思考の調律を終えた如月さんは、もはや僕の存在などその意識の端にも留めていなかった。

 神聖な鑑定の儀式に入った彼女の周囲には、外界のノイズを一切寄せ付けない絶対零度の真空が形成されているかのようだった。彼女にとって、この屋上に吹き荒れる暴力的な風も、僕が抱いている場違いな恐怖も、すべては事象を観測する上で排除すべき『ただの摩擦抵抗』に過ぎないのだ。


 彼女は純白のシルク手袋に包まれた右手で、ブレザーのポケットから、彼女の真の武器である『銀のルーペ』を滑らかな所作で取り出した。

 如月家に代々伝わるという、アンティークの逸品。その純銀のボディの表面には、何十年もの時を経てなお鋭いエッジを失わない精緻な植物の蔦の意匠が、執拗なまでの密度で彫り込まれている。彼女が先ほど図書室で専用のクロスを用いて丹念に磨き上げていたその最高級の光学機器は、西日の強烈な残光を極厚のレンズに集め、ひび割れたコンクリートの床に一条の鋭い、そしてあまりにも冷ややかな光の筋を反射させた。


 如月さんは片膝を突いた低い姿勢を完璧に維持したまま、一度だけ微かに鼻先で風の匂いを嗅ぐと、その銀のルーペを右目の前にスッと掲げた。

 そして、アクリルカバーの表面からわずか数ミリの距離まで、その端正な顔を近づける。


 その瞬間、彼女のアメジストの瞳は、最高級の光学凸レンズによって数倍に拡大され、僕の視界の中で異様なまでの解像度を持って浮かび上がった。

 レンズの奥で、深い紫色の虹彩が、対象物の最小単位を網膜に焼き付けるために、獲物を狙う猛禽類のように鋭く収縮する。

 彼女は一言も発しない。

 ただ、レンズ越しにドームの中の対象物を見つめる彼女の指先が、光の反射角や焦点距離を調整するために、ミリ単位で微細に、そして正確に動く。

 チク、タク、チク、タク。

 彼女のブレザーのポケットの奥で時を刻む銀の懐中時計の秒針の音が、風の咆哮を押し除けて、僕の脳内に直接響いてくるような錯覚に陥る。


 彼女は今、一体何を見ているのだろうか。

 僕の肉眼にはただの『赤と白のまだらな粉の山』にしか見えないその物体が、彼女の網膜を通し、研ぎ澄まされた冷徹な論理のフィルターで濾過されたとき、どのような『事実の羅列』へと変貌しているのだろうか。

 彼女の美しい横顔からは、いかなる感情の揺らぎも読み取れない。ただ、その瞳がレンズの奥で、紅白の粒子を一つ残らず数え上げ、その組成を分子レベルで切り分けていくような、凄まじい『観察の圧力』だけが静かに伝わってくる。


 沈黙。

 どれほどの時間が経過しただろう。

 実際には一分も経っていないはずなのに、僕にとっては、彼女の精密な思考が紡がれるこの緊迫した静寂こそが、この広大な屋上で最も巨大な質量を持っているように感じられた。


 やがて如月さんは、ゆっくりと、祈りにも似た静謐さを伴ってルーペを顔から離した。

 そして、純白の手袋で自身の乱れる漆黒の髪を気高く押さえると、夕日の残光を受けて怪しく明滅する瞳を僕に向け、ついにその薄い唇を動かした。


松脂(ロージン)……そして、赤い縫い糸じゃ」


 その声は、風に吹かれて消えてしまいそうなほど静かだったが、僕の脳裏にはどんな絶叫よりも重く、深く響いた。


「……え? 松脂と、縫い糸? 如月さん、それがこの粉の正体なんですか?」


 僕は弾かれたように、透明なドームの中の粉末を凝視した。

 赤と白。

 言われてみれば、あの白は僕が先ほど想像した塩のような透明感のある結晶体ではなく、もっとマットで、粒子の細かい、滑り止めの粉末のようにも見える。そしてあの不気味な赤は……。


「左様。野球を嗜む者ならば、投手が指先の汗を抑え、皮革とのグリップ力を極限まで高めるために用いる松脂の粉末。……そして赤い方は、硬式野球ボールの表面を走るあの太い綿とウールの繊維が、激しい物理的エネルギーによって擦り切れ、微細な塵と化したものじゃよ」


 如月さんは、僕の先ほどの浅はかなオカルト的推理を、ただ純粋な事実の羅列だけで、完全に、そして無慈悲に解体していく。


「お主はこれを、幽霊を鎮めるための『盛り塩』だと言ったな。だが、塩化ナトリウムという物質の結晶は、等軸晶系に属する完全な立方体じゃ。どれほど微細に砕かれようとも、その破片は劈開(へきかい)性によって鋭い九十度の直角を保ち、光を当てれば無数の極小の鏡のように鋭角的な反射を繰り返す」


 如月さんの純白の指先が、アクリルカバーの向こう側にある白い粉末の山をスッと指し示した。


「しかし、わしのルーペの奥に広がる極微の世界において、そのような鋭角的な光の反射はただの一片として存在しなかった。この白い粉末は光を一切反射せず、その輪郭は丸みを帯び、不定形の微粒子として不規則に堆積しておる。結晶構造を持たず、空気中の微量な水分を吸着して固まる性質……。これの屈折率と質感、そして自重による安息角から導き出される物理的な正体は、塩化ナトリウムではなく、炭酸マグネシウムを主成分とした『松脂』の粉末じゃよ」


 塩ではない。

 怨霊を祓うための神聖な供物などでは断じてなく、ただの滑り止めの粉。

 その身も蓋もない物理的な正体は、僕の感じていたオカルト的な恐怖を見事に払拭してくれたが、同時に、それとは全く別の次元の、ひどく生々しく泥臭い『現実』を突きつけてきた。


「そして、もう一つの赤い粉末。お主はそれを『血』や『呪術の染料』などと、情報のゴミ捨て場で拾った妄想を膨らませておったようじゃが……。それもまた、観測を放棄した者の盲信に過ぎん」


 如月さんは、銀のルーペのカバーをパチンと閉じながら、極めて冷徹なトーンで続けた。


「血液であれば、乾燥と共に内部のヘモグロビンが酸化し、このような鮮やかな真紅ではなく、赤黒い錆色へと変色する。そしてタンパク質と血小板の凝固反応によって、サラサラとした粉末ではなく、不規則でひび割れたフレーク状の塊となるはずじゃ。さらに、インクや鉱物を砕いた顔料であれば、コンクリートの微細な細孔に毛細管現象によって染み込み、このような独立した粒子として表面に堆積し続けることはあり得ぬ」


 ルーペを覗き込んでいた彼女の睫毛が、微かに、しかし鋭く震えた。


「この赤い正体は、液体が乾燥したものでも、鉱物でもない。……『繊維』じゃ。それも、極限まで乾燥し、凄まじい物理的摩擦の反復によって分子の結合を断たれ、もはや塵と化した微細な有機繊維の集まりじゃよ」


「繊維の塵……」


「左様。赤く染められた、綿とウールの極小の細片じゃな。それらが複雑に絡み合い、ちぎれ、松脂の白い海の中に無数に点在しておる。……お主は、野球のボールを真近で見たことがあるか? あの硬い牛革の表面を走り、二つのパーツを強固に結束させている、あの象徴的な赤い糸を」


「ボールの……赤い縫い糸……」


 僕は、自分の喉がカラカラに乾いているのを感じながら、その言葉を反芻した。


「その通りじゃ。硬式野球ボールを繋ぎ止める、百八つの赤い縫い糸。……このドームの中に封じられている赤い塵は、その太く強靭な縫い糸そのものが、想像を絶する回数と強度で『何か』と激しく擦れ合い、削り取られ、摩耗の果てに剥落した残骸なのじゃよ」


 その言葉の持つ、圧倒的で無機質な物理的質量に、僕は軽い眩暈を覚えた。

 血でも、呪いのインクでもない。

 あの野球ボールの、硬く分厚い赤い糸が、粉末になるまで擦り切れ、削り取られた痕跡。

 

「白は松脂。赤はボールの縫い糸。……この紅白の粉末が混ざり合い、一つの山を成しているという純然たる事実。それは、この場所で、オカルト的な儀式などではなく、極めて物理的で、かつ異常な『ある動作』が執拗に繰り返されていたことを証明しておる」


 如月さんはゆっくりと立ち上がり、純白の手袋で、風に乱れる漆黒の髪を気高く押さえた。


「呪いや怨念などという、質量の伴わぬオカルトはこの世界には存在せん。あるのは、一人の人間が、この強風吹き荒れる空の玉座において、投手の命であるロージンを手に馴染ませ、そしてボールの赤い糸がちぎれて粉になるほどの『凄まじい摩擦』を、ただひたすらに生み出し続けていたという、狂気的なまでの物理的痕跡だけじゃ」


 僕は、透明なアクリルドームの中で、サラサラとした質感のまま静止している紅白の粉末を改めて見つめた。

 それはもはや、幽霊を恐れるための不気味な盛り塩などではなかった。

 最新鋭のスマートシティ。誰もがデジタルの効率性を信じ、スマートに生きるこの街の真っ只中で、誰にも見られることなく、ただ自分の肉体と一つのボールとの摩擦だけを信じ、糸が削れるまでそれを繰り返した人間の痕跡。

 そのあまりにも時代錯誤で、それゆえに圧倒的な執念の質量を持った『アナログな正』」に、僕は言葉を失い、ただ足元の小さな結晶の山を見つめることしかできなかった。



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