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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第3話『結晶』 ~section3:放課後の聖域と、俯瞰の特異点~

 文化祭の準備に向けた熱気と、最新鋭のデジタルデバイスが発する目に見えないノイズ。それらで飽和しかかっていた新校舎から、ひっそりと口を開ける旧校舎への渡り廊下へと足を踏み入れた瞬間、空気が物理的に、そして暴力的に切り替わったのが分かった。

 月見坂市が提供する完璧な空調網から完全に切り離された、ひんやりと淀んだ空気。長年の埃と、微かなカビ、そして古い木材が呼吸する匂い。新校舎の自律型清掃ロボットが磨き上げるリノリウムの床とは対極にある、歩くたびにギシギシと軋む頼りない足音。

 しかし、見えない投手の狂気に当てられ、朝からずっと胃の腑を握り潰されるようなプレッシャーの中で一日を過ごしてきた僕にとって、この薄暗く時代遅れな旧校舎の空気は、皮肉にも唯一深呼吸ができる『隔離されたシェルター』のように感じられた。


 軋む階段を上がり、二階の廊下を進む。

 その最奥、突き当たりに位置する旧校舎の図書室。

 本来ならば廃棄を待つばかりの蔵書が眠り、何人たりとも立ち入らないはずのその空間の重い引き戸を押し開けると、外界の埃っぽさを見事に上書きするような、上質で深みのあるダージリンの香りが鼻腔をくすぐった。


「遅いぞ、サクタロウ。下校のチャイムが鳴り終わってから、すでに七分と四十二秒が経過しておる」


 部屋の中央。本来の図書室の備品を部屋の隅へと無造作に追いやり、彼女が勝手に持ち込んで配置した重厚なマホガニーのアンティークテーブル。その上座とも言える革張りのチェアに深く腰掛けた如月さんが、僕の足音を聞くや否や淡々と告げた。

 テーブルの上には、彼女が自ら淹れたであろう紅茶のカップと、高級な茶菓子。そして純白のシルクのクロスが広げられ、その上で彼女は自らの『武器』とも言える鑑定道具のメンテナンスを静かに、かつ執拗に行っていた。

 美しい植物の蔦の意匠が彫り込まれた銀のルーペを、専用のセーム革で曇り一つ残らないように磨き上げる。対象物のルーツを汚さないための純白の手袋は、指先の折り目がミリ単位で揃うように丁寧に畳まれ、いつでも指を通せる状態にスタンバイされている。そして、彼女の思考のピントを合わせるための銀の懐中時計。チク、タク、という極小の歯車が噛み合う微小な機械音が、この図書室という静謐な聖域に、まるで彼女自身の心音のように心地よいリズムを刻んでいた。


「すみません、如月さん。ホームルームの後、クラスの連中が文化祭の機材搬入のスマートゲート申請のことで揉めていて、抜け出すのに少し手間取りました」


 僕は重い鞄を適当な木製の椅子に置き、キリキリと痛む胃のあたりを押さえながら、図書室の椅子にどさりと腰を下ろした。


「それにしても……如月さんは、いつも通りですね。少しはプレッシャーとか、感じないんですか?」


「プレッシャー?」


 如月さんはクロスで銀のルーペを磨く手を一切止めず、ただ冷ややかなアメジストの瞳だけをすっと僕に向けた。


「ええ。だって、異常ですよ。この壁の向こう側の新校舎では、全校生徒が来月の文化祭に向けて浮かれているんです。AIでBGMを自動生成したり、ARで看板をデザインしたりして、平和でスマートな日常を謳歌している。でも、僕たちだけが知っているじゃないですか。この広大な学園の敷地全体が、たった一人の人間の手によって『巨大な野球のダイヤモンド』へと作り変えられているという事実を」


 僕は昨日の光景を思い出し、言葉に熱がこもっていくのを止められなかった。

 十五メートルの天空を舞った、孤独な振り子の軌道。滑車を削り取るほどの生々しい肉体の摩擦。最新鋭のスマートシティのインフラの裏側で、デジタルのエラーでもハッキングでもなく、たった一人の高校生の『生身の肉体』と『血の滲むような情念』だけが、この巨大な空間の意味を根底から書き換えてしまっていたのだ。


「あの狂気的な見立てを実行した犯人は、今もこの学園のどこかに潜んで、虎視眈々と儀式の続きを進行させているかもしれない。そう考えると、今日の授業中も全然集中できなくて……正直、吐きそうでしたよ」


 僕が包み隠さず自分の恐怖を吐露すると、如月さんはパチン、と銀のルーペのカバーを閉じ、テーブルの上に優雅に置いた。


「愚鈍じゃな、サクタロウ。お主は感情という形のないノイズに振り回されすぎじゃ。他人が文化祭で浮かれていようが、犯人がいかなる絶望や狂気を抱えていようが、そんなものは事象の表面に浮かんだ波紋に過ぎん」


 彼女は、純白の手袋をゆっくりと手に取りながら、極めて冷徹に、突き放すように言葉を紡いだ。


「わしが興味を持つのは、常にそこに存在する『物理的な質量』と、それが辿ってきた『ルーツ』だけじゃ。犯人の孤独や執念を情動の視座で読み解くことはあっても、それに共感して胃を痛め、自らの論理的思考を鈍らせるなどという非生産的な真似はせん。お主もわしの助手であるならば、その怯えという不純なノイズを直ちにシャットアウトすることじゃな」


 如月さんの言葉は、相変わらず血の通っていない冷酷なまでに理路整然としたものだった。

 他者の感情に一切共感しない、孤高の天才。その圧倒的なまでにブレない精神の輪郭を前にすると、僕の抱えていた恐怖や焦燥が、ただの滑稽な一人相撲のように思えてくる。


「……分かりましたよ。それで、今日はどこへ向かうんですか。また、あの暗い体育館に戻って、床を這いつくばって見落とした泥を探すとかは勘弁してほしいんですが」


 僕が無理やり気を取り直して尋ねると、如月さんは銀の懐中時計をポケットへと滑らせ、静かに立ち上がった。


「あの体育館での検証はすでに終了しておる。走者が進むべき一塁、二塁、三塁のベースはあの天空に固定された。そして、南棟の音楽室には、永遠にボールを打つことのないバットが立てかけられ、本塁としてのルーツを強烈に主張しておったな」


 如月さんは、図書室の窓へと歩み寄り、西日に照らされる学園の広大な敷地を見下ろした。


「南から北へ。南棟の音楽室から、中央グラウンドを真っ直ぐに貫き、北の体育館へと至る巨大な扇形。犯人は、この数百メートルにも及ぶ学園全体を一枚のキャンバスに見立てて、己の幻のダイヤモンドを描き出した。……サクタロウ。お主がもし、この規格外の巨大な図形を、寸分の狂いもなく現実の空間に配置しようとした場合、最も必要となる『条件』は何じゃと思う?」


 窓枠に純白の手袋の指先を這わせながら、如月さんが問いかけてくる。

 巨大な図形を描くための条件。


「設計図、ですか? いくらなんでも、地上を自分の足で歩きながらじゃ、南棟から体育館までの正確な直角三角形なんて描けませんよ。建物や木々が障害になって、絶対にズレが生じるはずだ」


「その通りじゃ。地上という一次元的な視点に囚われている限り、この広大な幾何学模様を完璧に支配することは不可能。ならば、犯人は必ず『ある場所』に立ち、このキャンバス全体を上空から見下ろしながら、ダイヤモンドの頂点を一つ一つ空間に定義していったはずなのじゃよ」


 如月さんのアメジストの瞳が、確信に満ちた光を帯びて細められる。


「南棟の本塁、中央グラウンドのマウンド、そして北の体育館の塁ベース。この三つの特異点を、一切の障害物なく、同時に一つの視界に収めることができる場所。……すなわち、この学園において最も高く、そして他者の視線から完全に隔離された『俯瞰の特異点』じゃ」


「俯瞰の特異点……」


 僕はその言葉を反芻しながら、タブレットの画面に表示された如月学園の全体図を脳内に思い描いた。

 南棟は三階建て。中央グラウンドは平地。体育館は巨大だが、実質的な高さは四階相当だ。

 それらすべてを見下ろし、かつ、南から北へ伸びる直線の『さらに北側』に位置する建造物。


「まさか……ここですか? 僕たちが今いる、この旧校舎の……」


「左様。この旧校舎は七階建てであり、学園内で最も標高が高い。その中でもさらに頂点……普段は厳重に施錠され、何人たりとも立ち入ることの許されない『屋上』じゃ」


 如月さんはクルリと踵を返し、僕に向かって力強く宣告した。


「あの天才投手は、ただ闇雲に学園内を走り回ったわけではない。この狂気のキャンバスを構想した時、必ずあの最も高い孤独な頂点に立ち、下界のダイヤモンドを見下ろしながら、己の投じるべき幻の軌道を思い描いたはずじゃ。サクタロウ。本日は、この巨大な見立てを支配する『空の玉座』へと向かうぞ」


 如月瑠璃は、一切の迷いなく図書室の扉を開け放った。

 その背中に続く僕の胃の痛みは、先ほどまでの漠然としたオカルト的な恐怖から、明確な『七階という高所』と『そこで待つ未知のルーツ』へ向けた強烈な緊張感へと、確実にその質を変えていた。



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