第3話『結晶』 ~section2:狂気の残滓と、日常のノイズ~
胃の奥が、キリキリと鉛のように重く痛む。
月見坂市が誇る最新鋭の空調設備によって、年間を通じて常に適温と適湿が保たれているはずの教室内にいるというのに、僕の背中には朝からずっと、じっとりと冷たい汗が張り付いたままだった。
二日目の、午前十時。二時間目の現代文の授業中。
教卓に立つ教師は、黒板ではなく巨大なインタラクティブ・ホワイトボードを使用し、ホログラムの資料を展開しながら滑らかな声で解説を続けている。生徒たちの机の上には教科書など存在せず、全員が支給された薄型のタブレット端末を開き、専用のスタイラスペンで画面に音もなくメモを取っている。
カツ、カツ、という樹脂製のペン先が強化ガラスを叩く微かな音と、空調の静かな駆動音だけが、この平穏で清潔な教室を支配する環境音だった。
さらに、教師の目が届かないネットワークの裏側——クラス専用のローカルチャットグループでは、来月に迫った文化祭の話題が、ものすごいスピードで飛び交っていた。
『模擬店の看板デザイン、ARの3Dモデルで組んでみたけどどう?』
『いいじゃん! あと、機材搬入のスマートゲートの申請、誰かやった?』
『BGMのプレイリスト、AIに自動生成させといたから後で共有するねー』
僕のタブレットの画面の隅でも、そんな平和でデジタルな会話の通知が絶え間なくポップアップしては消えていく。
みんな、来月の文化祭という『ハレの日』に向けて、このスマートシティの利便性をフルに活用し、無邪気に、そしてスマートに準備を進めている。どこを見渡しても、血の匂いも、狂気も、圧倒的な暴力の痕跡も見当たらない。これが、如月学園高等部の美しく正しい日常の風景だ。
——だが、僕の脳裏には、どうしても昨日の放課後の光景がフラッシュバックしてしまう。
最新鋭のデジタルインフラなど一切無視し、己の肉体という物理的な『質量』だけを武器にして、高さ十五メートルの暗闇の天空へと舞い上がった、一人の天才投手の姿。
摩擦熱でナイロンが溶け、金属が深くえぐり取られた無残な壁面滑車。強大な遠心力に耐え、擦り切れた掌から血を流しながらも、相棒のルーツである『車輪』をキャットウォークの鉄骨に引っ掛けた、あの凄まじい執念の振り子運動。
『ベースは三つ。走者が進むべき塁はすでに天空に固定された。そして本塁には、永遠にボールを打つことのないバットが立てかけられておる』
如月さんの冷徹な声が、耳の奥にこびりついて離れない。
この平和な教室の窓の外。あの何でもないように広がる南棟から、西の中央グラウンドを抜け、北の巨大な体育館へと至る学園の広大な敷地全体が、たった一人の人間の手によって、すでに『巨大な野球のダイヤモンド』という狂気の空間へと上書きされているのだ。
その事実を知っているのは、この全校生徒の中で、僕と如月さんだけ。
みんながARのホログラムやAIの自動生成に夢中になっているすぐ足元で、あまりにも泥臭く、あまりにも痛切な『アナログの葬送儀式』が現在進行形で執り行われている。その凄まじいギャップと、相手の底知れない狂気のスケールに、僕は一人で胃を痛め、息を潜めることしかできなかった。
ふと、僕は視線を斜め前方の座席へと向けた。
そこには、この教室の中で唯一、デジタルデバイスはおろか、授業そのものすら完全に無視している異端の存在が座っていた。
如月瑠璃さん。
彼女は指定のブレザーを完璧に着こなし、背筋をピンと伸ばした美しい姿勢のまま、机の上にタブレットではなく、ひび割れた分厚い革装丁の『古文書』を堂々と広げていた。
窓から差し込む計算された波長の自然光が、彼女の背中まで届く艶やかな漆黒のロングストレートヘアを輝かせている。その浮世離れした美しさと、周囲を完全に拒絶するような絶対的な零度の空気に、クラスの男子生徒たちがチラチラと魅入られたように視線を送っているのが分かる。
しかし、彼女はそんな周囲の視線など、文字通り『存在しないもの』として一切の関心を払っていなかった。彼女のアメジストの瞳は、静かに、ただひたすらに、数百年前のインクで書かれた難解な文字列だけを論理的にトレースし続けている。
教卓の教師も、彼女の露骨な内職をとがめようとはしない。如月コンツェルンの令嬢だからという権力的な理由もあるだろうが、それ以上に、彼女の頭脳がすでにこの学園のカリキュラムなどという低次元の枠組みを遥かに超越していることを、教師自身が本能的に理解してしまっているからだ。
(……あの人は、恐怖とかプレッシャーを感じないんだろうなぁ)
僕は、彼女の横顔を見つめながら、心の中で密かに呟いた。
昨日、あの体育館の暗闇の中で、人間の情念が物理法則を捻じ曲げるような凄まじい狂気の痕跡を直視したというのに。彼女の細い肩には、そんな重圧など微塵も乗っていないように見える。
彼女は、他人の悲しみや怒り、絶望といった感情を、数式のように正確に『理解・解明』することはできるが、そこに決して共感することはない。だからこそ、あの泥臭く血生臭いルーツを前にしても、己のペースを一切崩すことなく、ただ純粋な『物理的な謎』として対象を切り刻むことができるのだ。
それが、如月瑠璃という『孤高の天才』の絶対的な強さであり、同時に、どうしようもないほどの人間的な隔絶の証明でもあった。
昼休みになっても、僕の胃の痛みは治まらなかった。
クラスメイトたちが購買のスマートオーダーで手に入れた色鮮やかなランチボックスを広げ、来月の文化祭の出し物について楽しげに談笑している中、僕はゼリー飲料を胃に流し込むのが精一杯だった。
僕が所属するような平和な日常と、如月さんが対峙している狂気の見立て。その境界線に立たされている自分という存在が、ひどく不安定で、ひどく場違いなものに思えてならない。
午後になり、三時間目、四時間目と、平穏で退屈な授業がデジタル時計の数字とともに無慈悲に消費されていく。
僕の意識は、授業の内容など全く頭に入らず、ただひたすらに『放課後』という時間が訪れることへの焦燥と恐怖に支配されていた。
放課後になれば、また彼女の『行くぞ』という容赦のない一言が下される。
第一のルーツである本塁、第二のルーツである塁ベース。それが判明した以上、次に向かうべき場所は、論理的に考えて一つしかない。
この巨大なダイヤモンドの中心。幻のボールを投じる、姿なき投手が立つべき場所――『マウンド』だ。
そこには一体、どれほどの狂気と情念の質量が待ち受けているというのか。
――キーン、コーン、カーン、コーン。
やがて、教室のスピーカーから、今日という平穏な日常の終わりを告げる、放課後のチャイムが鳴り響いた。
同時に、クラスの空気が一気に弛緩し、文化祭の準備へと向かう生徒たちの喧騒が爆発するように弾ける。
僕は、深く、重い溜息を一つ吐き出すと、机の上のタブレットを鞄に放り込んだ。
前方を見やると、如月さんはすでに古文書を小脇に抱え、誰とも言葉を交わすことなく、一切のノイズを従えない美しい足取りで教室の扉を抜けようとしていた。
時計の針が、日常から非日常へと切り替わった。
僕は乾いた唇を舐め、重い腰を上げる。
向かうべきは、僕たちの絶対的な安全地帯であり、彼女が支配する聖域――旧校舎の図書室だ。
この胃の痛みが単なる僕の被害妄想で終わることを祈りながら、僕は文化祭のノイズに沸く教室を後にし、ひんやりとした旧校舎へと続く渡り廊下へと足を踏み出した。




