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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『暗箱』 ~section8:振り子の力学と、孤独な曲芸~

 壁際のクリートに巻き付けられた不格好な結び目。そして、高熱でナイロンが溶け、金属が深くえぐり取られた無残な壁面滑車。

 一人の天才投手が、己の肉体という質量を限界まで酷使し、重力という絶対法則に物理的な力業で挑んだという、生々しくも狂気的な痕跡。

 僕はその圧倒的な『情動の質量』を前にして、スマートフォンのライトを持つ手を微かに震わせていた。


「犯人が、自分自身の体をロープで引き上げたことは分かりました。この削れた滑車が、その凄まじい荷重の移動を証明している」


 僕は乾いた唇を舐め、如月さんの横顔に向かって、どうしても拭いきれない空間的な矛盾を口にした。


「でも、如月さん。まだ論理のピースが繋がりません。いくら自力でロープを登ったとしても、それはあくまで『壁際』の垂直移動に過ぎないはずです。あの滑車の真上まで登り詰めたところで、あの三枚の車輪が固定されている『体育館の中央を横断するキャットウォーク』までは、水平距離にして十メートル以上も離れているんですよ? 壁に張り付いた状態から、どうやって空中のど真ん中へ車輪を運んだんですか。まさか、そこからムササビのように飛んだとでも言うんじゃ……」


「愚鈍。極まりない愚鈍じゃな、サクタロウ」


 暗闇の中で、如月さんの声が氷のように冷たく、そして鋭く響いた。

 彼女は振り返ることなく、純白の手袋をはめた指先で、僕のスマートフォンの光の軸をそっと上へと押し上げた。光の円環が、壁面の滑車から、さらにその上――体育館の天井付近を横断している、巨大な暗幕用の『ワイヤーレール』へと導かれる。


「お主の思考は、エレベーターのように『下から上へ』という一次元的な直線のベクトルに囚われすぎておる。ロープの先が壁の滑車にあるからといって、なぜそこで動きが止まると思い込む? これはただの紐ではない。横幅数十メートルに及ぶ巨大な暗幕を、天井のレールに沿って『水平に引き寄せる』ための、長大で強靭な駆動ワイヤーじゃぞ」


 如月さんの言葉に、僕はハッとして天井のレールを注視した。

 そうだ。暗幕を開閉するためのワイヤーは、壁の滑車を経由して、天井のレールを体育館の端から端まで通っている。もし、そのワイヤーと暗幕の連結部分を意図的に外し、ワイヤーだけを自由に動かせる状態にしたとしたら。


「……ワイヤーの支点(ピボット)は、壁じゃない。天井のレール上を自由に移動できるんだ」


「左様。犯人はまず、天井のレールを走るワイヤーの支点を、体育館の『中央』――すなわちキャットウォークの真上付近にまでスライドさせて固定した。これにより、天井のど真ん中から、一本の強靭なワイヤーが真っ直ぐ床に向かって垂れ下がる形になる」


 如月さんは、まるで巨大なオーケストラを指揮するように、純白の手袋で暗闇の空間に幾何学的な図形を描いてみせた。


「だが、ただ中央からワイヤーを垂らしただけでは、そこへ登ることはできん。床のど真ん中には、ロープを固定するためのアンカーも、自分の体を安定させる足場もないからじゃ。そこで犯人が目をつけたのが、この巨大な暗箱の構造そのものが内包する『高低差』じゃよ」


 彼女の指先が、今度は体育館の壁面に沿ってぐるりと設置されている、観覧席――二階のギャラリーへと向けられた。

 地上から約五メートルの高さにある、ランニングコースを兼ねたせり出し構造の回廊。そこは、体育館の床面からすれば『高所』であるが、十五メートルの天井から見れば、まだ『中腹』に過ぎない。


「犯人は、天井の中央から垂れ下がったワイヤーの先端を掴み、そのまま壁際の階段を登って、あの二階のギャラリーへと移動した。数十メートルの長さを持つワイヤーだからこそ可能な、空間の引き回しじゃ。……さあ、サクタロウ。想像してみるのじゃ。天井の中央に固定された支点。そこから斜めにピンと張り詰められ、二階のギャラリーに立つ人間の手に握られた一本の長いワイヤー。これは物理学において、最も基本的で、最も強大なエネルギーを生み出す何かの構造に似ておらんか?」


 天井の支点。斜めに引っ張られたワイヤー。そして、高所にある重り(人間)

 僕の脳裏で、その三つの点が結びつき、一つの明確な物理法則の図形――カチカチと左右に揺れる、あの古典的な実験装置のシルエットがフラッシュバックした。


「振り子、ですか」


 僕が震える声でその単語を口にした瞬間、如月さんは満足げに、そして残酷な真理を肯定するように深く頷いた。


「うむ。振り子の力学じゃ。野生の密林で(つる)を握って谷を飛び越える、あのターザンのような振り子運動。それを、この最新鋭のスマートシティの体育館という無機質な空間で、極めて緻密な計算の元に再現したのじゃ」


 如月さんの冷徹な解説が、僕の脳内に、あの天才投手が実行した狂気の曲芸を、鮮明な映像として強制的に再生させていく。


「犯人は、二階のギャラリーの手すりの上に立った。己の腰、あるいは命綱となるハーネスに、この暗幕のワイヤーを強固に縛り付ける。そして、その背中には、泥臭い『三枚の車輪』を背負っておったはずじゃ。一切の光が届かない、漆黒の暗闇。眼下に広がるのは、落下すれば確実に命を落とす、黒い海のような床面。その絶望的な深淵に向かって、彼は一歩を踏み出した。いや……全力で、虚空へと跳躍したのじゃ」


 ヒッ、と僕の喉から短い悲鳴が漏れた。

 真っ暗闇の空間へ、五メートルの高さから身を投じる。想像しただけで、足の裏から内臓がせり上がってくるような悪寒に襲われる。それはもはや、スポーツマンの度胸などというレベルではない。死への恐怖を完全に麻痺させるほどの、異常な執念がなければ絶対に不可能な狂気の沙汰だ。


「ギャラリーから虚空へ身を投げた彼の肉体は、重力によって猛烈な速度で落下していく。だが、腰に結びつけられたワイヤーがその落下を空中で強引に制止し、強大な『位置エネルギー』を、恐るべき速度の『運動エネルギー』へと強制的に変換する。一人のアスリートの鍛え上げられた重い肉体と、三枚の車輪の質量。数十キロの塊が、ワイヤーを支点にして巨大な振り子となり、この体育館の暗闇の中を、空気を引き裂くような音を立てて猛スピードで滑空していったのじゃ」


 如月さんの言葉に合わせ、僕はスマートフォンのライトを床から空中の軌道へと沿って振った。

 見えない振り子の軌道。

 その最下点――床面すれすれの極限の高度をかすめた犯人の肉体は、振り子の法則に従って、今度は反対側の上空へと、すさまじい勢いで舞い上がっていく。


「だが、サクタロウ。振り子というものは、空気抵抗や摩擦がある以上、どれほど勢いをつけても『元の高さ』以上に舞い上がることは絶対にできん。それでは、十五メートルの高さにあるキャットウォークには到底届かんはずじゃ。……では、彼はどうやってその高低差の壁を突破したと思うかの?」


「……反動、ですか? いや、それじゃ足りない……」


 僕が思考の迷路に陥りかけると、如月さんは手袋の指先で、壁の『削れた滑車』をビシッと指し示した。


「あの無残な摩擦の痕跡を思い出すのじゃ。犯人は、ただ受動的にぶら下がって空を舞ったわけではない。ワイヤーが最下点を過ぎ、上昇に転じたその刹那。彼は、空中で自らの腕力と背筋の全力を動員し、命綱であるワイヤーを『手繰り寄せながら』登ったのじゃよ」


「空中で、ワイヤーを……登る!?」


「そうじゃ。猛スピードで宙を舞いながら、強大な遠心力に逆らい、己の肉体をさらなる高みへと引き上げる。その信じがたいほどの暴力的な荷重の移動と、ワイヤーの急激な巻き上げこそが、あの壁面の滑車に『金属を削り、繊維を溶かすほどの異常な摩擦熱』を発生させた真の原因じゃ!」


 僕は絶句した。

 ただでさえ恐ろしい空中ブランコのような状況下で、重力と遠心力の両方がのしかかるワイヤーを、腕の力だけで登る?

 それは器械体操のオリンピック選手でさえも躊躇するような、人間離れした、そして命知らずの極限のアクロバットだ。肩の筋肉は悲鳴を上げ、掌の皮膚は摩擦で焼け焦げ、千切れるような痛みに襲われたはずだ。


「そして、振り子の上昇が限界に達するその瞬間」


 如月さんの声のトーンが、一段と低く、そして劇的な響きを帯びた。

 彼女のアメジストの瞳が、頭上十五メートルのキャットウォークの縁――三枚の銀色の円盤が鎮座するその場所を真っ直ぐに見据える。


「物理学における『死点』。振り子の速度がゼロになり、重力が反転するほんのコンマ数秒の間。犯人の肉体は、十五メートルの天空で完全に『無重力』となる。その奇跡のような一瞬の静止の間に、彼は背負っていた車輪を掴み、あらかじめ取り付けておいた強固なフックを、キャットウォークの鉄骨の縁へと叩き込むようにして引っ掛けたのじゃ」


 ガァン! という重い金属音が、僕の脳内で生々しく鳴り響いた。

 一歩間違えれば、車輪を取り落とすどころか、バランスを崩して自分自身が十五メートル下へ墜落する極限の状況。暗闇の中、見えない鉄骨を手探りで探し当て、遠心力の頂点という最も不安定な姿勢で、絶対に失敗の許されない『配置』を完遂する。


「お主がタブレットで確認した通り、あの車輪は綺麗に等間隔に並べられておったな。それはつまり……彼がこの命懸けの跳躍と、空中のよじ登りを、暗闇の中で『最低でも三回』繰り返したということを意味しておる」


「さ、三回も……!?」


 僕は足の震えを抑えることができなかった。

 一度でも狂気の沙汰だというのに。ギャラリーから虚空へ飛び出し、遠心力に耐えながらワイヤーを登り、死点で車輪を引っ掛け、再び振り子の反動でギャラリーへと戻ってくる。そして、千切れそうな腕の筋肉と、擦り剥けた掌の痛みに耐えながら、再び車輪を背負い、二度、三度と暗闇の深淵へと身を投じる。


「狂ってる。完全に頭がおかしい。そこまでして、どうしてあんな高所に置かなきゃならなかったんだ。ただベースを見立てるだけなら、床に置けば済む話じゃないですか……!」


 僕が恐怖と理解不能の感情を爆発させると、如月さんは深く、長く息を吐き出した。

 彼女の純白の手袋が、暗闇の中で静かに下ろされる。


「だから言ったであろう、サクタロウ。これはただのイタズラでも、愉快犯のパズルでもない。一人の投手が、己のすべてを捧げて執り行った『葬送の儀式』なのじゃ」


 如月さんの声には、犯人を異常者として切り捨てるような響きはなかった。そこにあるのは、極限の情動を物理法則として観測した鑑定者としての、静かな畏敬の念に似た何かだった。


「床に置けば、それは誰かの足で踏みにじられ、清掃ロボットのプログラムによって『ゴミ』として処理されてしまう。彼にとって、あの三枚の車輪――手と肩を壊して去っていった相棒のルーツは、何人たりとも触れることの許されない『聖域』でなければならなかった。だからこそ彼は、重力を犯し、己の肉体を極限まで破壊してでも、誰も届かない十五メートルの天空へと相棒を捧げた。あの傷だらけのホイールカバーが、天空で美しく整然と並べられているという事実そのものが、彼がどれほどの痛みを伴ってこの空を舞ったかという、哀しき執念の証明なのじゃよ」


 音楽室の冷たい指揮台に立てかけられていた、狂気的なバット。

 そして、この広大な体育館の天空に、血と汗と命を懸けて吊り上げられた、三つの車輪。

 スマートシティの洗練されたデジタル管理網の裏側で、デジタルのエラーでもハッキングでもなく、たった一人の高校生の『生身の肉体』と『情念』だけが、この巨大な空間の意味を根底から書き換えてしまっていたのだ。


「……僕たちは、とんでもない相手の『盤面』に足を踏み入れてしまったんですね」


 僕は、スマートフォンのライトを握りしめたまま、その言葉を絞り出すのがやっとだった。

 オカルトや幽霊なんかよりも、人間の抱える喪失感と執念の方が、遥かに恐ろしく、そして圧倒的な物理的質量を持っている。その事実を、僕は如月瑠璃という天才の解明を通して、骨の髄まで思い知らされていた。


「恐怖に震えるのは勝手じゃが、まだ鑑定は終わっておらんぞ、サクタロウ」


 如月さんは、僕の恐怖を冷たく一蹴すると、再び制服のポケットへと手を滑らせた。


「物理的なトリックの全貌は解体された。だが、モノのルーツを完全に解き明かすためには、もう一つ、確認せねばならん『決定的な証拠』が、お主の足元に落ちておるのじゃ」


「足元、ですか……?」


僕はハッとして、ライトの光を慌てて自分の足元――自律型清掃ロボットに磨き上げられたはずのリノリウムの床面へと落とした。

 

「犯人が空中で激しく振り子運動を行い、遠心力の頂点で強引に車輪を引っ掛けたのであれば。あの泥臭いルーツを持つ部品から、必ず『あるモノ』が、この無菌室のような床へと剥がれ落ちているはずじゃ。……さあ、銀のルーペの出番じゃな」


 彼女の手に、美しいアンティークの銀のルーペが鈍く光る。

 天空の曲芸が残した、微小にして決定的な痕跡。

 この巨大なダイヤモンドの真実を確定させるための、最後のアナログ鑑定がいよいよ始まろうとしていた。



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