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第11巻:如月令嬢は『暗幕のバッテリーを外さない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『暗箱』 ~section5:助手の成長と、頓珍漢な物理トリック~

 如月さんに無造作に電源を落とされ、光を失ったタブレット端末の黒い画面が、僕の手の中で冷たく沈黙していた。

 頼りないスマートフォンのLEDライトだけが、僕たちの足元に極小の安全地帯を描き出している。その細い光の束の先で、彼女の純白の手袋が指し示した『暗闇の死角』。そこには、僕の目を誤魔化すようなデジタルの壁も、ログの不在も関係ない、圧倒的な質量の連続が潜んでいるはずだった。


「アナログの、狂気……」


 僕は乾いた唇を舐め、如月さんの言葉を自分の中で反芻した。

 重機がない。足場もない。ログにも残っていない。だからといって『魔法で飛んだ』だの『幽霊の仕業だ』だのと、オカルトに逃げ込むことは許されない。僕は、あの皐月優奈という少女の死という聖域に触れ、如月瑠璃という孤高の天才の隣に立ち続けると決めたのだ。

 異世界などない。オカルトもない。

 犯人が、血の通った人間であり、この月見坂市という物理法則に支配された現実世界で呼吸をしている以上、そこには必ず『人間が実行可能な物理的手段』が存在している。どれほど不条理に見えようとも、あの頭上十五メートルの天空に三枚のホイールカバーを固定したのは、重力という檻の中で足掻く一個の生身の人間なのだ。


 僕は深く息を吸い込み、ワックスと防炎剤の匂いが充満する冷たい空気を肺の奥まで満たした。

 パニックになりかけていた脳内のアラートを強制的にシャットダウンし、論理の歯車を強制的に噛み合わせる。

 デジタルのログが『下から上へ』のアプローチを完全に否定したのなら、思考のベクトルを反転させるしかない。この巨大な体育館という『箱』の構造そのものを利用した、もっと原始的で、もっと物理的なアプローチがどこかに隠されているはずだ。


 僕はスマートフォンのライトを再び持ち上げ、体育館の最奥、漆黒の暗幕に覆われた巨大なステージの方向へと光の軸を向けた。

 ステージ。そうだ。この新校舎アリーナは、単なるスポーツ用の体育館ではない。全校集会や今回のような文化祭のメインイベントを行うための、高度な劇場機能を有している。


「……如月さん。少し、考えさせてください」


 僕は早口で言いながら、脳内にこの体育館の設計図を強引に描き出していった。

 ステージの上部には、照明機材や緞帳、美術バトンなどを吊り下げるための『電動昇降バトン』が何本も設置されているはずだ。それは太いワイヤーロープで天井の滑車と繋がり、ステージ袖の巨大なモーターウインチによって上下に駆動する。

 現在の体育館は、安全確保のためにメイン電源が落とされている。だが、それは『今』の話だ。


「仮説の、一つ目です」


 僕は、闇の中に佇む如月さんの背中に向かって、自分なりに構築した論理をぶつけ始めた。


「犯人は、今日の昼休みにあのホイールカバーを設置したわけじゃない。もっと前……つまり、メイン電源がまだ生きていた時間帯、あるいは昨日の放課後に、学園のインフラである『電動昇降バトン』を利用したんです。アイリス・システムをハッキングするか、あるいは生徒会役員のアカウントを偽装して、ステージ上部の照明バトンを床面すれすれまで降ろす。そこにあらかじめ持ち込んでおいた車のホイールカバーをワイヤーか何かで括り付け、再び上限ギリギリ、十五メートルの高さまでバトンを巻き上げる。それなら、重機も足場もいりません。システムのログには『通常の舞台装置の稼働』として記録されるだけで、異常検知の網には引っかからない。バトンが上空に到達した後、キャットウォークに潜んでいた犯人が、長いマジックハンドのような棒を使ってホイールカバーを手繰り寄せ、鉄骨に固定し直した……これなら、高さという密室は完全に突破できます」


 我ながら、悪くない推理だと思った。

 スマートシティの利便性を逆手に取り、既存のインフラを『見立てのための巨大なエレベーター』として悪用する。いかにも、冷徹な論理と概念的洞察力を持つ犯人――あの天才投手が考えつきそうな、盲点を突いたトリックだ。


 だが、僕の言葉を聞いても、如月さんの背中はピクリとも動かなかった。暗闇の中で、彼女の静かな、しかし確実に温度の低い吐息の音が聞こえた。それは明確な『落胆』のサインだった。


「……なるほど。電動バトンを利用したリレー方式か。デジタルに毒されたお主の小さな頭蓋にしては、随分と物理的な歯車を回す努力をしたようじゃな。評価はしてやろう」


 如月さんの声は、褒め言葉の形をとりながらも、氷のように冷ややかだった。


「ですが、まだ穴があるというのですね」


「大穴じゃよ、サクタロウ。お主はバトンの構造を理解しておらん。ステージ用の昇降バトンというものは、ワイヤーの巻き取り機構の都合上、ステージの『真上』を垂直に上下することしかできん。対して、あの三枚のホイールカバーが固定されているのは、内野のど真ん中、つまり体育館の中央を横断するキャットウォークの縁じゃ。ステージの上空から、体育館の中央まで。その水平距離はざっと二十メートルはある。いくらキャットウォークの上から長い棒を伸ばしたところで、届くわけがなかろう。振り子のようにバトンを揺らして放り投げたとでも言うつもりか? 三枚もの重いプラスチックの円盤を、十五メートルの高空で、サーカスの空中ブランコのように正確に鉄骨へ引っ掛けるなど、それこそ魔法でも使わねば不可能じゃ」


 ピシャリと、僕の第一の仮説は無慈悲に粉砕された。

 言われてみればその通りだ。バトンはステージの上にしか存在しない。そこから体育館の中央まで、どうやって空中の水平移動を行うのか。論理のピースが決定的に欠落している。


「くそっ……。なら、もっと単純な方法だ。僕はまた、複雑に考えすぎているのかもしれない」


 僕は食い下がるように、もう一つの仮説を口にした。

 高度なシステムハッキングや、巨大な設備の不正利用などではない。もっと泥臭く、もっと汗の匂いのする、完全なアナログの力業だ。


「仮説の、二つ目です。そもそも犯人は、下から上へアプローチしたわけじゃない。最初から『上』にいたんです。如月さん、あの天井裏のキャットウォークには、メンテナンス業者が立ち入るための『点検用階段』が、壁の裏側かステージ袖の隠し扉の奥に必ず設置されているはずです。普段は施錠されているでしょうが、文化祭の設営期間中なら、大道具係や照明係の生徒が鍵を持ち出す隙はいくらでもある。犯人は、その点検用階段を使って、キャットウォークまで自力で登った。そして、そこから長いナイロンロープを真下の床に向かって垂らしたんです。あらかじめ床に置いておいたホイールカバーに、ロープの先端を結びつける。あとは、十五メートルの上空から、腕力だけで引き上げるんです。ホイールカバー一枚の重さは数キロ程度。高校生の運動部員なら、三枚まとめてロープで引き上げることくらい、十分に可能なはずです。これなら重機も、システムの稼働ログも一切必要ありません。完全な、アナログの腕力による密室トリックです」


 僕は自分の推理に、確かな手応えを感じていた。

 これだ。これならすべての辻褄が合う。

 床に重機の跡がないのも、システムに異常な重量が記録されていないのも、犯人が『ロープ』という極めて原始的な道具を使って、中空をダイレクトに引き上げたからだ。スマートシティの死角とは、往々にしてこうした『あまりにも前時代的すぎるアナログ手法』によって生み出されるものなのだ。


 僕は勝利を確信し、スマートフォンのライトを如月さんの足元へと向けた。

 だが。

 光の輪の中に浮かび上がった彼女は、呆れたように小さく首を振り、純白の手袋で顔の半分を覆っていた。


「サクタロウ。お主の思考は、まるで網目の破れた虫取り網じゃな。一生懸命に振り回してはおるが、肝心の『質量』がすべてこぼれ落ちておる」


「え……。どこか、間違っていますか。ロープを使えば、確実に――」


「愚鈍。極まりない愚鈍じゃ。ロープで引き上げたじゃと? お主は、あの天上にあるホイールカバーの『傷』を、先ほどそのデジタルの板切れで拡大して見ておったはずじゃろう。あれは、道端の泥を這いずり回り、ブレーキダストに汚れきった、廃棄物同然の中古品じゃぞ」


 如月さんは振り返り、アメジストの瞳で僕を真っ直ぐに射抜いた。

 その視線の冷たさに、僕は思わず一歩後ずさる。


「よく考えるのじゃ。もし、あの泥と油にまみれた不浄の円盤を、この塵一つない体育館の床に『あらかじめ置いて』おいたのなら、自律型清掃ロボットが磨き上げたこの無垢なリノリウムの床面に、なぜ『汚れの痕跡』が微塵も残っておらんのじゃ。ロープで引き上げる際、カバーは必ず床を擦る。宙に浮くまでの間、ゴムと油の黒い引き摺り痕が、この床のどこかに残らねば物理的に計算が合わん。だが、お主が先ほどから舐めるように照らしておるこの床には、傷一つ、泥の一滴すら落ちてはおらんではないか」


 雷に打たれたような衝撃が、僕の全身を貫いた。

 ……そうだ。

 ロープで引き上げるということは、対象物が床から離陸する瞬間が必ず存在する。しかし、足元の床は、恐ろしいほどの清潔さを保ったままだ。ホイールカバーを置いた痕跡すら、どこにもない。

 床を汚さずにロープを結び、引き上げる? 空中でキャッチボールでもしたというのか。そんなことは不可能だ。


「バトンを使ったリレーも不可。ロープを使った引き上げも不可。お主の思いついた頓珍漢な物理トリックは、すべてこの空間が持つ『距離』と『清潔さ』という二つの絶対的な証拠の前に崩れ去ったわけじゃ」


 如月さんは、まるで出来の悪い生徒を諭す教師のように、淡々と僕の推理を解体し尽くした。

 僕の全身から、スッと力が抜けていく。

 考え抜いた。人間である以上、絶対に物理的な手段があるはずだと。しかし、僕の浅知恵では、犯人が構築したこの巨大な見立ての箱の構造を、ほんの僅かも揺るがすことができなかったのだ。


「……降参です。僕には、これ以上論理的な手段が思いつきません。重機もない。システムも使っていない。ロープによる引き上げも不成立。……如月さん。犯人は一体、どうやってあの十五メートルの密室に、あの泥臭いルーツを配置したんですか」


 僕が白旗を揚げると、如月さんは満足そうに、暗闇の中で小さく笑い声を立てた。

 彼女は制服のポケットから、静かに『それ』を取り出した。

 カチャリ、と硬質な金属音が響く。彼女が肌身離さず持ち歩いている、銀色の古い懐中時計だ。


「サクタロウ。お主は『下から上へ』登ることばかりを考えておった。だが、犯人が描いたダイヤモンドの図面は、そんな平面的で一方向的なものではないのじゃ。見よ、真実のルーツは、すでにこの箱の構造そのものに刻み込まれておる」


 カチ、カチ、カチ。

 静まり返った暗黒の体育館に、懐中時計の秒針が刻む正確無比なリズムが響き始めた。

 それは、如月瑠璃という天才が、自らの思考の周波数を世界の隠された真理へと『調律』し始めた合図だった。彼女の瞳の奥で、散らばっていた無数の物理的矛盾が、一つの冷徹な方程式へと組み上げられていく。


「さあ、鑑定の時間じゃ。この光を拒む暗箱が飲み込んだ、哀しきバッテリーの真の姿を、わしの目で白日の下に晒してやろう」



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