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実験小説『イケベ大公爵家の日常』  作者: 西村紅茶
エマ・ハミルトン編
10/24

その1(第2話)

◆銀髪碧眼クールビューティー イケベ大公爵家のメイドのエマ・ハミルトンの語り


「その鏡はもうきれいになったんじゃない?」


 私は、もう十分も同じ鏡を磨き続けている同僚のマリエ・イケベに声をかけた。


 マリエは、はっ、としてどこかに飛んでいた意識を戻し、私の方を振り返った。光沢があって柔らかそうな黒髪が揺れる。くりくりと大きな黒の瞳が幼子のように上目遣いに見上げてくる。母親に悪戯を発見された少女のような顔をして、本当にええぃやあちくしょうッと叫びたくなるくらいに可愛らしい。お姉さまと呼ばせたくなるくらいだ。


 しかし、私はマリエの母親でも姉でもなく、一応、彼女の上司である。ちなみに私の名前はエマ・ハミルトン。マリエと同じくイケベ大公爵家でメイドをしている。

 それで、若干厳しめに、でも威圧的にならない程度に言った。


「新しいご主人様のことが気になるのは分かるけれど、あなたが気をもんだところで、どんな方が来られるかなんて分かるわけじゃないでしょう?」

 そういってやると彼女はしゅんとしたように項垂れた。


 普段から、多少優しく扱っても、図に乗らず、怒られたらきちんと反省するのが彼女の良いところだ。今も、彼女のヘッドドレスの隙間に、垂れた犬の耳の幻覚が見えるような気さえする。彼女は獣人ではあっても、今は勤務中だからもちろん獣に変化しているわけでなく、人間の姿なのだが。


「この部屋はもういいわ。もう終わりにしましょう。」

 今度は優しく声をかけて部屋を出る。


 私だってもちろんマリエの気持ちが分からないわけではないのだ。



 事の起こりは一年ほど前になる。


 わたしたちはメイドであるけれども、そのわたしたちの主人であるイケベ・リョウ様が、財産や所領の整理をなさり始めたのである。


 まず始めに、大公爵家としての広大な領地を、副爵の方々に委任なさったものを除いて、皇帝陛下に売却され、大公爵位を返上なさり、そのかわりに皇帝陛下より宮廷大公爵に叙せられた。

 それから、大きな事業や、商館、船、債権、別荘などが次々と売却され始めた。


 お屋敷には、帝都からの役人や、商人が、何人も何人もひっきりなしに出たり入ったりして、騒然とした雰囲気になっていた。


 そんな雰囲気が感じ取れると、自分の雇われてある先のことであるから、単なるメイドである私達も、一体何が起こっているのかと気にはなる。けれども、そういった情報は家令とか執事とかの上級使用人たちの所までしか伝わってこない。


 それで、やれ旦那様は何処かの悪い男につかまって大金を貢がされているのだとか、旦那様は事業に失敗なさって借金の穴埋めをなさっているのだとか、旦那様は誰かに脅迫されてお金を取られているのだとか、旦那様は財産を持ちやすいものに替えて他国へ亡命なさるつもりだとか、屋敷内では、ありそうなものから、突飛なものまで色々なうわさが飛びかった。


 そうやって、私たちがいい加減不安になった頃、お屋敷の広間に、家令から皿洗いに至るまで、全ての使用人が集められ、旦那様からのお話があった。



「私は元の世界に帰ろうと思う」


 旦那様はそう仰った。それから、


「元の世界から、私の名と鍵を受け継ぐ相続人を来させようと思う」とも仰った。



 旦那様は、自分はこの世界の人間ではなくて、別の世界から来た人間であると、常々仰っていた。

 それが果たして本当のことかどうかは、私には分からなかった。


 旦那様は、その様なことを恐ろしいほど真面目な、真剣な顔で仰るので、私としては旦那様が、冗談を言っておられるのではなく、それを真実のことだと、少なくともご本人は信じておられるのだと思うわけだ。


 旦那様はとても良い方で、私としても他の全ての使用人と同じく、一方ならず良くしていただいているので、私たち使用人一同は、旦那様をとても敬愛している。だから、旦那様が仰ることは、なるべく信じて差し上げたいというのは、私たち使用人一同の思うところであるけれども、その様な子供じみた御伽噺を心の底から信じ込むのは、なかなか難しい。私たちは大人なので、常識的でないことを信ずるのは難しいのだ。


 そういうわけで、この屋敷の内では、旦那様が「別の世界から来た人間」であることは、旦那様の手前、公式的には真実ということになっているが、心の底ではあまり信じていないものがほとんどだった。



 この屋敷の敷地内、私が今いる本館のすぐ東側に、「帰還の館」と呼ばれている建物がある。鉄製の枠を骨組みにして、その枠に透明度の高い硝子をはめ込んだ温室で、とても洒落た御伽噺の中にでも出てきそうな宮殿の様な建物である。その建物の中は、硝子製の、光が差し込む外壁を生かして植物園になっていて、多種多様な何百種類もの樹々や花々が美しく植えられている。南方の大陸や島々の珍しい植物もたくさんあって異国情緒があふれている。


 そしてその植物が展示してある部分の中央に、大きな四角形の大理石でできた板のようなものがすえつけられている。この何の変哲もない石の板を旦那様は「帰還装置」とお呼びになる。


 旦那様の言によれば、旦那様はこの「帰還装置」を通って別の世界と行き来なさるのだそうだ。

 そのような事を旦那様は、「帰還の館」の中にある植物の世話の手伝いをさせていただいたときに教えてくださった。

 それでも、私はその、別の世界うんぬんの話を信じていなかった。


 しかし、屋敷内には旦那様の言うことを信じるものもいる。

 怪奇現象や謎の飛行物体とかそういった類のものが三度の食事よりも好きな副執事のリーがその一人だ。


 彼は旦那様に頼み込んで、旦那様が「元の世界」に帰還して、それから、こちらの世界に戻ってこられる様子を「帰還の館」で間近に見学させていただいたそうだ。


 リーは「帰還装置の上に乗った旦那様が一瞬、消えた……ような気がする」と証言した。


 だがよく聞いて見ると、

「帰還装置の板の上に乗られた旦那様の姿が、光ったかと思うと、旦那様のお顔が一瞬だけ揺らいで消えた気がした。……でもまばたきするくらいのわずかな時間だったから、ひょっとして見間違いかもしれない。私が『今のは……』と聞くと、旦那様は『ああ、いま私は元の世界に戻ってそれから、またこちらの世界に帰ってきたんだよ。まあこちらの世界の主観からしたら、瞬きするほどの僅かな時間だけれどもね』と仰ったんだ。『私もその帰還装置で別の世界に行くことができますか』と聞いたら『帰還装置で元の世界に戻ることができるのは、元の世界の人間だけだ』と仰ったよ」

とのことだった。


 つまり、怪奇現象が大好きで、その手の頭が悪くなりそうな雑誌を山羊に食わせるほど買い込み、不思議なことは何でも信じたがり、現に旦那様の言うことが本当だと信じていると思われるリーですら、「何らかの現象を見た気がするが、それはひょっとすると見間違いかもしれず、しかもその帰還装置とやらを使うことができるのは、旦那様ただ独りだ」と述べているに過ぎないわけだ。


 はっきり言って胡散臭いというか怪しすぎるというか、リーさん好みというか。これで、その「別の世界」とやらの話が本当のことであると思えるだろうか。


 だから、屋敷内の大多数の人間と同じく、旦那様の仰ることは、いつも明晰で、特におかしいようなところはないように思うから、多分、旦那様の精神に問題はない。ただ旦那様は冗談もお好きだから、まあ『別の世界』の話は旦那様一流の大掛かりな罪のない冗談なのだろうというのが私の考えであったわけだ。



 そう、旦那様がいなくなってしまったあの日までは。


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