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混沌

2010年10月06日の作品です。

 僕は歩いていた。周りに何も見えない真っ白な空間を歩いていた。

 僕は真っ直ぐ歩いていた。多分真っ直ぐ歩いていた。真っ白な空間を、目印も何もない空間を真っ直ぐ歩いていた。

 どこまで行っても真っ白な世界。何もなく、誰もいない。何を目的として僕は歩いているのだろう。

 とぼとぼ、とぼとぼ歩いていた。歩き始めてどれくらいたったのかも分からない。歩くことにしんどさも感じない。ただ真っ白な前を見て、とぼとぼと歩いていた。

 僕は歩いていた。真っ直ぐ前を見て歩いているつもりだった。ただ、ただ前を見て歩いているつもりだった。目的があるわけでもなく、目標があるわけでもない。何故か僕は歩いていた。気が付いたら、歩いていた。だから、止まらずに歩き続けていた。歩き始めた理由を思い出そうとするが、全く分からない。

 僕は突然何とも言えない不安に襲われ、何となしに後ろを振り返った。

 僕は立ち止まった。そこにあるものを見て立ち止まった。僕の歩いてきた筈の真っ白な道、そこを見て立ち止まった。

 そこには、……真っ赤な空間が広がっていた。白いところなど一つもない真っ赤な空間が。

 僕は得体の知れない恐怖に胸を潰されそうになり、真っ白な空間に戻ろうと、また後ろを振り返った。

 真っ赤な空間が広がっていた。何処を見渡しても真っ赤。僕は吐き気のような苦しさに苛まれ、絶叫しながら走り出した。

 どこまで行っても真っ赤な空間を、発狂したかのように絶叫しながら走っていた。真っ直ぐ走ったのか、どのように走ったのかも分からない。

 ただ、真っ白な空間に戻りたくて、苦しみから解放されたくて、絶叫しながら走り続けた。 しばらく走って気が付いた。辺りは真っ赤な空間だ。でも、僕の手足が見えない。どこを見ても真っ赤だった。

 足に伝わる感触が、足がある事の証明だった。地を触れる事が、手がある証明だった。

 そういえば真っ白な空間の時も手足は見えなかったような気がする。

 僕は、ずっと人間のつもりだった。けれども人間である証明がなかった。

 足の形や手の形、顔の形を確認すれば人間である証明になると思った。

 手と手を合わせようとしたが、お互いが上手く触り合えない。

 諦めて足を触ろうとしたが、足があるはずのところに地があった。

 何だか不安だけが押し寄せ、冷や汗が止まらなくなった。

 汗を拭おうと顔に手をやったが、やはり何も触る事が出来なかった。

 不安がどんどん大きくなり、いつしか恐怖に変わっていた。

 目を見開き前を見る。真っ赤な空間が広がっている。目がある証拠だと思った。

 痛くてもいい、だから目に触りたかった。でも、頭のある筈の場所には何もなかった。

 恐怖で気が狂いそうだった。そこで一つ気が付いた。不安や恐怖を感じるのだから心がある筈だった。

 心にどうすれば触れられるか考えた。

 答えは見つからなかったが、この色で塗り潰された世界から解放されれば、手足や顔や体を確認できると思った。

 僕に目的が出来た。人間である事の証明をするという目的が。

 僕は歩き始めた。真っ赤な空間を歩き始めた。

 僕は歩いていた。真っ赤な空間の中を歩いていた。ただ、ただ前を見て歩いていた。

 自分の体が見たかった。自分の手足が見たかった。自分の顔が見たかった。だから、前だけを見て歩いていた。

 真っ直ぐ歩いていた。どこまで行っても真っ赤な空間の中を歩いていた。

 目の前は、塗り潰された絵の具のようで、水平線も地平線もなかったが、臆する事なく歩き続けていた。

 僕は歩いていた。何処までも続く真っ赤な空間の中を歩いていた。

 どこかで『どぉん』『どぉん』と音が聞こえる。

 他にも誰かいるのだと思った。歩き続けると音はだんだん近付いてくる。

 他の誰かに会えると思うと心がドキドキした。

 僕は無意識のうちに早足になっていた。歩けば歩くほど音は近付いてくる。

 音のする方へ、音のする方へと歩いていった。だんだん、だんだん音が大きくなる。だんだん、だんだん音が近くなる。

 もうすぐだ。もうすぐで音のところにたどり着く。

 僕の心は今にも踊りだしそうだった。目の前は真っ赤だが、確実に音は聞こえる。

 鼓膜が破れそうな音がするところまで来た。目の前は真っ赤だった。

 声を出して呼んでみた。知らない誰かを呼んでみた。声を張り上げ呼んでみた。喉が裂けるくらい大きな声で呼んでみた。知らない誰かを呼んでみた。

 目の前は真っ赤だった。もう声は出なかった。口を開いても、息が出るだけだった。

 それでも僕は手探りで真っ赤な空間の中を、音の聞こえる空間の中を歩き回った。

 精一杯目を開き、声に成らない声を挙げ、両手を前に突き出して、僕は歩き回った。

 その時何かが手に触れた。僕はうれしくて何かに飛び込んだ。何かは冷たかった。やけに冷たかった。平たくて、大きくて、冷たくて、……。

 僕は何かを押してみた。体が浮き上がるような気がした。更に僕は押してみた。体が宙に浮かんだようだった。

 僕は何かをもう一度触ろうとした。腕に力が入らず顔から何かに激突した。

 僕は倒れていた。気が付くと倒れていた。冷たくて、平たい地の上に倒れていた。

 何も聞こえなかった。声も出なかった。でもそんな事はどうでも良かった。

 世界は黒かった。闇では足りないくらい真っ黒だった。

 見渡す限り真っ黒だった。光も消えて無くなりそうな黒の世界、僕はそこに佇んでいた。

 真っ黒な世界を呆然と眺めていた。白も赤もない、ただ真っ黒な世界を眺めていた。

 漆黒とはまた違う、黒以外に何とも表現しようのない真っ黒な世界だった。

 僕は歩き出した。行くあてはなかったが、とりあえず歩き出した。歩いていないと消えてしまいそうな気がした。

 僕は歩いていた。真っ黒な空間を歩いていた。黒い塊の中を掻き分けて進むように歩いていた。

 どこまで行っても真っ黒だった。黒い世界はどこまでも、どこまでも真っ黒だった。

 ふと何故僕は疲れないのか気になった。真っ白な空間からずっと歩き続けている。休むことなく歩き続けている。それなのに僕は全く疲れていない。

 そういえば、歩いても歩いても自分の息づかいが聞こえない。さっき大声が出せたから息はしている筈だった。でも息をしている確証がない。そもそも大声を出せていたのかすら分からなくなってきた。声を出しているつもりだったのかも知れない。

 僕はだんだん怖くなり、声を出してみた。……何も聞こえない。大声を出してみた。……何も聞こえない。

 僕は『そういえば』と考えた。さっき大声の出し過ぎで、声が出せなくなっていたのだった。それなら声が聞こえなくても問題ない。

 でも、声のかけらも聞こえないのはどういう事だろう。僕は声が出せないのか。声が出せなくなったのか。声を出せるつもりでいたのか。

 もう分からなかった。頭が痛かった。考えれば考える程、頭は痛くなった。

 頭が痛い。頭が痛い。頭が痛い? 頭あったっけ?

 僕は頭を抱えようとしてみた。しかし、やはり頭を触る事が出来ない。それでも頭は痛い。頭に触れないのに頭が痛い。頭が痛いのに頭に触れない。

 もういい! 突然怒りが込み上げてきて、そう思うと頭の痛みは嘘のようになくなった。

 しばらく呆然としていた。真っ黒な世界の中で、しばらく呆然としていた。

 ふと思った。もしかしたら、もうすぐ世界が変わるかもと。今までの事を振り返った。何かある度に世界の色は変わる。今回も変わるかもしれない。

 しばらく呆然と待ってみた。立ったまま待ってみた。座り込んで待ってみた。

 目を閉じて待ってみた。

まぶたを開けていても、閉じていても世界は真っ黒だった。

 本当にまぶたを閉じているのか疑問に思った。でもどうせ触れないので気にしない事にした。

 とりあえず、まぶたを閉じたつもりでじっと待ってみた。ひたすら待ってみた。まぶたを閉じたまま横になって待ってみた。そのままじっとしていた。

 ふと思った。僕はいつ寝てるのか。今、横になっている。けれども寝ていない。まぶたを閉じているけれど寝ていない。

 今までずっと歩いてきた。時間を気にした事はなかった。でも、いくらなんでも一日が長すぎる。色一色の世界で時間を感じる事は出来ないが、それでも一日が長すぎると思った。

 疲れていないから眠たくないのか。眠らないから疲れを感じないのか。

 その前に僕は何なんだろう。疲れない。眠らない。足を触れない。手を触れない。頭を触れない。息をしているかどうかも分からない。声を出せるのかも分からない。

 まぶたを閉じたまま考えた。答えが無いのは分かっていたが考えた。しばらくそのまま考えた。

 こんなに一つの所にじっとしているのは初めてだった。歩きもせず、走りもせず、ただただ、じっとしているのは初めてだった。

 まぶたを閉じたまま、横になったまま、じっとしていた。

 突然目の前が明るくなった。世界の色が変わったのだと思った。少し嬉しくなった。もう真っ黒から抜け出せると思うと嬉しかった。

 僕は飛び起きて目を開けた。まぶたを開いたつもりだった。もう一度目を閉じた。そしてゆっくり目を開けた。

 ?

 色が……なかった。赤でもない。青でもない。白・黒・黄・緑・灰・茶・紫・黄緑・水・桃・橙、どの色でもない……。全く色のない空間。目を閉じても色がなかった。

 下を見た。何も無かった。自分の見える範囲を見てみた。何も無かった。

 どこにも色が無かった。無色透明ってやつだった。僕の体も無色透明だった。

 この透けた世界を歩き始めた。目的も分からず歩き始めた。歩いている感覚だけが僕の存在の頼りだった。

 僕は歩いていた。色の無い世界を歩いていた。行き先は無かった。ただ歩いているだけで良かった。歩いている事が喜びだった。どこまでも歩いていく。ただひたすらに、前だけを見てどこまでもどこまでも。


 僕の体がこの世界に溶けるまで…。



  完

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