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 聖と話してから、葵はすっかり元気を取り戻した。梅雨のジメジメした空気やどんよりとした雨空は、ともすれば気鬱になりそうなものだけれど、橋本の怒声に萎縮するような事はもうない。

 七月末になれば、産休だった担当者が復帰してくる。それまでの間に葵は橋本の考えと相良の考え、どちらがこの会社の本質に近いのかを見極めようと思った。


 そうして自分の置かれた状況を冷静になって見てみれば、正論だと思って耐えてきた事の中にも理不尽な物言いがいくつもあるのだと気が付いた。

 同僚や先輩なら認められるような事も、葵がすると捨て置かれたり場合によっては曲解され叱責されたりもする。どう考えても橋本個人の思いから、葵のみに辛く当たってるようにしか思えない。これならきっと、上司さえ変われば問題なくなるのではないか。


 そんな風に葵は思ったのだが。残念ながら、その小さな希望は長く続かなかった。


「えっ、請求を断られたんですか?」

「んだ。牧原さんの言う通り、書類は間違いなく出したはずなんだけんどもなぁ。やっぱりダメなんだべか」

「いえ、そんなはずは……少し調べてみますね」

「よろしく頼むなぁ」


 七月のある日、代理で担当している個人客から保険金の支払い請求を断られたと相談が入った。特約を付けているから大丈夫なはずなのに、見逃されてしまう事も稀にだがある。

 担当部門に連絡を取り、顧客とも数度やり取りをしてようやく請求が通り、事なきを得た。けれどそれから数日後、葵は橋本に呼び出された。


「牧原、個人客の引き継ぎ準備は進んでるか」

「はい。大体は終わってます」

「そうか。なら、企業の方も今月末に間に合うよう引き継ぎ資料を作れ」

「……え? どうしてですか?」

「君には来月から総務に移動してもらう」

「総務? でも私は移動の希望なんて」

「君のような使えない人間にいられても困るんだよ。先日も支払いで揉めたそうじゃないか。腰掛けなら、総務でも充分だろう? これ以上、うちの課に迷惑をかけないでくれ」


 確かに支払い請求の件でやり取りはあったけれど、揉めたという程の事ではない。それに払い漏れを防げたのだから、責められる必要もないはずだ。

 けれどそれを橋本に言った所で聞き入れられないだろう。何を言っても無駄だと思い、葵は橋本を飛び越えて営業部長に直接相談する事にした。

 それなのに、部長から向けられたのは冷たい眼差しだった。


「君の言いたいことは分かった。だが、移動の撤回は出来ない。どうしても営業に残りたいなら、外回りではなく内勤になるだろう」

「どうしてですか?」

「君が営業にいても、社のためにならないからだよ。これを見ろ」


 渡されたのは一課の営業成績だった。橋本がまとめたらしいその資料には、担当者毎の契約数だけでなく顧客からの支払い請求がどの程度あったのかまで書かれていた。


「君だけ請求率が高いのが分かるか? 橋本が来てから一課の成績はずいぶん上がったのに、これでは利益率が下がってしまう。足を引っ張る君に橋本は半年も指導をしたらしいが、改善も見られないのだから当然だと思うがね」


 確かにここ最近、葵の担当した顧客からは支払い請求が度々あった。けれどその中には引き継いだ顧客もいるのだから、単に葵が契約した相手というわけでもない。

 それに利益率の上がる契約しか認めないとでも言われているようで、葵は嫌悪感でいっぱいになった。


「……つまり、顧客に必要のない商品も買わせろと?」

「そうは言ってない。ただ、社のことを考えたらもう少し上手くやれるだろうというだけだ」


 営業部長は葵が入社した当時から変わっていない。相良がいた時も同じ考えでいたはずだけれど、当然ながらこんな事を言われたのは初めてだった。

 これまでは相良が守ってくれていたのだろうか。相良なら、こういう時にどんな風に言い返していたのだろうと考えるけれど、葵にはさっぱり分からない。

 結局葵は、それ以上何も言えずに引き下がるしか出来なかった。


 無理して営業に残っても、顧客と関わらない内勤は葵のやりたかった仕事ではない。それは総務も同じ事で、葵は数日悩んだ末に辞表を提出する事にした。

 同僚たちからはパワハラだと訴えたらどうかと言われたが、そんな気には到底なれなかった。部長があれでは、橋本をどうにかした所で何も変わらないだろう。

 葵が提出した辞表を、橋本はどこか嬉しげに受け取っていた。


 月末に引き継ぎを終えると、残っていた有休を退職日まで使う事にして葵は会社を去った。

 夏空の下、五年勤めた会社を見上げると、胸にポッカリと穴が空いたような気持ちになる。


 相良に憧れて入社したけれど、相良のようにはなれなかった。会社組織としては利益を追求するのだって必要なのは理解出来る。それとどう折り合いを付けるのかを相良はきっと上手くやっていたのだろうけれど、葵には出来なかった。

 顧客第一主義を掲げるには、自分は不器用過ぎたし打たれ強くもなかった。きっと似たような事は他の会社でもあるはずで、そうなると今後自分がどうしたらいいのかも分からない。


 茹だるような暑さの中アパートへ帰ると、葵は燃え尽きたようにボンヤリとしたまま半月を過ごす。

 お盆に実家から顔を出すように連絡が来てからようやく、葵は重い腰を上げた。


「ちょっとアオ、酷い顔じゃない。聖さんと何かあったの?」

「え? ううん、何もないよ」

「じゃあ何なの? おばさんたちも心配してたよ?」

「あー、ごめん。そうだよね……」


 まだ家族にも誰にも、仕事を辞めた事を話していなかった。葵と同じく帰省してきた新婚の璃子に詰め寄られ、葵は渋々ながらも白状した。


「実は仕事をね、辞めたんだ」

「はぁ⁉︎ 憧れの相良さんはどうなったのよ!」

「東京にいるよ。半年前に栄転したの。後をよろしくねって言ってもらったのに、私じゃ全然ダメだった」


 葵がどれだけ熱心に仕事に取り組んできたのか、璃子も知っている。消沈している葵を、璃子は慰めようとしてくれた。


「ダメなんてことはないよ。たまたま新しい上司が合わなかっただけだって。他の会社にも、きっと相良さんみたいな良い上司もいるんじゃない?」

「うん……そうだね」

「転職先も保険会社にするの?」

「まだ探してないんだ。失業給付金がもらえる間に、ゆっくり考えようと思って」

「そっか。そうだね、他の職種だっていいだろうし。ずっと頑張ってたから、のんびり旅行したりしてもいいかもね。気晴らしに」

「うん、ありがとう」


 璃子の気遣いは嬉しいけれど、不思議と今は気持ちが晴れない。聖に励まされた時はあんなに元気になれたのに……と思うと、不意に聖に会いたくなった。




「ごめんね、葵。急に頼んじゃって」

「ううん、私こそ忙しい時に連絡しちゃってごめんなさい」

「むしろ助かったよ。それに葵に会いたかったから、来てくれて嬉しい。今日はよろしくね」


 お盆は行楽シーズンでもあるから、古民家カフェCarolは連日満席になっていて大忙しらしい。

 聖に会いに行っていいかとメッセージを送ると、休みの間だけでいいから良かったら店を手伝ってくれないかと返事が来たから、葵は快く引き受けた。


 森の中にあるからか、キャロル周辺はそれほど暑さを感じない。店内は冷房も適度に効いていて、越屋根から入り込む夏の日差しが明るく清々しさを感じさせる。

 動きやすい服装でと言われたから、今日の葵は黒のスキニーパンツに袖がポワンと膨らんでいる半袖シャツというシンプルな装いだ。髪はまとめてお団子にし、貸し出されたチャコールブラウンのソムリエエプロンを着けて店に立つ。

 聖も白いシャツの袖を捲っており、黒のチノパンを履いているから、揃いの制服のようで丁度良いだろう。


 聞いていた通り、開店と同時に客はひっきりなしに訪れて店内は常に満席、駐車場は満車となった。それでも路駐してまで持ち帰りの商品を買おうとする客まで来るから、葵は悩む暇もなくコマネズミのようにクルクルと働く。

 近隣に住む常連客は、この混み具合に来店を自粛しているのか顔を見せない。常連には保険の顧客が多くいるが、葵が会社を辞めた事は誰も知らない。ただ元の担当に戻ると挨拶をしただけなのだ。会ったらどう説明しようかと思ったりもしたが、そんな事は一度もなくて安堵した。


「お疲れ様。今日は来てくれて、本当に助かったよ」

「こんなにお客さんが来るようになったんですね」

「盆休みだからか、この数日は特にね。路駐が多過ぎて、このままだと苦情が来るかもしれないって心配だったんだ。葵がいてくれて良かった」

「お役に立てて私も嬉しいです」


 夕暮れ時、閉店の看板を表に出して店へ戻ると聖はアイスコーヒーを入れてくれた。

 昼食も満足に取れなかったからと、聖は申し訳なさそうにパニーニも出してくれる。この店で二人並んでカウンターに座ってゆっくり食事をするのは初めてだけれど、何だか妙に落ち着いた。

 程よい疲労を感じつつ葵がホッと息を吐くと、聖はフワリと微笑んだ。


「ねぇ、葵。良かったら今日だけじゃなくて、しばらく手伝ってくれない?」

「え……」

「この通り、僕一人じゃ回せなくなってきてるんだ。うちじゃ忙しすぎて嫌かな?」

「……そんなことはないですよ。大変だったけれど、楽しかったですし」


 仕事を辞めたとはまだ聖には言っていないけれど、気付かれているのだろうか。俯いた葵の手に、聖はそっと手を重ねてきた。


「葵と一緒に働けて、僕は嬉しかったよ。嫌じゃないならぜひ頼みたい。送迎もするからさ」

「聖さん……」

「聖って呼んでよ、もういい加減。僕たちは友達なんだから」


 葵の手を握り、聖は苦笑する。

 大きくて頼りがいのある手に包まれると、空虚だった胸が優しい温もりで埋まっていくような気がした。


「上司と部下になるなら、このままの話し方の方がいいと思うんですけど」

「働いてる時は店長でも何でも好きに呼んでくれていいよ。でも今は、もうプライベートの時間だから」

「……そのうち慣れたらでもいいですか?」

「もちろん。明日からバイトで入るって事でいい?」

「はい。よろしくお願いします、店長」

「こちらこそ、よろしくね」


 仕事も恋も、先の事はまだ何も考えられない。それでも聖のそばにいられたら、きっと頑張れる気がする。ここで働いていれば、そう遠くない未来に答えを出せるのではないだろうか。

 無償で差し伸べられる手を取っていいのか迷わないわけではないけれど、今はその優しさに縋りたかった。

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