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翌日から葵は、聖に送迎してもらいバイトへ向かう事になった。開店準備から閉店後の片付けまでいる事になるから、長時間拘束してしまう事を聖は詫びてきたけれど、葵としてはこれまでの仕事を考えるとこの程度はどうという事もない。
特に橋本が来てからの半年間は休日もなく働き続けてきた。サービス残業は当たり前で、食事や睡眠も限界まで削っていた。退職後は引きこもってばかりだったけれど、どちらにせよ健康的とはいえない。それと比べれば、カフェのバイトはまるで天国のようだ。
朝食を食べてすぐ、迎えに来てくれた聖の車に乗って片道一時間かけて店へ向かう。着いたら開店準備を二人でして、十時から夕方五時まで営業。閉店後は葵が片付けをしている間に聖が翌日の仕込みなどをして、夕食も食べてから家へ送ってもらう。
昼と夜は聖の作ってくれる賄いで、当然ながらとても美味しい。お盆休みは忙しすぎて昼休憩は最低限しか取れないけれど、平日になって客足が落ち着けば時間の自由はもう少しきくだろう。何より、ちゃんと朝に出かけて夜には帰宅するのだから人間らしい生活だ。三食きちんと食べれて睡眠も充分取っているからか、ほんの数日の間で荒れていた肌もずいぶん良くなった。
そしてほぼ一日中聖と一緒にいるわけだけれど、これがまた心地良い。移動の車中では、話し上手な聖のおかげで他愛無い会話が弾む。
聖とは一夜を共にした事もあったけれど、二人きりでじっくりと腰を据えて話をしたのは実はそう多くはない。葵が店に客として訪ねたのは大抵保険の営業の時で、顧客も一緒だったから個人的な話などほとんどしなかった。璃子と高木を連れて来た時が唯一と言っていいだろう。
メッセージのやり取りは毎日していたけれど、デートの誘いは断り続けてきた。だから初めて会った時を除けば、二人で会ったのは璃子の結婚式の後ぐらいだ。その時も葵の悩みを聞いてもらってばかりだったから、何気ない時間を共有するというのは初めてともいえる。
送迎するという聖の申し出を素直に受けたのは少しでも節約したいという気持ちからだったし、バイトを決めたのは再就職についてあれこれ悩むより動いていたいと思ったからだ。
少しでも聖の役に立てるのならやり甲斐もあると思ったけれど、こんなに穏やかな気持ちになれるのだから自分のためにも良かったのだと思う。
唯一の懸念といえばお盆休みが終わって顔見知りの常連客が来た時、葵がバイトしている事をどう思われるだろうかという事だったけれど、これも心配する必要はないのだとすぐに分かった。
「いらっしゃいませ」
「あれ、牧原さんでねえか。ついに嫁に来たのけ」
「えっ、嫁⁉︎」
お盆休みが終わって最初の平日、一番乗りで店に来たのは田中のおばあちゃんの息子の明夫だった。
久しぶりに会うというのに顔を合わせた途端に思いがけない事を言われたものだから、挨拶もそっちのけで葵は唖然としてしまう。
すると聖が、楽しげに笑みを溢した。
「明夫さん、まだ口説いてる最中なので揶揄わないでくださいよ」
「なんだ、まだなのけ。こんな良い男を待たせるなんて、牧原さんも隅に置けねえなぁ」
「待たせるって……」
「そんな驚くことねえべや。牧原さんが来ている時の店長の顔見たら、誰でも分かっから」
一体どういう事なのかと、注文を取りつつも詳しく話を聞いて葵は驚いた。
どうやら常連客の間では、聖が葵に惚れていると知れ渡っていたらしい。元々常連には保険の顧客が多いし、そうでなくても営業で店に来ていた葵を見る機会も度々あった。葵の人柄を良く知る彼らは皆、聖の事を応援していたんだそうだ。
「担当を外れるって聞いてたし、もしかして結婚の予定でも出来たのかってみんなで話してたんだけんども、違ったんだなぁ」
「ち、違います! 全然違います!」
「でもそんな格好してるってことは、ここで働いてんだべ? 保険屋はやめたのけ?」
「それは……はい、そうなんです」
「ならまだチャンスはあんだべな。良かったな、店長。口説き放題でねえか」
葵は仕事をやめた理由をどう説明しようかと思ったのに、明夫はそんな事などお構いなしに楽しげに笑っている。何だか肩透かしを食らったようで、葵はポカンとしてしまった。
そんな葵を置いてけぼりにして、聖は「頑張るので応援してくださいね」なんて話しながらコーヒーを出した。
明夫は毎日朝一番にコーヒーだけを飲んで仕事に行っているらしい。ゆっくりカップを傾けて、満足げに微笑んだ。
「まあ若い人にも色々あるんだろうからなぁ。保険屋じゃなくなっても、何かあったら相談ぐらいは聞いてくれるんだべ?」
「ええと、そうですね。そのぐらいは」
「なら安心だなや。おら達のことは何も気にしねくていいから、牧原さんはとにかく店長のことしっかり考えてやってな。嫁に来てくれるんなら、おら達も歓迎すっからよ」
コーヒーを飲み干し慣れた様子で会計も済ますと、明夫は上機嫌で去っていった。その後続々とやって来る常連客も皆が皆同じような反応で、葵はとにかく面食らってしまった。
「ごめんね。葵を好きだって話したわけじゃないんだけど、いつの間にか知られちゃってて。みんな悪気はないんだ」
昼過ぎになり客足が一段落すると、聖が申し訳なさそうに言ってきた。
もしかしたら葵が仕事をやめた理由を話していたのかとも思ったけれど、どうやらそれもないらしい。となると、みんな本気で聖のために葵がここで働き始めた事を祝福しているのだ。
最初は戸惑っていた葵だったけれど、これだけ続くと何だか笑えてきてしまった。
「みんな良い人なのは私も知ってますから、大丈夫ですよ。それより聖さん、ずいぶん馴染んだんですね」
「うん、まあね」
聖と結婚すれば、葵もここでずっと働くのだと皆が考えているようだった。当たり前のように「嫁に来い、歓迎する」と口を揃えて言うのだ。聖の家は街中のマンションなのに、まるでここに住んでいるかのように。
つまりそれだけ、聖とこの店は地域に根付いたという事なのだろう。半年前では考えられなかった事だけれど、常連客と接する聖を見ていると家族のように受け入れられるのも理解出来る。
そんな客との関係性が、葵の目には眩しく見えた。
「羨ましいな……」
「何言ってるの。僕がこうして受け入れてもらえたのは、葵のおかげだよ」
休憩だからと、聖はデザインカプチーノを渡してくれた。綺麗に浮かぶハートを崩さないように、葵はそっと口を付けた。
「私は紹介しただけですから聖さんの人柄ですよ。それに比べて私は、せっかく保険に入ってもらったのに会社をやめちゃって。無責任ですよね」
「そんなことはないよ。退職しても、また相談させてほしいって言われていたじゃないか。それだけ頼りにされるほど、葵は一人一人と向き合ってきたんだよ。もし葵がただ商品を買ってくれる客だとしか思ってなかったら、こうはならなかったと思う」
相良のようになりたくて、顧客を第一に考えて五年間頑張ってきた。橋本からはこき下ろされてしまったけれど、自分のやり方は間違っていなかったのだろうか。
利益を重視する会社の圧力に、相良と違って葵は上手く対応出来なかった。最後まで粘れなかった自分を情けなく思っていたけれど、全てが無駄だったわけではないのかもしれないと、聖と話していると思えてくる。
じっと考え込んでいると、聖は「それに」と言葉を継いだ。
「葵は今も充分みんなに受け入れられていると思うけれど、心配ならこれから新しい関係を作っていけばいいんじゃないかな。ご近所さんへの配達を頼むこともあると思うし、今までとは違った関わりが出来ると思うよ」
怪我や病気などいざという時に備える保険での関わりと違って、カフェの店員としての客との関係はより日常的だ。これまでも一人一人の細かな心配事にまで踏み込ませてもらってきたけれど、また違う角度で向き合う事になるだろう。
そこで築き上げていくものはこれまでとは別物なのだろうけれど、お客様のためにという根本的な気持ちに変わりはないのかもしれない。
一度挫折してしまった自分にも、出来るだろうか。
聖のようにこの地域に溶け込めるかは分からないけれど、店で働いている間は精一杯やっていきたいと葵は思った。




