その道に血を叫びを残すものは
はっと、目を覚ました時には夕方に近い時間だった。先ほどよりも体が動けるようになったので、とりあえず、腹部に薬を塗って着替えようと思い、立ち上がる。
服を脱ぎ捨てて、傷の辺りに水を含んだ布で丁寧に拭いてから、昨日と同じ薬を腹部に塗り、布の端切れを湿らせたものをそこに張る。
「っ……痛い、なぁ……」
ふと、鏡に映る自分を見てみると昨日よりも酷い顔をしていた。包帯で腹部の辺りをぐるぐると巻いて、別の服を着る。窓の外は夕暮れ色に染まり始めていた。
「……もう、ここには居られないのかな……」
村人達は怒りの矛先を自分へ向けている。だからといって、この森から出て新しい居場所が見つかるとは限らない。それならば、静かに時が経つのを待つしかないのだろうか。その時になれば、自分が傷付けたのではないと言う事が出来るだろうか。
ふと、頬に冷たいものが伝う。
「……っ」
きっと、無理だ。今までが何事もなく、過ごせていた方が不思議なのだ。いつ爆発するかも分からなかった、彼らの自分への恐怖と不安。
とにかく、今はこれからどうするかを考えようと、涙を拭いて立ち上がった時、外が風によって轟々と大きな音を立てていることに気付く。
外へと飛び出すと、風は大きな声で言った。
『逃げろ、逃げろ、エイレーン……! 奴らだ、奴らが来る……!』
いつもよりも雄弁に風はそう告げる。
「何が来るの……?」
『奴らは叫び声をもたらす。奴らが通る道には血が残る。……魔女狩りだ……。彼らが村へとやってくる。この森へ来る……! お前を捕まえに来る……!』
その言葉に背筋が凍る。
――魔女狩り。頭の中に響く言葉は母から教えられていたものと同じだ。魔女を捕らえ、拷問する彼らの名前。
「異端、審問官が来るの……?」
魔女の犯した罪を責め、認めさせることを職業としている者達だ。その際に行われる拷問では、口では言えないほど、おぞましいものがあると母から聞かされていた。
『逃げろ、逃げろ……。森の結界が弱くなる前に……』
風はそれだけ告げて、村の方へと向かう。
「っ、どうすれば……!」
捕まったら、恐ろしい尋問と拷問が待っているのは間違いない。
エイレーンは跳ぶように家の中へと入り、肩に下げる大きな鞄を手にとる。そこに今まで貯めていたお金、少しの薬と母から譲り受けた調合書、簡単に食べられるパンや干物類、種など次々に入れていく。そして最後に大事にしているお守り袋を首に下げて、家を飛び出た。
捕まるわけにはいかない。自分が捕まれば、あの魔物の襲撃は確実に自分が行ったことにさせられる。それに、母の夢だったローレンス一族を見つけることさえも叶わなくなる。
「ここを見つかるわけにはいかないわね……」
机の上に置いていた自分の血がべっとり付いた矢を手にとり、家の周りを囲うように円を描き、そして玄関の前へとその矢を突き刺した。
「この血は証。入ることは誰にも許されず、その血を持つものだけが、門の鍵を得る」
エイレーンは手と手を合わせて軽く音を立てる。
「木々は根を張り、空高く囲う。姿は見えず、誰にも知られず、それは息となる」
地面からは大きな幹の木々が次々と生えてきて、家を囲うようにとぐろを巻いていく。
今まで住んでいた家を惜しむように眺めながら、唇を噛み締め、右手を下ろした。そこに現れる霧が、全てが幻だったのではないかと思うほど、その場を白く覆っていく。
この家には沢山の思い出が詰まっており、悪用されたくはない。血の魔法をかけたので、この魔法が解けるのは自分か同じ血が流れている血縁者だけだ。大丈夫、見つからない。
「……さようなら」
エイレーンはその場から振り切るように立ち去る。遠くで人が騒ぐ声が聞こえた。恐らく、風が森に結界を張ってくれているので、中に入れない人々が文句を言っているのだろう。
だが、お礼はあとだ。今は少しでも遠くに逃げなければならない。エイレーンは森の奥へと早歩きする。森の奥には隣町の森へ繋がる道があったはずだ。そこを目指して、とにかく逃げるしかない。
夕方の色が濃くなるほど、人は森へ入ることを恐れる。森には恐ろしい生き物がいると信じているからだ。
だから、今のうちしかないのだ。全てを捨てるように、後ろを振り向かずに歩き続けることしか残されていない。
ふと、誰かが自分の名前を呼んだ気がして、エイレーンは立ち止まる。
立ち止まったのにはもう一つ理由があった。今、草木を分ける音がしなかったか。今、この森にいるのは自分だけだ。元から、ここの森には人が入れないように魔法をかけているし、どの道を歩いても出口につながるようにしている。
そして今は風が作っている結界が人々を足止めしている。魔法はまだ解けていないし、魔法が破れた気配もない。では、誰だ?
エイレーンは足音がする方にゆっくりと振り返る。息を潜め、ただ足音の方を見ていた。
木々の間から割って入るように姿を現したのは、フード付きの黒い外套を羽織った人間だった。その者はこちらの姿を見つけると、ただじっと目を凝らすように自分を見てくる。
「…………」
「…………」
暫くの間、沈黙が続いた。口を開いたのは向こうだった。
「……この森の魔女、か?」
「っ……」
魔女。魔法が使えるのでそう呼ばれても仕方がない。
「それなら、何? 私を捕まえにきたの?」
エイレーンはこの時、確信していた。この人間は、他の者とは違う何かを持っているのだと。でなければ、この森に簡単に入る事など出来ない。
声の主はフードを脱ぎ、こちらに更に鋭い瞳を向ける。黒髪に黒目の、同じ年頃くらいの男だった。真っ直ぐとこちらに向ける瞳は研ぎ澄まされた刃のように痛い。
「……俺は異端審問官だ。……君には村を襲った嫌疑がかけられている」
「私じゃないわ!!」
エイレーンは力いっぱいに声を張る。
「私はこの村を魔物が襲うと知ったから……だから、村人を助けたくて……」
「…………善意が仇になって返ってきた、と言いたいのか?」
「……っ」
確かに今の自分には言い訳にしかならないだろう。村人達の証言が異端審問官である彼にとっては有益な情報なのだ。
「でも、魔物が襲ってきたのは本当よ。……この村の下に位置する村々がどうなっているかは分からないけれど……」
「君の言うとおり、ここら一帯の村々はほぼ壊滅状態だ。唯一、生存者がいたのがこの村くらいで、他の村の被害は酷かった」
吐き捨てるように男は言った。やはり、あの魔物達は他の村で人を襲っていたのだ。
「とにかく、疑いを晴らすには自分の言葉で話すしかない。村を救ったと言いたければ……」
「そんな事が言いたいわけじゃないわ!!」
エイレーンは左手を握り締めて、近くにあった木に思い切り打ちつける。木々に住んでいる鳥達が騒がしく音を立てながら飛び立っていった。
「私は救世主になりたいわけじゃない! 私は……! 私は、ただ村の人達に、認めてもらいたかっただけよ……!」
男は一度、目を瞑り、そして再びこちらへと視線を向ける。
「主張は分かった。だが、無実だと言うなら、それを審議しなければならないのが審問官の役目だ。……時間がないが一度、村まで来てもらう」
男はエイレーンの方へと近づいてくる。
「来ないで! ……止まって!」
エイレーンがいつものように右手をかざして、魔法を使う。だが、その魔法は男を捉えなかった。ちゃんと、魔法は発動しているはずだ。もう一度、エイレーンは手を振りかざす。
「眠って! ……眠りなさい!」
男の動きを止めようとエイレーンは魔法を使うも、男が魔法の通りになることはなかった。
「どうして……!?」
「魔法なら、効かない」
男は静かに答える。その瞳に光はない。
「俺に、魔法は効かない」
その言葉にエイレーンは全ての事を一瞬で理解した。どうしてこの男が森に入れたのか、なぜ自分が魔女だと分かったのか。
ずっと、昔に母から聞いたことがある、魔法が全く効かない人間が世の中には居て、自分たちが魔女だと見極める目を持っていると。
「そんな……」
エイレーンはゆっくりと後ろへ下がる。彼に魔法が効かないならば、自分はただの人間と同じに変わりない。
「いやっ……。来ないで……」
男に背を向けて、エイレーンは森の奥へと走り出す。
「おい! 待て!」
逃げる自分を彼は後ろから追いかけてくる。手傷を負った自分なら、簡単に追いつかれてしまうだろう。
「霧よ……白く遮るものよ……どうか、我が姿を眩ませよ……」
自分が通る道の後方には白く濃い霧が立ち込めていく。たとえ、直接的な魔法が効かなくても、自然が作り出すものならば、彼の目を欺くことが出来るはずだ。
矢で受けた傷が広がったのだろう。じわりと痛みが戻ってくる。
「こんな時に……!」
エイレーンは奥歯を噛み締め、縺れそうになる足を必死に動かす。
逃げろ、逃げろ。何のために風が時間を稼いでくれたのか。自分を遠くへ逃がすため、生かすためだ。痛みなど、後から味わえばいい。
「やめろ!! そっちには行くな!!」
後ろから男の声がこだましてくる。だか、エイレーンがそれに従うことはない。
「え……?」
突然開けた視界に、空が見えた。しかし、足元にはその先へ続く道はない。
「あ…………」
気付くのが遅かった。この森の事は熟知していた。焦っていたから、考えが及ばなかったのだろう。この先は崖だったのだ。
体が宙へと投げ出されていく。ゆっくりと、ゆっくりと外へと投げ出され沈んでいく。誰かが自分の名前を呼ぶ声がした。崖上にある森の木々が遠く、空に近く見えていく。
……落ちる!
その意識さえも遠のき、地面へと打ち付けられる直前、ふわりと体が柔らかいものに包まれる。その正体が自分は誰か知っていた。
耳元で、優しい声が、ゆっくりと穏やかに響く。
『……逃げて、生きろ……。この森は、守る……だから、……心配するな……』
風だった。
風が住む領域はこの崖より向こうの森からだ。こちらは別の風の領域となっているため、力を上手く出せないのだろう。それでも、風は自分の体をゆっくりと地面へ下ろす。
「ごめん、なさい……」
エイレーンは手を伸ばす。風の言葉を聞いていれば、何か変わっただろうか。気を失う直前に、最後に風に触れる。優しく爽やかな手触りは、いつもと変わらなかった。
『どうか、元気で……』
すっと、風の気配が消える。最後に聞いた風の言葉を耳に残しながら、エイレーンの目から涙が自然に流れていた。