優しき花の笑顔
ふと、体が身震いした気がして、ゆっくりと目を開ける。一番に目に映ったのは、夜空にぽつりと浮かぶ星々で、辺りはすっかり夜だった。
春がまだ来ていないこの地域の夜は特に冷える。その寒さが更に腹部の傷に沁みて痛い。
……大丈夫、生きているわ。
仰向けのまま、自分が落ちた崖を見上げる。一軒家が三軒ほど連なった高さの崖だ。普通に落ちていたら怪我だけでは済まなかっただろうが、風が助けてくれたおかげで無事だった。
地面の上に寝かされた体は完全に冷え切っていた。余程、長い時間気を失っていたのだろう。
「うっ……」
地面に手を着いて何とか立ち上がることは出来たが、もう走ることは出来ないだろう。それでも、逃げ続けるしかない。一度捕まれば、そこには地獄が待っているだけだ。
この森を抜ければ、イグノラント地方だと聞いている。トリエ村と同じアリフォシア王国の地域の一つで、かつてはそこに中心都市が築かれていた王国があったらしい。
だが、王都が遷った今の町は寂れているらしいが、町としての機能は働いているはずだ。暫くはそこに潜んで、傷が治ってから落ち着ける土地を探さなければならないだろう。
「……ぐっ……」
寒さで、更に痛みが増した気がする。せめて、何か分厚い布でも羽織ってくれば良かったが、後悔しても戻ることはできない。
しかも、夜に活動する生き物は多くいる。今は静かにしているが、すでに血の匂いで獣達は自分の存在に気付いているはずだ。
「……言っておくけど……私を食べても美味しくないわよ」
自嘲めいた笑みを浮かべて、右手を胸に置き、言葉を連なり始める。
「それは影のように、捕らえられず。吐く息のように見えず。花の香りのように消える」
昔、幼い頃に母から教わった、姿を見えなくする魔法だ。住んでいた森に悪いものはいないが、夜に見回りや散歩をする際によく使っていた。これで暫くの間は獣や魔物から姿を見られることはない。
今のうちに少しでも歩数を稼いでおかなければ、すぐに追いつかれてしまう。
だが、気力はあっても体の方が追いつかなかったのか突然、膝ががくり、と前のめりになり、もつれた足から崩れるように地面に身体が投げ出されてしまう。頭の中が揺れているような感覚で、意識が遠のいていく。
恐らく、出血が多かったせいで、血が不足しているのだ。
「……もうっ、どうして、こんな時に……!」
仕方なく、身体を引きずりながら、すぐ近くの木に寄りかかるように座り込む。ここで体を休めていくしかないようだ。
「……我が敵となるもの。……悪意あるもの。ここに、……見えぬ壁を、作りて……我を……」
無理が祟ったのか、言葉を紡ぐ途中で、再び気を失ってしまう。
エイレーンは自分の名前を呼ぶ声が頭の中で響くのを意識が深く沈む中で聞いていた。
――――エ……レ……。
……誰だろう。私、この声を知っているわ……。
幼い姿の自分に語りかけられる言葉。それははっきりしない。でも、声だけがひどく懐かしく感じる。 どうしても、思い出せない。その言葉。そして、その声の主。
……ん? ……何だか、柔らかいものが……
そこでエイレーンは、はっと目を覚ます。知らない光景がそこにはあった。古びた木製の机と椅子が壁の方向に向いて佇んでおり、隣には小さな箪笥のようなものの上に水差しと古びているが大事そうに使われている椀。
そして、自分がいるこの場所は紛れもなくベッドの上だ。
「……え?」
がばっと、一気に体を起こして周りを見渡す。どうやらこの部屋は石材で作られているらしく、頑丈なようだ。
自分の上には薄い布団がかけられており、外の明かりが差し込む窓は少し開けてある。窓枠には小さな花が器のようなものに生けられていた。
「……ここは……」
もしや、気を失ってしまったあの後に異端審問官に捕まって、この部屋に閉じ込められてしまったのだろうか。
だが、それにしては窓は開けられているため不用心である。首を捻っているとこの部屋の唯一の扉が静かに開く。身構えようとしたその時、弾んだ声が部屋へと転がり込んできた。
「あっ、起きたの? 気分は大丈夫? 痛いところは?」
白と黒で統一された服を着た少女は花のような笑顔でエイレーンのもとへと駆け寄ってくる。
その手には何か作ってきたのかスープのようなものが入った皿を持っていた。それを一度、箪笥の上へと置いて、遠慮なくエイレーンの顔を覗き込む。
「ねぇ、大丈夫? お腹の辺りが血ですごく染まっていたから……申し訳ないとは思ったけど、勝手に服を脱がせて、手当てさせてもらったわ」
少女は少し、不安そうな表情で顔色を伺ってきた。
「え……。あ、本当だわ……」
そういえば、自分の服が変わっていることに気付いた。この服も彼女のものなのだろうか。
「いま、洗って干しているから。乾いたら持ってくるわね。あ、このスープ、あるもので作ったんだけれど、良かったら食べて」
「え、あ……えぇ……。えっと……」
何と答えれば良いかエイレーンが迷っていると少女は少し、しまった、という顔をした。
「あ、ごめんなさいね。忘れていたわ。私はミリシャ・ハイゼン。この教会で暮らしているの」
「教会……」
「今は私以外に誰もいないけれど……。私の父が……引き取ってくれた養父が元々、ここの教会の神父だったのよ」
今、彼女の顔が一瞬だけ曇ったのが見えた。
「でも、驚いたわ。山菜取りに出掛けていたら、あなたが森の奥で倒れていたんだもの」
「……あなたが抱えて運んでくれたの……?」
「えぇ、そうよ。力仕事は得意なの」
その華奢な体からは人を一人抱えられるようには見えないがおかげで、助かったのは事実だ。
「ありがとう、助けてくれて……。私はエイレーン・ローレンス」
だが、自分の名前を言った後に気付いてしまった。
魔法が使えるローレンス一族の話を知っているかもしれないと思い、名前を全て言ってしまったことを後悔したが、ミリシャは納得したように笑って頷いているだけで、何か不審に思ったような様子は見られなかった。
ひとまずエイレーンは安堵の溜息を隠しながら吐いた。
「そう、エイレーンね。ねぇ、エイレーンはどうして森の中にいたの? あの森は夜になると獣が多くなるから町の人は入らないようにしている場所なのよ」
その質問には全て答えかねてしまう。異端審問官から逃げてあの場所で気を失っていたなんて、到底言えない。言葉を選びながら答えるしかない。
「えっと……旅の途中で怪我をしてしまって……。それであの場所で少し休んでいたら、眠ってしまっていたの」
間違いではないが、これだと何だか間抜けな話になってしまう。
「まぁ、一人で旅を? すごいなぁ……。私、ここの町からあまり出たことがないの」
少しだけ寂しそうに彼女はそう言った。
「……ねぇ、エイレーンはこの先、どこに行くか決めているの?」
「えっ? ……ううん。でも、この町に用があって来たの。……そうだわ。どこか食料が調達出来そうな場所ってあるかしら。お店でも、市でも……」
あまり長居する気にはなれないが、とりあえず食料だけでも調達しておきたい。
しかし、途端にミリシャは申し訳無さそうな表情をする。
「……教えてあげたいのだけれどこの町、今は人が少なくて、お店が殆ど閉まっているの」
「そんな……」
トリエ村よりは大きい町だろうと思っていたが、店が開いていないとなると意味がない。
「人が少ない上に食糧難が続いていてね。食料の仕入れも出来ないんですって……」
ミリシャはエイレーンの傍から離れて、窓側の方へと体を向ける。
「それに収穫された作物の殆どが王都に出荷されるから、こちらの方まで出回ってこないのよ」
「…………」
何とも可笑しな話だ。トリエ村は貧しく見えるようで、実は食料に関しては蓄えがあったのは知っている。田舎で人は少ない分、食料が余るのだ。
だが、収穫された作物はこのイグノラント地方にも出荷されているはずだ。
「……ごめんなさい。こんな話をされたら、せっかくのスープの味も台無しになっちゃうわね」
小さく笑ってミリシャはスープの入った皿をエイレーンへと渡す。
「遠慮なく食べてね。今日は森で茸がたくさん採れたから、多めに作ったの」
気まずくて、食べることを躊躇すると思ったのだろう。ミリシャの心遣いに感謝しながら、スープを匙で掬って一口、口の中へと含める。
「…………」
自分以外の人が作った料理を食べたのは何年ぶりだろうか。具材は茸と野草が入っているだけで、他には何もない。味付けだって、自分が作ったことあるものと同じようなものだ。
それでも、これほど身に沁みて、美味しいと思ったことはなかった。
「……美味しい」
「そう? 良かったぁ……。あ、私、下でちょっとお仕事してくるから、ゆっくり食べてね。後でまた様子を見にくるから」
ミリシャは弾んだ声でそう告げて、軽やかに立ち上がる。しかし、進みかけた足を止めて、頭だけこちらを向く。
「それと傷が治るまで、絶対に無理しちゃ駄目よ? 治るまで面倒みるから、安心してね」
またね、と言ってミリシャの姿は扉の向こうへと消える。それを見送ってから、エイレーンは力の入っていた肩をゆっくりと下ろす。
どうやら、彼女は異端審問官とは全く関わりがなさそうだ。でなければ、異端審問官が食糧難の中、善意で大切な食料を見知らぬ人間に与えることはしないだろう。
それに、ミリシャの性格からして、困っている人を見過ごせないような感じも見受けられた。
……いつぶりかしら。人が私の目を見ながら話してくれたことなんて……。
ミリシャが作ったスープを飲んだ時、我慢していなければ泣いてしまいそうだった。
「あ……まだ、スープのお礼を言っていないわ……」
ふと、花のようなあの笑顔が頭に浮かんでくる。良い人だと思う。また、あとで様子を見にくると言っていた。その時にお礼を言おう。
「…………もし、私が……」
魔女ではなかったら、友達になれていただろうか。
その先の言葉を言えず、エイレーンは小さく俯き、再び匙でスープを掬った。




