EP 7
定時退社OLと、深夜のスペシャルティコーヒー
「マジだるいんだけどー。なんでウチまで歩かされなきゃなんないの? つか、ヒールでこんな歩くとか労災降りるっしょ」
「文句を言うなポンコツ右腕! お前はスマホ歩きをやめろ、電柱にぶつかるぞ!」
夜の丸の内、オフィス街。
ネオンと喧騒に包まれていた渋谷とは打って変わり、冷たいビルの谷間には静寂が落ちていた。文句タラタラの金髪ギャル(白虎)と、それにガミガミ説教するホログラム大型犬を引き連れ、俺はスマホのマップが示すポイントで立ち止まった。
「……シグナルはここから出ているな」
俺が見上げた先には、外資系の一流企業が入っていそうな全面ガラス張りのインテリジェントビル。そのエントランスの自動ドアが開き、カツン、カツンとヒールの音を響かせて一人の女性が出てきた。
タイトなひざ丈スカートに、パリッとした白のブラウス。知的な銀縁メガネの奥の瞳は、まるで氷のように冷たく澄んでいる。
「おっ、左腕パーツの『青龍』だ! おい青龍! 迎えに来てやったぞ!」
ガオンが尻尾を振りながら駆け寄る。
しかし、青龍と呼ばれたメガネのOLは、冷ややかな視線をガオンに落とすと、左腕の高級腕時計に目をやった。
「現在時刻、20時00分。私の所定労働時間は完全に終了しました。定時ですので帰ります」
「はぁ!? お前、自分が何言ってるか分かってんのか! 日本が魔将機にメチャクチャにされかけてるんだぞ! 左腕の高出力レーザーがないと火力が足りねぇんだよ!」
「契約外の業務(サビ残)はお断りします。私は日本の『アフターファイブ』という素晴らしいシステムを尊重していますので。それでは、お疲れ様でした」
ぺこりと完璧な45度の角度でお辞儀をし、立ち去ろうとする青龍。
その凛とした背中を見て、俺は深く、深く頷いた。
「……素晴らしい。労働者の鑑だ」
「おい人間!? なんでお前が納得してんだよ!」
ガオンが慌てて俺のズボンの裾を噛むが、俺は青龍の姿勢を痛いほど理解できた。
定時退社は正義だ。無駄な残業など、システムの寿命を縮め、バグを誘発するだけの悪習に等しい。俺のように72時間ぶっ続けでコードを書いている環境が異常なのだ。
「待て、青龍」
俺は声をかけ、彼女の前に立った。
「だが、システム(世界)がクラッシュ寸前の今、緊急のメンテナンス(残業)は避けられない。お前の力が必要だ」
「……貴方は?」
「ガオンのテイマーだ。そして、お前を『特例の残業』に引きずり込むための、人事だ」
俺は背負っていたリュックを下ろし、路上のベンチの上に広げた。
深夜のオフィス街のど真ん中。リュックの中から出てきたのは、特注の携帯用ドリップケトル、温度計、手挽きのコーヒーミル、そして密閉されたコーヒー豆とタッパーである。
「な、なんだそれ? いつからそんなモン持ち歩いてたんだよ!?」
白虎が目を丸くする。
「特A級エンジニアたるもの、いつどこでサーバーが落ちても即座に脳を覚醒させられるよう、最高のカフェイン抽出キットを常備するのは常識だ」
俺は魔法瓶から熱湯をケトルに移し、温度計を挿した。
「……何をしているんですか? 路上でコーヒーを淹れるなど、非効率の極みですが」
「お前の『特別残業申請』を通すための手続きだ」
青龍が胡散臭そうに立ち止まる中、俺はミルで豆を挽き始めた。使用するのは、最高等級のパナマ産・ゲイシャ種のブレンド。挽きたての鮮烈でフローラルな香りが、冷たい丸の内の夜風に乗ってパッと花開く。
「抽出温度は92℃。これ以上でも以下でも、豆の持つポテンシャル(雑味のない酸味と深いコク)は引き出せない。湯の投下量は0.1グラム単位でコントロールする」
ツツツツ……
細く、美しく、一寸のブレもない湯のコントロール。
俺の特A級の集中力は、コーヒーのハンドドリップにおいて、プロのバリスタすら凌駕する。お湯を含んだ粉がドーム状にふわりと膨らみ、極上のアロマが青龍の顔を包み込んだ。
「……っ」
青龍の鼻先が、ピクッと動いた。
クーデレの鉄面皮に、わずかな亀裂が走る。
「さらに、だ」
俺はタッパーを開け、一切れの高密度な黒い塊を小皿に乗せた。
「カカオ80%。クーベルチュールチョコレートを限界まで練り込み、小麦粉を一切使わずに焼き上げた『特製・濃厚ガトーショコラ』だ。フォンダンショコラとは違い、こちらは冷やすことでカカオの密度(質量)を極限まで高めている。脳の疲労を瞬時にデバッグする、最強の深夜労働専用パッチだ」
淹れたてのスペシャルティコーヒーと、漆黒のガトーショコラ。
俺はそれを、青龍の前にスッと差し出した。
「食ってみろ。そして飲め。これが俺の現場の『深夜残業手当(夜食)』だ」
「……私は、定時で……それに、こんな夜遅くにカロリーを摂取するなど……」
青龍は口では拒否しつつも、その視線は完全にガトーショコラの艶やかな断面と、琥珀色のコーヒーに釘付けになっていた。震える手でフォークを受け取り、ほんの少しだけケーキを削り、口に運ぶ。
「――ッ!?」
青龍の目が、限界まで見開かれた。
直後、ブラックコーヒーを一口含む。
「……計算し尽くされたカカオの暴力的なまでの重厚感……! なのに、完璧な温度で抽出されたコーヒーのフルーティーな酸味が脂質を洗い流し、口の中で……爆発的なシナジー(相乗効果)を生み出している……! な、なんて論理的で、美しい味……!」
普段は感情の起伏がない彼女の頬が、カァッと熱を帯びて赤く染まる。
銀縁メガネが曇るのも構わず、青龍は無言でケーキとコーヒーを猛スピードで交互に摂取し始めた。
「ヤバ、あのメガネめっちゃ食うじゃん」
白虎がスマホで動画を撮りながらケラケラと笑う。
「……ふぅ」
一滴残らず飲み干し、青龍は大きく息を吐いた。
そして、乱れたブラウスの襟元を直し、コホンと一つ咳払いをして、メガネのブリッジを中指で押し上げる。
「……百夜玲王、と仰いましたね」
「あぁ」
「素晴らしいシステム(夜食)でした。私の思考回路が、かつてないほどクリアに研ぎ澄まされています。この圧倒的なカフェインと糖分の前では、労働基準法すら些末な問題に思えてきました」
青龍は俺に向かって、完璧な45度の角度で、深々とお辞儀をした。
「……特別残業申請、受理いたします。この福利厚生が続く限り、私の『紅蓮のレーザー』は貴方の指示通りに火を噴くことをお約束しましょう」
『ピピッ! 左腕パーツ・青龍、テイマーとのリンクを確立しました』
脳内でシステム音声が告げる。
「よし。左腕パーツ、回収完了だ」
「へへっ、これで両腕が揃ったぜ! あとは背中(朱雀)と下半身(玄武)だな!」
ガオンが尻尾を振りながら喜ぶ。
だが、俺がアタッシュケースを片付け終わるよりも早く。
丸の内の高層ビル群の奥から、空気を震わせるような重低音が響いてきた。
「……なんだ? また警報か?」
俺が眉をひそめた瞬間、丸の内のメインストリートを歩いていたサラリーマンたちが一斉に悲鳴を上げて逃げ出した。
ズズンッ……!!
ビルの角を曲がって現れたのは、先ほどの渋谷で倒したものと同等――いや、それ以上に装甲が分厚い『中ボス級魔将機(重装甲型)』だった。
しかも今回は、防衛省の装甲車が数台、魔将機の足元で火を吹いて横転している。
「……防衛省の連中か。完全に後手に回ってるな」
俺はPCメガネの奥で目を細めた。
横転した装甲車の中には、怪我をして逃げ遅れた自衛隊員(坂上の部下たち)がいるのが見える。魔将機の巨大な砲身が、容赦なくその装甲車へと向けられていた。
「距離がありすぎる。ガオンの足でも、白虎の右腕でも間に合わねェぞ!」
ガオンが焦燥の声を上げる。
「慌てるな」
俺は空中に展開した仮想キーボードに、迷いなく両手を叩きつけた。
「今度は、左腕(遠距離狙撃)のテストランだ」
俺は口元に付いたガトーショコラの欠片を拭い取る青龍を見た。
「青龍。残業の時間だ。射線を確保しろ」
「……ええ。お任せを、マスター」
メガネの奥の瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く光る。
特A級社畜とクーデレOLの、緻密にして冷酷なる『部分合体』が今、丸の内の夜空に放たれようとしていた。




