12 ヤンデレ伯爵、登場
『囚われの天使』
――心優しいメイドのマリーは、継母と義妹に虐げられる子爵令嬢を庇ったがために、子爵家を解雇されてしまい、その後で新たに勤めたお屋敷で、美しいが冷酷な伯爵に出会う。
伯爵はマリーに執着し、ことあるごとに愛を囁くが、マリーは身分差を理由に伯爵の愛を拒み続ける。
そしてついに我慢できなくなった伯爵は、マリーを古城に閉じ込めてしまう。
監禁される日々の中、伯爵の悲惨な過去に触れ、彼の心の闇を理解していくマリー。
冷酷な伯爵に愛されながらも、彼女の心は自由を求めて揺れ動く。
そして、ついに彼女は古城から脱出する決意をする。
何度も脱出を試みるが、毎回捕まってしまうマリー。
最後は、執着を深めすぎて狂った伯爵に殺されてしまう。
血塗れのマリーを抱きしめながら、『ああ……これで君は永遠に僕のものだ』と呟く伯爵は、壮絶な美しさだった――
『囚われの天使』は、私が好きだったイラストレーターがイラストを描いている小説で、出てくるヤンデレ伯爵がそれはそれは素敵だった。
文庫本の表紙をめくってすぐにある、抱きしめられ不安そうにヤンデレ伯爵を見上げるマリーのイラストは、落ち着いた色合いが退廃的な雰囲気を醸し出していて、この小説にピッタリだった。
一途にマリーを愛する美麗なヤンデレ伯爵は、一度ハマると抜け出せない中毒性があった。
そんな狂気に満ちたヤンデレ伯爵が、目の前に立っている。
もう一度言おう。
目の前に、立っている。
(ぎゃあああああ! どうして? どうしてヤンデレ伯爵がここにいるの?)
あまりのことに心の中で絶叫する。
そんな風に私が取り乱している間も、マシューとボールド伯爵の会話は続いていた。
「兄上なんて……僕のことを見捨てたくせに! 今さら出てきて邪魔をするな!」
「マシュー……私はお前のことを見捨てたりはしないよ」
「嘘だ! いつも忙しいって言って、僕を遠ざけていたくせに!」
「父上と母上が亡くなった後、跡を継ぐのに必死だったんだ……決してお前を遠ざけたわけではないんだよ」
「嘘だ! だって皆が言ってるもの。兄上は僕のことが邪魔になったって。……父上と母上が亡くなったのは僕のせいだから」
「マシュー!」
泣きながらマーカスの手を振りほどこうと暴れていたマシューが、抵抗を止め、肩を落とし頭を垂れた。
「何を言うんだ、マシュー。お前のせいではない、あれは事故で」
「でも、僕が」
(ど、どういうこと!? なんだかよくわからないけど、兄弟喧嘩勃発?)
「揉め事なら、家でやっていただけますか?」
その時、マシューとボールド伯爵のやり取りを遮るように、きりっとしたリチャードの声が響いた。
(うわあ、リチャード、凄い! こんな修羅場で、よく話しかけられるな!)
「……これは、大変申し訳ない。マシュー、もう帰ろう。これ以上フォークナー伯爵家の皆様にご迷惑をかけるわけにはいかない」
「でも!」
「いい加減にしないか」
ボールド伯爵が冷ややかな目で見つめると、マシューはビクッと身体を揺らし、唇を噛んで俯いた。
「……それでは、我々はこれで失礼いたします。本日はご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。いずれまた改めて謝罪させて頂きます……」
ボールド伯爵は丁寧にお辞儀をし、マシューの腕を掴んだ。
そして、マーカスの先導で応接室を出ていった。
応接室に静けさが戻ると、リチャードがほうっとため息をついた。
その様子で、彼がひどく緊張していたのがわかる。
(そうだよね、まだ12歳なんだもの。こんな修羅場に巻き込まれたら緊張しちゃうよね)
「リチャード、ありがとう。リチャードのお陰でなんとか無事に乗り切れたわ」
リチャードを労うように、笑顔で声をかけた。
「いえ……お嬢様に怖い思いをさせてしまい申し訳ありませんでした……って、お嬢様、何をしているのですか?」
「え? いや、これ洗えば食べられるかなって」
「お嬢様!! 何してるんですか!! ダメです、全部捨てますよ!」
落ちているイチゴで無事なものを拾っていたら、マリーにものすごく怒られた。
「ご、ごめんなさい。あ、そうだ!! これからカフェに行かない? 一度王都のカフェに行ってみたかったの! マリーも一緒に行きましょうよ」
「もう、お嬢様ったら……わかりました。では、ここを片付けたら参りましょうか……って、ヒイィィィ!」
突然マリーが叫んだ。
驚いて、マリーの視線の先を見ると……
そこには、さっき帰ったはずのヤンデレ伯爵が立っていた。
(なんでいるの!? 帰ったんじゃなかったの!?)
慌てる私とマリーを庇うように、リチャードが前に出る。
すると、ヤンデレ伯爵は、見惚れるような優雅な微笑みを浮かべながら言った。
「申し訳ありません。言い忘れたことがありましたので、私だけ戻ってきてしまいました」
そう言いながら、ヤンデレ伯爵はマリーの前に歩み出て、右手を胸に当ててお辞儀をした。
「私の名前はエリック。エリック・ボールド伯爵と申します。美しい人……貴女のお名前を教えては頂けないでしょうか」
「…………!」
マリーの顔色は真っ青で、恐怖のあまり、くるみ割り人形みたいな表情になっている。
名前を知られたくはないだろうけれど、貴族から先に正式な名乗りがあったのだ。
メイドの立場では、答えないわけにはいかない。
(ま、まずい! このままじゃマリーが倒れちゃう! 私が代わりになんとかしないと!)
私は意を決して、ヤンデレ伯爵を止めることにした。
「止めてください! マリーが怯えてるじゃないですか!」
「……! お嬢様!?」
「……貴女のお名前は、マリーと言うのですね」
(ぎゃあああ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! うっかり名前を言っちゃったーーー!)
マリーの代わりになんとかしようと勢いづいたあまり、動揺してとんでもないことをしでかしてしまった。
見ると、リチャードが頭を抱えている。
「……マリー、美しい人。私は貴女に一目惚れしてしまいました。突然こんなことを言う不躾をお許しください。でも、どうしても教えて欲しいのです。貴女には、伴侶や恋人がいるのですか?」
リチャードが両手の人差し指をバッテンにし口元に当てて、首を左右に振っている。
大丈夫! もう、何も言わないから!
私もリチャードもミッ◯ィーちゃんみたいになって、黙って下を向く。
「……」
「何故、何も言ってくれないのですか? そんなに私が疎ましいのですか?」
黙っているマリーに向かって、ヤンデレ伯爵ことエリックが囁く。
「私のような者が、貴女のように素敵な女性に思いを伝えるなんて……身の程知らずでしたね……そうです。私を愛してくれる人など、この世にいるはずがないのですから……」
そう呟くエリックのその悲しげな様子は、何故だか見る者の心を打った。
そして、心優しいマリーは、それを無視することができなかったらしい。
「そんなことないです。あなたのような素敵な方が、そんな……」
「では、教えて頂けるのですね!」
「えっ? ……ええと、伴侶も恋人も、いません」
「良かった……」
エリックが心から嬉しそうに微笑んだ。
その美麗な微笑みに、私もマリーも、思わず顔が赤くなってしまう。
「では、私とお付き合いして頂けないでしょうか?」
「「えっ!」」
マリーと私の声が重なった。
またもやリチャードが、両手の人差し指をバッテンにし口元に当てて、首を左右に振っている。
大丈夫! 本当にもう、何も言わないから!
私もリチャードも再びミッ◯ィーちゃんになる。
「そ、それは、お付き合いとかはちょっと……」
「では、友人から始める、というのはいかがかでしょう」
「え? で、でも……」
「そうですよね……私のような者が、貴女のような素敵な女性と友人だなんて……身の程知らずでしたね……」
「そ、そんな!!」
「では、友人になっていただけるのですね!」
「えっ!」
「良かった……嬉しいです。本当に」
これはもう、断れないやつだ。
マリーはもう、虚ろな表情で呆然としている。
「それでは、今度、街のカフェにでも行きしょう。近いうちにお迎えに上がりますね。お休みの日を教えてください。ああ、手紙で教えていただけませんか? 友人として、文通するのも素敵ですよね」
エリックは、そう言ったあと、「では、また」と、マリーの手を取り、軽くキスをし去って行った。
応接室に再び静けさが戻る。
そこには、くるみ割り人形みたいな表情のマリーと、ミッ〇ィーちゃんみたいになった私とリチャードの三人が呆然と立っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。