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送り梅雨  作者: 藤泉都理
32/32

送雨




「待たせたな」

「え?」

「すまない。畏まって言われたので、私も動揺して。君に断りを入れる前に先にお風呂に入らせてもらったのだが。ちゃんと浴槽は洗い直したから大丈夫だ。と、思うが。も、もう一度、洗って来るか」

「梅田さん」

「な、何だ?」


 頭が働かない。

 どうして梅田さんが風呂に入ったのか。

 どうして梅田さんは離婚届を持っていないのか。


「あの、俺。俺、風呂に行って来る」

「ああ」


 感情が抜け落ちた声だっただろうか。

 感情が詰め込まれた声だっただろうか。

 どっちにしろ間抜けな声だったと思う。

 俺はのろのろと動き出して、梅田さんの横を通り過ぎて、部屋を出た。












 随分と時間をかけてしまったのに、梅田さんは俺の部屋に居てくれていた。


「あの。じゃあ。よろしくお願いします」

「ああ」


 俺が椅子に座ったまま膝同士がくっつくくらいに近づいて、両腕を肩の位置まで水平に広げて言うと、梅田さんが膝同士を密着させて、俺の肩に額を預けて、背中に手を回し、やわく抱きしめてくれた。

 震えが来た俺は腕を下げたが、梅田さんを抱きしめなかった。

 今は。

 我が儘だ。

 抱きしめてほしかった。


「ありがとう。梅田さん」

「ああ」


 五分、くらいだっただろうか。

 抱きしめられている間、震えは治まらなかった。

 だが、恐怖は内に沈んだ。遠ざかった。

 

「ありがとう」


 俺は梅田さんの目を真っすぐ見て言った。


「ありがとう」


 梅田さんは俺の目を真っすぐ見て言ってくれたら。

 俺の身体は治まろうとしていた震えがまた出てしまった。

 俺は笑った。

 梅田さんは少しだけ眉を下げて、身体を少しだけ前のめりにして、俺の両の手をやわく握ってくれた。

 かと思えば、視線を下げて或る一点に定まった。

 俺の髭だ。

 え、もしかしておかしいのかおかしいのかなおかしいのね。

 でも俺はこの形が気に入っているし。

 とりあえず、は。


「梅田さん。俺の髭、が、どうか、した?」

「いや、その」


 口ごもるくらいにおかしいのか。

 甚大な衝撃を受けた俺は、やっぱり病院に行って脱毛の道をひた走るべきかと思っていたら。


「さ」

「さ?」


 さ。

 さっさとその鬱陶しい髭を切りやがれ?


「触ってみてもいいか?」

「え。あ。うん」


 思いもしない申し出に丸くした目はますます丸くなっていった。

 照れ隠しなのかな多分そうだと思います。

 一気にガっと両手で俺の顎を確保した梅田さんが、恐る恐る右手の親指だけを動かして、俺の髭を触った瞬間。

 瑞々しくしとやかで奥ゆかしい親指の感触を脳が認知した瞬間。

 瞼が痛いなと感じたかと思えば、視界がまっくらくらになりました。

 もしかして、眼球が落っこちていませんか?

 いやいや違うでしょ。

 意識が遠のいてんだよ。


「野中さん。すまない。強く掴み過ぎた。野中さん。野中さん。しっかりしてくれ」


 少し痛い頬叩きに、意識が戻るどころか遠ざかって行っているなあと感じる中。





 どうしてか思ってしまったんだ。

 長いながい、一つの梅雨を送る事ができたんだって。











(2022.9.20)



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