三十.再会を誓う
夕食後に宴会場で開催された『レクリエーション』は、大盛況だった。明日も練習があるので当然酒類はナシだったのだが、一同は世の大学生に負けず劣らず騒ぎ倒した。
そして、宴もたけなわ。青谷主将の藍堂がお開きを告げ、皆はぞろぞろと部屋へと歩き出す。と、蒼の前を歩いていた範昭が、急に立ち止まった。肩越しに向こうを見ると、薄暗がりの廊下の影で鏑木がこちらを見ている。
「……彼奴は元気にやっているようだな」
視線は、久蓮が監督たちと消えたドアへと注がれている。影を背負ったその表情は暗いが、その言葉には確かな安堵があった。
「当然です、僕たちと一緒にいるんですから! ……、……でも、これじゃ足りないんです」
傲慢に胸を張った蒼は、ポロリと弱気を零した。
「俺に何か求めているのなら無駄だぞ。俺たちは、……俺は三年間、彼奴に何も出来なかったのだから」
「……そう、でしょうか?」
鏑木の表情には深い後悔が浮かぶ。けれど、久蓮は深雪の皆のことを大切に想っていた。それは無機質な勝利という『結果』だけではない何かを、久蓮が受け取っていた証拠だろう。
「──『あいつらは、オレの自慢だから。オレには勿体ないくらいに』」
鏑木のはるか向こうを見つめて、範昭が言葉を紡いだ。その瞳は、遠い過去を映している。
「何?」
「昔、俺らが入学したてのころの話だ。あいつがお前らのことをそうやって話したんだよ。それはそれは……羨ましいくらい幸せそうな顔をしてな」
鏑木は片手で額を押さえ、呻く。歪めた唇からは、半ば慟哭のように言葉が零れ落ちた。
「はは。本当に、いつも……いつもいつも! 肝心なところで彼奴は馬鹿だな。そうまで俺たちを想っていて、逆も然りだとは、何故考えない!」
たしかに、蒼たちは『低学年会議』以降、あからさまに久蓮との距離を詰めてきたのに、当の久蓮には全く伝わる気配がない。
三年間かけた彼らにもできなかったのに、蒼たちは、久蓮の『荷物』を分けてもらうことなどできるのだろうか。
キラキラと眩しい朝日が照らす道を、蒼はゆっくりとジョグしていた。吸い込む空気が微かに冷たく心地よい。合宿最終日、最後の朝練だ。
「よー、青年。その顔、──昨日の走りでなにか掴めたな?」
軽い調子で声をかけてきた深松の瞳が、好奇心と期待で鋭く光った。蒼ですらなんの確証もないのに、深松は面白そうに笑う。
「そう……なんでしょうか」
「あー、お前は掴んだよ。……ばーか、自信持て。あいつと同じ『景色』を見んだろ?」
にやりと悪い笑みが久蓮のものと重なって、蒼は大きく頷いた。
──────
【九月三日(金):夏合宿四日目@深山クロスカントリー】
メニュー:エンドレスリレー(一.五キロ×五本)
──────
「は~い、集合! これが合宿最後のメニューだ。オレたちが本気で考えたチームだから、接戦……期待してるよ。──それでは、チーム分けを発表する!」
緑色に染められた木漏れ日が降り注ぐ中、久蓮の言葉に監督たちが自信のこもった笑みを浮かべた。
──────
【エンドレスリレー チーム分け】
・Aチーム:水城澪→富樫裕也→六連昴
・Bチーム:桃谷翔太→清野範昭→如月蒼
・Cチーム:荒島夏樹→津浦真琴→神代傑
・Dチーム:ルーク・ホワード→暮井珠希→鏑木涼太郎
・Eチーム:岩本真平→御影大介→藍堂英佑
・Fチーム:朝倉雅彦→夜神麻矢→深松誠司
──────
「なんかいつも通りだが。──よろしくな、お前ら」
「勝ちましょう! ノリ先輩、あお!」
何の偶然か、蒼のチームは、翔太、範昭と全員が極北大メンバーだった。一筋縄ではいかないであろう他のチームの割り振りを見て、蒼の身体がそわりと疼く。監督たちの笑みが、『競え』と告げていた。
久蓮の掛け声で、一区の選手たちが駆け出していく。蒼は、翔太の背中を見送って目を見開いた。蒼の視界には、闘志と自信に満ちた長距離ランナーが映っている。
「頼もしくなったよな、あいつ。お前らの姿をずっと間近で見てきたからな。……さ、一.五キロだ。すぐに戻ってくるだろ」
範昭は、ひらひらと手を振ってスタートラインへと歩いていった。
ざわりと空気が揺れ、水城と翔太が縺れるように姿を見せる。次の瞬間、残りの四人も姿を見せた。
「翔太!」
「ノリ先輩!」
渡った襷を見送って、蒼は翔太に駆け寄った。なんと翔太は、集団から一人抜け出してトップで襷をつないだ。
「お疲れ、ナイスラン! すぐにまた出番だから、少し流して休んでな」
「う、うん。あお、がんばれ!」
「おう!」
翔太を追い出して、蒼もスタートラインで待つことにした。
この起伏に富んだコースで一.五キロを本気で競り合う。一チーム三人で回して五本、休憩は八分程度と短いのだ。キツくないはずがない。
「ノリ先輩!」
範昭と暮井が、横一直線に並んで視界に飛び込んできた。競り合う二人は一歩も譲らず、激しい火花を散らしている。続いて他の選手たちも姿を現した。実力ではもっと開きがあるだろうに、驚くほどの接戦だ。
蒼はちらりと久蓮を見遣る。その視線に気づいた久蓮は口端を吊り上げて、三日月の形に目を細めた。
「まだまだ。面白いのはこれから──でしょ?」
軽やかに踊る久蓮の声が、蒼を興奮の最中に引き摺り込んだ。どくどくと熱い血液が全身に送り出されては、指先で弾ける。横並びに襷を待つライバルたちと視線を交わすと、蒼は口角を上げ、襷を受け取った。
少し走るとすぐに、その気配は背後に現れた。振り返るまでもない、圧倒的な存在感だ。
「よー、青年」
「深松さん!」
深松の口許が、楽しげに弧を描いた。
「俺はさ、青年。昨日の二十キロ、最後まで走らせてもらえなかったのを、心底恨んだぜ。──どうしてだか解るか?」
「え……?」
「お前だよ。あのラスト、お前があんな走りをすっからだ。久々に自分を試したくなっちまった」
元々休養も兼ねてここにいる深松は、昨日、十キロ地点で離脱を厳命されていたのだ。深松の心を揺らす走りができていた自信はなく、目を細めた蒼に、深松はからりと笑った。
「ばーか、言ったろ? 自信持て、──来いよ!」
深松の情熱に引き摺られて、蒼はペースを上げた。重なる呼吸と足音を意識した瞬間、蒼はただ前を目指して仄かに輝く路を駆けていた。
蒼がギアを上げたそのとき、深松がにやりと笑う。
「よお、昴! 随分遅かったじゃねーか」
「それは、すみません……!」
昴が応えた。鏑木、藍堂、神代も追いついて、皆で一直線に駆ける。
あっという間の一.五キロだ。坂を登り切った蒼の視界には、ゴールラインと、そこで待つ皆の姿が映った。滑らかに脚を前へ前へと進め、柔らかな大地を跳ねるように駆ける。
深松からわずかに遅れ、蒼は二着でゴールした。皆で弾む呼吸を整えていると、久蓮がそれはそれはキレイな笑顔を浮かべて、言い放った。
「お疲れ様です。流石エース級。──あと四本ファイト」
メニューも残すところラスト一本だ。本数を考えずに競り合って、体力はもう底をついている。
ひりつく喉、荒い呼吸に、乳酸の蓄積で重い体。蒼は跳ねる呼吸を押さえつけながら、ぐっと顔を上げた。久蓮が、そんな蒼を見て鋭く笑む。
「勝てよ、蒼。勝って、魅せてやれ」
「任せてください」
昨日の『あの』感覚は、もはやおぼろげなものではなくなった。今はただ、はっきりとあの景色が浮かぶ。
翔太から範昭へ。渡った襷は、蒼のところへと再び戻ってきた。
さあ、ラストだ。
襷を貰ってすぐ、蒼は不自然に軽い体に苦笑を零した。やはり、八分すこしのレストでは溜まりに溜まった乳酸は抜ききれない。あと少しも走れば、この軽さは圧倒的な『重さ』に変わるだろう。
ここまで二十一キロメートルも襷を繋いできたというのに、どのチームも欠けることなく、その姿を視認できる距離にいる。こんなデッドヒートを演出する監督たちも凄ければ、実際にその期待に応える選手たちも凄い。
ラスト四百メートルの上り坂が目の前に現れて、蒼は躊躇なくスピードを上げた。即座に反応するライバルたちを振り切って、ただ前へ──。
着替えを済ませた皆は、最後の集合に向かっていた。
名残惜しいという空気が漂う中、蒼はなんとなく同室のメンバーと話をしながら歩いていく。何の縁か、彼らと過ごした四日間を思い起こして、蒼はぼんやり考えた。
「僕は、……幸せ者だ」
高校時代のように自分しか見ていなかったら、蒼はこんな世界を知ることなく終わっていた。
「次も俺が勝つから!」
「いや、次に勝つのはおれだよ!」
蒼が感動に浸っていると、翔太と荒島の張り合いが聞こえてきた。振り返ると、きらきら輝く顔が並んでいる。『超スピードタイプ』という同じ強みを持つ二人は、通ずる部分も多いのだろう。
久蓮は保科、藍堂とともに、ムーンベルクの面々と言葉を交わしていた。
「おい、お前たち」
鏑木だった。
「久蓮と『共に』走ろうとしてくれているそうだな。……頼むぞ、彼奴のこと」
「もちろんです!」
威勢のいい肯定を返した部員たちに満足げに頷き、鏑木は目を細めた。ぐるりと皆を見回し、かつての彼の後輩に視線を固定する。
「真平、……リベンジなのだな」
「その通りです。ボクは、今度こそ久蓮さんと『共に』走りたい」
真平の覚悟に、鏑木が口角を上げた。蒼の目には、どこか自嘲を含んだ笑みに見える。
「お前が一番、本気で追いかけたのだな。彼奴は、一度言い出したことは覆さない。──そう同期は諦めた。彼奴が消えたと洸と湊は気力を失い、それを諌める意味も込めて、紫吹は駒河へ進んだ。そうしてお前だけが彼奴に追い縋った」
遠い目をしてしみじみと言葉を紡ぐ鏑木は、ただ久蓮を案じる色だけを浮かべている。
「お前たち、今のままではまだ足りんぞ。もう気付いているだろう。彼奴はふざけているのかと思う程に鈍感だ。押して押してもまだ足りん。『お前の傍には俺たちがいる』と、何度でも何度でも、……彼奴が思い知るまで伝えろ。遠慮なぞしていたら、必ず後で悔いる羽目になるぞ」
自分の手で為せなくとも、今度こそは久蓮が心往くまで走ることが出来るように。真摯な瞳が伝える想いは、蒼たちのそれと何ら変わりない。
蒼は『押せ』という言葉に強く頷いて、拳を握り締めた。




