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決断の刻 9

「あ、い、あ……う、うぇぇ!?」


 あまりにことに風呂場で後ずさりする僕。


「あ……た、隆哉……」


 顔を真っ赤にしながら入ってくる杏。


 お、落ち着け……


 あり得ないでしょ。これ。


 不味いでしょ。この状況。


 僕は混乱する思考回路のまま、目の前の生まれたままの姿の杏に目をやって……


 いやいや。ダメだろ。見ちゃ。


 とりあえず僕は咄嗟に両手で目を覆い、その隙間から杏を見ることにした。


「ちょ、ちょっと……な、なんで入ってきてるの!?」


「え……だ、だって……だ、ダメ、かな?」


「あ、あのねぇ……だ、ダメとかそういう問題じゃなくて……」


「あ……せ、背中、洗ってあげるから! ね?」


 そう言って杏は僕に近付いてくる。


 ……って、だから、近付いてきちゃ困るんだよ!


 仕方ないので、僕はそのまま洗面椅子に座り、杏に背中を向ける。


 こうすれば、確かに杏の裸を見ることはなくて安心ではある。


「じゃ、じゃあ、洗うね」


 そういってスポンジで背中を洗い始めた杏。


 なんというか……明らかに落ち着かない。


 杏がいるのもそうだが、問題はそこではない。裸の杏がいることなのだ。


 杏の息遣いと僕の息遣いが風呂場に木霊してやたらはっきりと聞こえる。


 そして、ゴシゴシと背中を擦る音……


 心臓の音まで聞こえてきそうなほどにドキドキしていた。


「……ねぇ」


 と、ふいに杏が声をかけてきた。


「え? な、何?」


 完全にうわずった声で僕は返事をする。


「……覚えてる? 昔、私達がやっていたお嫁さんごっこのこと……」


「え……あ、ああ。覚えているよ。あはは、なんだよ。急に」


 お嫁さんごっこ、というのはいわゆるおままごとみたいなものだ。


 ただその内容が少しリアルなだけである。


 男である僕が旦那さん役で、そのお嫁さん役を、四人の幼馴染が勤めるというものだった。


 毎回、じゃんけんでお嫁さんを決めていた気がする。


 ……思い出してみれば、なんだか酷く恵まれた状況だったと今では思える。


「私……1回もお嫁さんになれなかったの」


「え……ああ。そうだっけ? まぁ、杏、じゃんけん弱いもんね」


 すると、杏の背中を擦る音が止まった。


 その代り、ピタッと背中に柔らかい感触が伝わる。


 人肌。すぐにそれとわかった。


 柔らかい。まるでマシュマロみたいだ。


 振り返りたかったが、振り返れなかった。


「あ……杏?」


「……ずっと、お嫁さんになりたかった」


「え?」


「……私、ずっと思ってた。でも、きっと私じゃなれないんだ、って」


 すると杏は、そのまま僕の首に腕を回してきた。


 頭の中からつま先まで、ものすごい勢いで興奮が身体を巡り、加速する。


「私で……いいんだよね?」


「あ……」


「本当に……いいんだよね?」


 微かに不安さえ感じさせる声。


 ……もう、ここまで来たら覚悟を決めるしかない。


 僕だって男だ。


 引いちゃいけないカードだって? 上等じゃないか。


 僕は堂々と引いてはいけない逢沢杏というカードを引いてやろうではないか。


「……ああ。もちろんだよ」


 僕は風呂場に木霊するくらいにはっきりと杏にそう言ったのであった。


 すると杏がぎゅっと僕のことを背中から抱きしめてきた。


 益々身体が密着するのが分かる。


「……ありがとう」


 杏は、心の底から嬉しそうにそう言った。


 そのまましばらく僕と杏は風呂場で抱き合っていたのだった。

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