初仕事編 01
「さて、それでは仕事始めとまいりましょうか」
午前九時、執務室と思しき一室に四人の男女が揃ったことを確認して、響士郎は口を開く。
「あのー」
四人の中で最も、というよりは唯一心許ない素振りで周囲を見回していた大きなハムスターが、新しいケージが落ち着かないのか眉根を寄せて手を挙げる。
「何か?」
「ホントに、仕事、するの?」
「仕事をしないで何をすると?」
「えっと……学校行って授業受ける、とか」
ささやかな抵抗に大きな溜め息が返ってくる。が、溜め息の主は響士郎ではない。
「まだそんなこと言ってるの? いい加減に現実を受け入れなさいよ、女々しいな」
「いや、そんなこと言われても、あまりに急すぎて」
彼の誕生日が三日前、翌日からはバタバタと引越しの準備に追われて、持ち込むものの整理をするだけで精一杯だった。一通りの荷物を運び込んでベッドに横になったのは夜半を越えてからだ。これからのことを考える余裕など微塵もなかったというのが実情だろう。
そして相変わらず、これが悪い夢だったらいいなと思っている。
「アナタは国皇になる人間なのよ。それがこの程度の事実に臆してどうするの? 国民の命や想いを背負えるとは思えないけど」
「僕だって背負えるなんて思ってないよ……」
志麻華の辛辣な指摘に反論するどころか、弱々しく受け入れるイツカに覇気など見られようハズもない。彼にとってここは、未だに夢の中なのだ。
「殿下、学校にはもう行く必要はありません。私達は全員、既に退学の手続きを終えています」
「え、そうなの?」
響士郎の言葉に一瞬、テストや行事から解放されると喜んだイツカだったが、その先に待ち受けている断崖絶壁の高さに気付いて絶望する。今の彼には、明日のことはもちろん、今から一時間後の自分の姿すら想像することができない。まさしく暗闇の崖下にでも突き落とされたかのような気分だった。
「殿下はひょっとして皆勤賞でも狙ってた?」
そんな闇の中でも、ジャーラの笑顔は明るく輝いている。
「いや、そんなことないけど」
「私は遅刻してばっかりだったから、そのまま卒業してたら内申やばかったなー、あははー」
「そ、そう」
彼女の明るさは確かに暗闇では目立つし安堵を与えてくれる。しかしそれはまるで、人気のない路地に煌々と輝くいかがわしいお店のネオンみたいなものだ。うっかり近づくと火傷しそうである。
「学校というのは社会人になる為の準備をする場所でしょ。すでに社会的な役割を担う私達が通うべきところではないの。そのくらいわからないの?」
「まぁ、行く必要がないってのはわかるけど、突然すぎるじゃないか。せめて卒業まで待ってくれるとかさ」
いささか尖った言い方をするのは志麻華のクセだが、いつにも増して攻撃的な物言いにイツカも少しばかりカチンとくる。流されている今の自分が情けないという自覚があるから、尚のことだ。
「皇太子だと公表してから、今まで通り普通の学校に通えると本気で思っているの? それとも、商業メディアに囲まれてチヤホヤされたいとか?」
「そんなこと言ってないだろ。昨日今日初めて知ることばかりだから色々と追いついていないっていうか、気持ちが固まらないだけだよ。というか、どうしてお前は普通に知ってたんだよ。長子にだけ秘密にするとか、システムとして間違ってないかっ?」
「私は――」
「それはキチンと説明しておいた方がいいでしょうね」
ムキになって反論しようとする志麻華の気勢をそぐように響士郎が割って入る。その様を見て自分がつい感情的になったことに気付いたのか、志麻華は短く嘆息して口を閉じる。
「殿下、志麻華様はご自分の身分について誰かに教えられたことはありません」
「え?」
「彼女は自分で、ご自身の境遇を探り当てたのです」
「自分で、気付いたってこと?」
「そうです」
それは彼にとって、あまりにも信じ難い事実だった。とはいえ無理もない。イツカは自身の境遇に疑いを持ったことなど一度もないのだ。そんな疑問が浮かぶこと自体、理解不能な思考回路である。
「なな何でっ?」
「何でと言われても困るけど」
志麻華は視線を逸らし、髪の毛の先を弄っている。
「あ、ジャーラがしゃべったとか」
「失礼ですね、殿下。これでも私、口は堅い方ですよ」
「さば太郎くん事件を忘れたとは言わさんぞ」
さば太郎くん事件とは、今年の生徒会内で起きた情報漏洩事件である。簡単に説明すると、さば太郎くんというキモ可愛いキャラをこっそり愛していた当時副会長のイツカが、偶然目撃してしまったジャーラに賄賂を渡して口止めしたにも関わらず秘密が翌日にはあっさり露呈してしまったというものだ。
事件としてはアレなので早期解決したものの、イツカの心には深い傷を残すことになった。
要するにジャーラを信用していないのである。
「この子の口が軽いのは事実だけど、さすがにこのことで口を滑らせるほど迂闊じゃないから。私は自力でこの事実に辿り着いたの」
そう言って志麻華はない胸を張る。普段からどこか自信に溢れた態度の彼女だが、今は完全なドヤ顔である。思わず往復ビンタしたくなるレベルだ。
「それじゃあどうやって――あ、お前んち金持ちだもんな。そのコネを使ってとかだな」
「あらなかなか鋭い。当たらずとも遠からずってところかな」
「大体ズルイだろ。何でウチは普通の家でお前は金持ちなんだよ。一般人として暮らすっていうコンセプトはどこ行ったよ」
「それは――」
言いかけて、しかし志麻華は言い淀む。
「殿下はフラワーサウンド――志麻華さんのご実家がいつ会社を興されたのかご存知ですか?」
「いや、知らないけど」
「今から五年前です。それ以前はとある会社の幹部候補だったそうです。国皇のお子さんを預かるのですから、相応の経済的安定性は考慮に入れられます。さすがに貧困に喘ぐ方達に預けるワケにもいきませんから」
「まぁ、それはわかるけど。じゃあ、音差の家が金持ちになったのは音差が生まれた後になってからってことか」
「しかもそのキッカケを作ったのは、他ならない志麻華さん本人です。こう見えて彼女、資産運用にかけてはかなりの才覚をお持ちですよ。その界隈では割と有名人です」
「マジか!」
素直に驚いて、イツカは志麻華へそのまま視線を動かす。その瞳に宿るのは純粋な興味と感心だ。まるで子供のような眼差しを向けられた志麻華は、プイと顔を背けて口を開く。
「大したことじゃない。偶然上手くいったってだけ」
「ご謙遜を。それがただの偶然だったなら、殿下と同じ舞台に立っていたハズです」
イツカは現在、大きな玉に乗ってわたわたしているピエロも同然である。無論、それが演技でないところが本物のピエロとの大きな違いだ。
「それも偶然よ。会社を興す時に身体データを見る機会があって、父と私の血が繋がっていないことを知っただけ」
「そこからこの事実に辿り着くことが凄いんですよ」
「音差、お前本当に頭いいんだな」
「本当にってどういう意味?」
「いやえっと……成績いいのは知ってたけど、そこまでとは思っていなかったっていうか」
見た目が子供っぽいのに反してとは言えない。
「それと、苗字で呼ぶのはもうやめてちょうだい。私はもう『志麻華』であって『音差志麻華』じゃないんだから」
「えー……それ、どういう意味?」
困惑するイツカに、響士郎が助け舟を出す。
「では、それらの説明も兼ねて『これから』についてのお話を始めましょうか」
こうして、新しい一日は始まったのである。