それぞれの気持ち其の三
これでそれぞれの気持ち編終わりです。
色々と考えましたが、プロット通りの展開にしました。
「何? ラケルタの野郎、リンちゃんのトコ行ったって?」
酒場で魔導書を読んでいたメヒリャからそれを聞き、バラダーは途端に眉をひそめた。
折角鬱屈とした気持ちをスッキリさせてきたのに、またいらぬ懸念事項が出てしまった。
凛が太一を好き。
それは考えるまでもなく分かること。
ラケルタが凛に一目惚れしたことも分かっている。本人がそう打ち明けて来たのだから当然だ。
記憶が間違いでなければ、ラケルタは「タイチ君とリンちゃんを応援する」と言ってなかったか。凛にアプローチをしかけるなど、全くの予想外だ。
「なあ、メヒリャ」
バラダーが問い掛ける。
メヒリャは頷く。
「……やっぱりか。あンの馬鹿」
苦虫を噛み潰すバラダー。
「ラケルタは……器用に見えて……」
「わぁってるよ。あいつは超不器用だ。ついでに言やあ特上の馬鹿だ」
「……その通り」
空席を見詰める。いつもならそこにいる、チームメンバーを思って。
◇◇◇◇◇
宿屋に向かって歩く。
気分がスッキリしている。
人はこんなに、晴れ晴れとした気持ちになれるのか。
足取りが軽い。
心の重みが全部吹っ飛んだような爽快感。そのなかに、少しの恐怖感も覚えながら。
「リンちゃんが、他の男と付き合ってるのを許せる?」
ロゼッタが言ったその一言を許容出来なかった時点で、太一の心は決まった。
フラれても構わない。気持ちを伝える。今はダメでも、振り向かせる。
それは努力次第でなんとでもなるとロゼッタは言った。顔は普通のクラスメイトが、彼女が出来たと自慢していた。写メを見せてもらったが、めちゃくちゃ可愛い女の子だった。大金星である。ふりむいて貰うために相当努力を重ねたという。
今度は太一の番だ。
初めて、女の子に恋をした。いや、いいな、と思うくらいなら何度もあったが、ここまで明確になったのは初めての経験だ。
一五歳。太一の初恋である。
例えよい返事が聞けなくても後悔しない。凛を他の男にとられて嘆く位なら、当たって砕け散った方がましだ。
結構長い間娼館にいた。暮れていく太陽。手を翳して夕陽を遮る。その先に、人影。
「やあ。タイチ君」
聞き覚えのある声だった。相変わらず、内心の読めない声色。
「ラケルタさん」
逆光になって表情が読めない。だが、何だろう。普段と違う。ラケルタから、余裕を感じなかった。
「いきなりで悪いんだけど、ちょっと話があるんだ」
「……?」
良く分からないが、わざわざ待っていたのだろう。
断る理由が無いので了承する。ラケルタは頷いた。
「じゃあ、こっちに来てもらえるかな?」
踵を返すラケルタに太一はついていく。
迷わずに帰れるかな? と、太一は呑気にそんなことを考えていた。
◇◇◇◇◇
もう何杯飲んだか思い出せない。空になったカップを置いて、ミューラは天井を見上げた。凛がいる部屋を。
憔悴しきった表情で凛が帰って来たのが一時間前。ミューラが何かを問う前に、「一人にさせて」とだけ言って引っ込んでしまった。
返す言葉もなく、部屋に踏み込む勇気もなく、ミューラはこうして時間をもて余すしかない。
覚えるのは、無力感。
こういうとき、どんな顔をすればいいのか分からない。
どんな風に凛と接すればいいのか分からない。
最悪の事態が、嫌でも脳裏をよぎる。
今までの自分の在り方を後悔する。
どうして、人との触れ合いを避けていたのか。
冒険者として太一と凛より優れている。
だが、コミュニケーション能力は目も当てられない。
こうして、ただウジウジとしかできない自分に嫌気が差す。
そして自己嫌悪に陥りながら、何も行動を起こせない自分にも。
案ずるより産むが易し。
その言葉を聞いても、何もできないだろう。
太一と凛が楽しそうに話している姿が脳裏に浮かぶ。
こんな状況になって、それがミューラにとって守るべきものだったのだと、ようやく気付いたのだった。
◇◇◇◇◇
街の奥にある拓けた場所。人はいない。
込み入った話をするなら、おあつらえ向きなところだ。
「こんなとこがあるのか」
「そうだね。いずれ発展してくれば、ここも住宅街になるそうだよ」
「そうなんだ」
先導していたラケルタが、こちらに振り向いた。
「さてタイチ君」
「ん」
「単刀直入に言おうか。リンちゃんから、離れてくれないかい?」
「はい?」
藪から棒に何を言うのだろうか。
凛と離れる?
いくらなんでも無理な相談だ。だが、頭ごなしに否定はしない。そこまで言うからには、ラケルタにも考えがあるのだろう。最終的に返す答えは変わらないが、そう告げてくるに至った理由は聞こうと思った。
「さっきね。リンちゃんに告白したんだ」
「……」
「受け入れてくれるらしいんだけど、まだ君のことが気になってるらしくてね。だから、彼女の目に映らないところに行って欲しい。そうだね。シカトリスか、ガルゲン辺りがいいかな?」
エリステインに並ぶ三大国家。
活動の場を国外に移してくれ、と彼は言っている。確かにこれは、その辺でざっくばらんに話せる内容ではない。
「悪いけど拒否権を与えるつもりはないよ。力ずくでも、頷いてもらう」
ラケルタが背中の弓に手を伸ばす。本気か、ハッタリか。
まあ、そんなのはどうでもよい。
返答は、変わらない。
「断る」
ラケルタは弓に触れたまま動かない。
「なあ。俺より圧倒的に頭いいんだからさ、隙作るなよ」
「……どういう意味だい?」
「その顔どうした?」
ラケルタは表情を変えずに目をそらす。右頬が腫れていた。
「喧嘩でもしたか? いや。仮に喧嘩したって、あんたを殴れるやつはそういない。それ、凛にひっぱたかれたんだろ?」
「……何で、そう言えるのかな?」
「知るはずないよな。凛はビンタは左でやるんだよ。右でやるとな、強すぎるからな」
「強すぎる? どういうことだい?」
「な? 知らないだろ? 俺は知ってるよ。
教えないけど」
「……」
口では言わずに目で告げる。
浅い。
と。
「まあ、凛が手を上げる状況だった時点で、ラケルタさん、あんたは結構な振る舞いをしたってことだ」
凛が手を上げるなど、相当な事をしなければ起こらない。
告白した。その言葉が嘘か本当かは分からない。
受け入れてくれる。これは嘘だ。そう答えたのに、手を上げる理由がない。
恐らくは、無理矢理迫った。
「ラケルタさん。あんたは俺達の恩人だ。返し切れない恩があると思ってる。だからさ……」
「甘いね。タイチ君」
「……」
「そんなんだから、横から取られちゃうんだよ」
「……はあ」
太一は大袈裟に溜め息をついた。興醒めしてしまった。もう、聞く気すら起きない。ラケルタが頭がいいと思ったのは、太一の気のせいだったのか。
「あのね。凛に叩かれるような真似してて、それでそんなこと言ったって、信用出来ないって」
「根拠を聞きたいね」
「根拠? 簡単さ。凛が実力行使に出たら、悪いけどラケルタさんじゃ一〇〇回挑んだって一度も勝てないよ」
「そんなのが根拠かい? ただの戯れ言じゃないか」
ラケルタが笑う。太一は極めて真面目な顔で彼を見つめた。
「今から右手でラケルタさんをぶっ飛ばす。真っ直ぐ向かっていくから、避けてみなよ」
笑顔のまま、ラケルタは太一を見る。その姿がゆらりとぶれるという予想外の光景に眼を疑う。
顔面に衝撃。
視界が空転。
身体が地面を転がった。
「ぐ……」
鼻から熱い液体が流れる。手のひらが紅に染まった。今しがたラケルタが立っていた場所と入れ替わり、太一が立っている。右手を引いた状態で。
今のは寸止め。太一はそう言った。
寸止め。つまり衝撃だけで、ラケルタは吹っ飛んだということ。
いやそれより、太一の動きが一切見えなかった。太一は宣言した通りに動いたのだ。相手が何をするか分かっていても防げない。ラケルタとは、強さの次元が違った。
「この程度なら、凛は防ぐか避けるかは簡単にこなす。できないなら、凛に勝てる訳がない」
「……」
「俺にとって、あんたは恩人。追いかけるべき冒険者。頼むよ。今後も、そう思わせてくれよ」
太一は踵を返す。
足音が遠ざかり、そして聞こえなくなった。
「ふふふ……完敗だ。タイチ君、リンちゃん」
仰向けのまま、ラケルタは夜と夕の境目を見詰める。この時間帯しか見れない、紫色の空が鮮やかだ。
「無様にやられたな。バカラケルタ」
しばらくぼんやりと空を眺めていると、馴染みのある声がラケルタに届いた。
「リンちゃんの気持ちを考えずに、色街なんかにタイチ君連れていっちゃうバラダーに言われたくないね」
「うぐっ……。あ、あんときゃあれが一番だと……いや、言い訳だな」
「おかげで嫌われ役やる羽目になったよ」
「やっぱり……そのつもりだったの……」
メヒリャは分かっていた。
惚れた男の事だ。
そのくらいは、何も言われなくても、顔を見ればわかってしまった。
「やりすぎだったと反省してる。まあ、リンちゃんを叩かず済んで良かったよ」
凛が一時の感情に囚われて万が一ラケルタを受け入れようとするなら、遠慮なく頬を張るつもりでいた。
ラケルタが惚れたのは、そんな弱い凛ではない。
自分勝手だと、自嘲する。
「そもそも……私がバラダーを止めれば……」
「どのみち、もう取り返しはつかないよ。恐らくね」
果たしてそれは、何を指しているのか。
「あの二人、大丈夫だと思うか?」
「どうかな……信じるしかない……」
バラダーもラケルタもメヒリャも、とんでもない大ポカをやらかした自覚がある。
もう、三人の前に姿を見せるのは難しいだろう。
「はあ……。俺達も出直さんとな。まだあんな子ども相手にやっちまうくらいだからな」
一五歳前後の少年少女にやることではない。
冒険者としての未熟さを考えてもなお、釣りが来るほどの強さに、つい一人前と見てしまった面も確かにある。意識的か、無意識かを別にして。それほどに飛び抜けていたのだ。
バラダーは娼館で太一の強さを「互角」と評したが、それは「見ることが出来た実力は」という前置詞が来る。たっぷり余力を残していることは分かったが、どれ程出来るかは分からなかった。
先輩面した結果、酷いことになった。
後はあの二人がどうなるか、見守ることしかできないのを歯痒く思いながらも、それ以外に選択肢がないのだった。
◇◇◇◇◇
宿屋につく頃には、丁度夕食時だった。魚やら肉やら、焼きたてのパンやらの匂いが充満して、かすかなアルコールと共に食欲をそそる。
何はともあれ、凛と話がしたい。まずは会いに行こう。客室がある二階に行こうとして、ふと見覚えのあるシルエットを見付けた。
食事を取っている客たちの中、カップを両手で抱え込んだまま俯いているミューラの姿。そのテーブルに、凛の姿がない。
凛は部屋だろうか。太一は特に深く考えずに、ミューラに近付いた。
「よお、ミューラ。凛は部屋か?」
「……タイチ」
席に座ると同時に、ミューラが顔を上げる。その美貌が台無しになるほどに疲れきった顔を見て、太一は顔をしかめる。
「どうしたんだ?」
「のんきね、あんたは……」
ミューラはじっと太一を見据えている。その憔悴した顔付きからはかけ離れた眼光の強さで。
「あんた、今まで何処行ってたのよ」
「それは……」
「言わなくていいわ。知ってる。娼館でしょ」
「……」
何故それを知っているのだ。ついていっただけとはいえ、事に及んでいないとはいえ、行ったのは事実。
それは全て明かすつもりでいた。全てを打ち明けた上で、凛に気持ちを伝えるつもりでいた。
誰が話したのだろうか。いや、考えるまでもない。答えは出ている。
「ラケルタさんから聞いたのか」
「ええ。そうよ。リン、ひどい顔で帰ってきたわ」
「……そうか」
さきほどラケルタと話しているときは余裕な態度は崩さなかったが、内心は不安でいっぱいである。
万が一がない訳じゃないのだから。
「リン、逃げてきたって。何とかそれだけ、教えてくれたわ」
「そっか……セーフか」
「セーフ? アウトよ。何であんたは、肝心なときに色街になんかに行ってるわけ?」
ミューラは、段々と自分の声が荒くなっていることに気付いた。
「ギリギリまで教えてくれなくてな。まさか、色街だなんて思わなかった」
「教えてくれないなら帰る、とか言えたじゃない。何でそれが言えないわけ?」
それは結果論だ。バラダーには本当に世話になった。そんな無下な真似が出来るわけがない。
辛うじて冷静なもう一人のミューラがそう理解する。
「それは……そうかもな」
「何でそんなのんびりしてるの?」
「そんなことない」
「そんなことある。ラケルタはそこを突いて、リンを連れていっちゃったのよ」
確かにラケルタの行動は褒められたものではない。だが、だからと言って、自分に太一を責める資格があるのか。あの時、ラケルタを止められなかった自分とて同罪ではないか。
もう一人の自分に厳しく叱責を喰らう。
「そっか。何考えてんだか知らないけど、もうあの人の前で今まで通り接するのは無理だろうな」
「はぐらかさないで」
ピシャリと太一を切り捨てる。不穏な空気に周囲からの視線が集まるが、気にする余裕がない。
「あんたがここにいれば、リンは連れていかれずに済んだ」
「それはそうかもしれない」
「しれない、じゃなくてそうなのよ」
抑えが効かない。自分の声が相当大きいと自覚しながら、それを抑える気にならない。
太一がここにいれば、等と言うのは責任転嫁だ。この事態を防げなかった自分の至らなさを棚に上げているだけだ。
「どうすんのよ。リンが取り返しがつかないくらいに傷付いてたら」
どう傷付いているのか。それは言わない。言えなかった。
太一は少し考え、決意のこもった眼で、言った。
「うーん。関係ないな、だって俺は……」
ミューラは頭が真っ白だった。
気付いたら立ち上がり、右手を振り抜いていた。遠くからぱん、と乾いた音が聞こえた気がした。
徐々に鮮明になる視界。太一が右を向いている。頬が赤い。口の端に紅いものが滲んでいる。
「あ……」
ミューラは自分の右手を握りしめ、どすんと落ちるように椅子に座った。
手を上げる気など無かった。太一は何かを言いかけていた。まだ続きがあったのだ。
これだけ責め立てたのだから、太一に主張があるなら聞くべきだ。間違っても手を上げる場面ではない。
「関係ない」
太一のその一言だけを拾い、叩いてしまった。自分がしでかした行いが、ショックだった。
「俺の切り出し方が悪かったな。ごめん」
「う、ううん……」
太一は殴られた事に触れなかった。自分でも、説明してから言うべき言葉だと思ったのだ。
「俺はな、凛が好きなんだ」
「え……」
「そういうのが気にならないくらい好きなんだ。だから、関係ない、って言ったんだ」
「……」
「まあ、今凛に好きな男がいて、幸せだって言うなら応援する」
それはめっちゃ嫌だけど、と太一は苦笑した。
「でもな、俺だって凛に幸せになってほしい」
「……」
太一の雰囲気が今までと違う。
「凛を幸せに出来ない男なら、例え凛が良くても俺が認めない。そんな男に任せるくらいなら俺が幸せにする」
「タイチ……」
彼から滲む強い決意に呑まれる。言葉が出てこない。
「傲慢で自分勝手なのは分かってるよ。でも、もう決めたんだ」
とある娼婦が、それを気付かせてくれた。娼館に行ったからこそ自分の気持ちに気付いたし、こういう決意が出来たのだと、太一は言った。
「娼館、ってのが情けないけどな」
ミューラは、太一の顔が見れない。
「ま、そういう訳だ。ところで、凛は部屋にいるのか?」
「いるわ……おりてきてないから……」
「そっか。じゃあ、行ってくる」
がたりと立ち上がった太一が、動きを止めた。
「あ、ミューラ」
「……何?」
返事が少し遅れた。
多分、違和感は無かったと思う。
「ありがとな」
「お礼なんかいいから、早く行ってあげなさいよ」
「そうする」
太一の気配が二階に消えた。ミューラは再びうつむいた。
先程と同じ姿勢。だが胸の裡に抱く感情は、先程までと全く違う。
きっと大丈夫。根拠など一切ないが断言できる。太一を見ていたら、不意にそう思ったのだ。
そして、もう一つ。
ミューラは、胸の高鳴りを覚えていた。
太一があれほど頼もしいと思った事はない。だからこそ、大丈夫だと感じたのだ。
これだけ心臓が激しく脈打つなんて、初めての経験だ。
この感情を、知識としては知っている。だが、自分がそれを経験するとは。
ミューラは顔を上げ、太一が消えた階段をじっと見詰めた。
◇◇◇◇◇
ノックをする。
待つ。
一〇秒。
二〇秒経っても返事がないのでもう一度ノック。
「凛?」
今度は呼び掛けてもみる。
再び待つ。
一〇秒。
二〇秒。
やはり返事はない。
どうする。待つか。
いや、それでは変わらない。なけなしの勇気を振り絞り、再度声をかける。
「凛。いるんだろ?」
気配でいることは分かっている。どうやら、寝ているわけではないことも。
「ダメならダメって言ってくれ」
やはり返事はない。
だが、否定の言葉も来なかった。太一はそれを黙認と受け取ることにした。
今日しかないのだ。いや、今しかないのだ。
この扉をノックするために振り絞った勇気の量は尋常ではない。次の機会に、と言い訳して、また同じだけの勇気を振り絞れる自信はない。
「入るぞ」
ドアノブを握るのに一瞬だけ躊躇して。
高所から飛び降りるつもりで一気に捻る。
がちゃりと、聞き慣れた開閉音とともに、室内の景色が太一の視神経に投影された。
明かりは一切ついていない。
唯一ある窓は開けられていて、そこから月明かりが部屋に流れ込んでいる。思いの外暗くはない。そんな印象を、太一は抱いた。
ダブルベッド一つ。凛とミューラは同じベッドで寝ているようだ。
ベッドの縁に腰掛け、窓の外を見詰めるシルエットが一つ。誰何など問う必要ない。見慣れた姿だ。
「凛」
返事はない。太一は扉が空いているのに気付き、そっと閉めた。
開けるときよりも静かに、扉が閉まる。
それは果たしてそれは数秒か。もしかしたら数十秒、いや、数分だったかもしれない。そんな感想を抱く程度には長く重い沈黙。
ずっと黙っていた凛が、ふと口を開いた。
「太一。お帰り」
「ただいま」
上擦るかと思ったが、何とかいつも通りの声を出せた。
「ごめん。今度にしてほしいんだけど」
こちらに顔を向けずに告げられた言葉に、太一はグッと拳を握る。折れそうになる心を奮い立たせる。
「今じゃなきゃダメなんだ」
「どうして?」
「凛が大切だから」
唇が震える。
三半規管が痺れる。
これほどの緊張を、かつて味わったことはない。
「私が大切? それは、私だって太一が大切よ。一緒に、日本に戻らなきゃ」
からからに乾いた喉を、唾を飲んで潤した。今一つの効果だった。
凛からは、話を切り上げたいという感情がビリビリと伝わってくる。
めげるな。
負けるな。
貴史だって、フラれる恐怖と闘って、打ち勝った。
「そういう大切じゃないんだ」
「じゃあ、何?」
何?
そう聞かれたら、出る言葉は一つ。
噛むなよ! と自分の尻を叩く。多くはいらない。気のきいた台詞をすらすら吐けるほど、太一の舌は達者じゃない。ただ一言、言えればいい。
「俺は、凛が好きなんだ」
「太一が私を好き?」
「ああ」
「本当に?」
「本当だよ」
「嘘じゃ、ないの?」
「好きだよ。凛」
凛がふふ、と笑った。
「偶然だね。私も、太一が好きなの」
「マジで?」
「うん。マジだよ」
「両想い?」
「両想いだね」
「すげえ嬉しい」
「うん、私も」
テンポのいい会話は、ここで終わった。終わると分かった。
凛が、涙声だったから。
「好き……太一……」
「俺も好きだ」
「大好き……」
「俺もだよ凛」
「ずっと前から……好きだった……」
「俺も、ずっと前から好きだった。自覚無かったけど」
「……何よ……あんなにアプローチしてたのに……ちっとも気付いて……くれないんだから……」
「うん。それ、今日こっぴどく叱られた」
「グスッ……誰に……?」
「ラブ師匠に」
「ラブ師匠……?」
「違う違う。ラにアクセントな」
「ラブ師匠?」
「そう。それ」
言わずもがな、ロゼッタの事である。
あれは地獄だった。思い出したくもない程に。
「……じゃあ、その人に……感謝……しなきゃ……」
嗚咽に弱々しい笑い声を乗せる凛。
「ラケルタさんから……逃げてきた……」
「聞いた」
「好きでもない人に身体許すほど……安い女じゃないつもり……」
「……」
「初めては……やっぱり……好きな人とがいい……」
「凛……」
「太一となら……嬉しい……」
男冥利に尽きるとはこの事だろうか。こんなに嬉しいと思ったことが、あっただろうか。
「でもね……っ。ダメなの……太一の事……信じたいのに……信じれない私がいるの……っ!」
太一の思考がストップする。
「好きな人に……好きだって言って貰えたのに……どうしてこうなっちゃうのっ!」
凛の心が叩き付けられた。
太一の頭が、凄まじい速度で冷えていく。
舞い上がっていた。
凛が好きだと言ってくれて、有頂天になっていた。
経緯は関係ない。結果として、凛を裏切った。傷付けた。
それは、動かしようのない、リセットしようのない事実だった。
だが。だからこそ。
目の前の少女が、余計に愛しくなった。失った信頼を、もう一度取り戻す。異世界でやることが、もう一つ増えた。
「凛」
「……なに?」
返事がある。太一の話を聞いてくれるということ。
「信じなくていい」
「え……?」
予想外の言葉だったようで、頓狂な声が返ってきた。
「凛を傷付けたのは俺だからな。自業自得だ」
「太一……?」
途端に、凛の声が不安げになる。太一はあえて気付かない振りをして続ける。
「今度は俺が頑張る番だ。凛が俺を信じてくれるまでな」
「……」
「俺は確かに色街に行った。でも誓って言える。俺は、誰も抱いてない」
「太一……」
「俺の今の言葉を、凛が信じてくれるまで努力するよ」
凛は何も言わない。太一は一度間を置いた。
「この程度で身を引くくらいなら、最初から告白しに来たりしない」
「……っ」
「だから、よーく俺の事見ててくれ。試してくれ」
「……ばか。ほんと……口ばっかり……達者なんだから……」
俺の特技。そう言って太一は笑う。さっき気の利いたセリフが出なかったことは、気にしないようにして。
「じゃあ……見てるわ……。私に……太一を信じさせてよね……?」
「ああ。凛は誰にも渡さないからな」
凛は顔が熱くなるのを感じた。
ふと、太一は「あー……」と歯切れが悪くなった。なんだろう。あれだけビシッと決めていたのに。
「冒険者やってるときだけは、普段通りでお願い致します」
多分、バツが悪そうに頭をかいてるんだろうなと予想し、見てみると案の定だった。
「それは大丈夫。公私混同はしない。普段から、いつも通りに出来ると思う」
ホッとため息をつく太一。
太一を信じたい。何故なら好きだから。好きだと言ってくれたから。
凛からすれば、もうそう遠くない未来に、太一の努力は実を結ぶと思う。
太一が自分のために努力してくれると言った。
普段自分から進んで何かをやる、と言わない少年が言ったのだ。
いざやると言ったら本当にやる少年なのだ。
根底の部分では、信じられないと言いながら、信じている自分がいる。
太一の決意は言わばけじめ。
きっとこれも、必要な試練なのだろう。そう考えれば、悪い面ばかりでもないと、凛は思った。
流した涙も、きっと思い出に変わるのだろう。
穏やかな月の明かりは、こんな夜も、いつもと変わらない輝きを放っていた。
今回の話は大分波紋を呼びましたね。
色々な意見を頂き、参考になる意見もありました。
お知らせがあります。
今回の話に関する感想では、応援、称賛、批判と様々頂きました。全て読ませて頂きました。ありがとうございます。
今まで、感想には返信するよう心掛けていましたが、今回の件については申し訳無いですが一律返信無しとします。
作品の打ち切りすら考えました。
どうして好きでやってるだけの趣味でこんな鬱々とした気分にならなければならないのか、とても疑問に思った二日間でした。
ですが、応援してくれる人、読みたいと言ってくれる人も確かにいらっしゃるので、その人たちのために、続けていこうと思います。
いつも応援してくれる方へ
ありがとうございます。
本当に支えになりました。
ゆっくりペースになるかもしれませんが、良ければ今後も読んでみてください。
2019/07/16追記
書籍化に伴い、奏⇒凛に名前を変更します。