六話
ウンディーネの話は、途中で休憩を挟む必要が生じる程度には長い時間を要した。
「えぇっと……」
太一は思わずそんなつぶやきを漏らしながら、頭の中を整理していた。
ウンディーネの力が減っているのは、不定期に戦闘を繰り返す二頭の竜の力を封じているから。
二頭の竜はつがい。戦闘を起こしている原因は、片方の卵から呪いを受けているから。シーサーペント型の竜が海の竜の王、リヴァイアサン。三つ首竜がティアマト。
その呪いを受けているのは、母竜である三つ首竜のティアマト。リヴァイアサンも呪いの影響を多少受けているものの、度々自我を飛ばして暴れるのはティアマトの方だ。
リヴァイアサンは、時折眼前がかすむ程度で、自我が飛ぶほどでは無い。
呪いは、卵から。つまり、本体にかけられた呪いではない。
ティアマトもリヴァイアサンも、竜種としての力は最上クラス。
力を封じていない万全の状態なら、卵から流れてくるだけの呪いに負けることなどない。最上位の竜なのだから、それも納得いく話だ。
ウンディーネが施している封印は、二つの条件が整えば解除されるという。
一つは、ウンディーネを除く二柱のエレメンタルが、封印を解くことに同意すること。
もう一つは、封印を解く使者が海底洞窟にある祭壇に赴き、所定の手続きを踏むこと。
こんな手順を踏むのは、当然だが封印が簡単に解けないようにするため。
では、そもそも封印をしたのは何故か。
大昔。この地にシカトリス皇国が建国されるはるか昔。
極寒の北の海の覇権を争い、ティアマトとリヴァイアサンは激しい争いを繰り広げ続けていた。
互いに傷ついて癒えたらすぐに戦って、周囲を余波で散々に破壊しながらの闘争は、一〇〇年単位で続いたという。自身のテリトリーである海での度重なる蛮行に業を煮やしたウンディーネが、二頭の力を封印したという経緯だ。
その後二頭の間にすったもんだがあって今はつがいとなっているが、それは割愛する。
「海底洞窟……か」
そう反芻して苦虫をかみつぶして眉をひそめるイルージア。
カツン、カツンと、数名の足音が響いている。
場所は変わって、ここは城内地下通路。イルージアと、彼女が認めた者のみが入れる区画。
そこを、太一たちはイルージアに案内されて歩いていた。彼女の前には護衛の近衛騎士二名がいるが、王としては当然整えるべき体裁であるため、数には入らない。
ウンディーネの話を聞いていたイルージアが、おもむろに立ち上がって太一たちを案内し始めたのだ。
いい顔をしない貴族もいたが、イルージアに苦言を呈する者もいなかった。
女王曰く、ここに案内せずに話は進まない、とのことだ。
そしてたどり着いた先は、池とでも表現すればいいだろうか。
「ここは海とつながっている。ウンディーネ殿の話を聞いた以上、ここに案内せざるをえなかった」
当然ながら、国家の最重要機密なのは間違いない。
厳重な警備がなされ、何度も鋼鉄の分厚い扉をくぐった先にある場所だ。
本音では、イルージアも案内したくはなかったに違いない。断腸の思いで、しかし必要だと思ったら即行動に移す様は、さすがに国を治める女傑である。
しかし、海につながっているのか。ここから侵入出来てしまいそうだ、と太一は正直思う。
極寒の海に潜るという過酷な道程だが、万全の準備をすれば不可能な話では無いだろう。
「ここから侵入を試みた愚か者はゼロではない。が、それは一度も成功していない」
岸にしゃがみ、冷たい海水をのぞき込みながらイルージアが言う。
太一の心を読んだのかは分からないが、絶妙のタイミングだった。
まず、太一が思ったとおり、この地の海は年中極寒だ。水属性の魔術があれば潜れるか、そんな簡単な話では無い。冷たい水は、すさまじい勢いで体力を奪い、自然の猛威を人に知らしめる。
更にこれまで通過してきたすべての扉は、イルージアの魔力と、特定の鍵以外には反応しない魔導具であるのだ。その上、この通路の入り口そばには兵士が常駐する待機所があり、何らかの手段で扉を超えてきた侵入者を迎え撃つ万全の体制が整っている。
とどめに、通路にはこれでもかと罠と警報装置が設置されている。イルージアがいたから反応しなかったのだ。
よそ様である太一たちに、ここまでの詳細は実際には語られなかった。
ただ警備が厳重だから問題は無いという言葉だけだったが、内情は厳戒態勢と言っていいくらいである。
しかし、そんなものはとってつけたものでしかないと、イルージアは言う。
彼女は近衛が恭しく差し出した、国章が柄に刻まれた短剣を受け取ると、人差し指に当てて軽く引いた。
その短剣の切れ味は相当なもののようで、陶磁器のような白い肌にうっすらと血が滲む。
血を海面に垂らし、イルージアは厳かに告げた。
「契約に従い、その姿を我が前に現したまえ」
イルージアが何者かに呼びかけて、数十秒。
何も変化の無い、静かな時間が過ぎる。
誰に呼びかけたのか。
それを問いただすような無粋な真似はしない。
別にはったりを見せているわけでもないだろう。これだけ大仰な場所だ。間違ってもだますために連れてきたわけではあるまい。
さらに少し待つと。
突如水面が盛り上がる。
巨大な気配と共に。
敵意は感じないが、明らかに桁の違うその存在感に、凛とミューラがわずかにこわばった。
ざざざと海面を割って姿を見せたのは。
「海竜……」
太一には見覚えがあった。忘れるはずも無い。
先のウンディーネの話を総合すれば、この海竜こそがリヴァイアサンである。
規格外の大きさと、伝わってくるその強さ。
リヴァイアサンは周囲を見渡し、まずは太一を見た。
『む……そなたは。昨晩は助かった。礼を言おう』
リヴァイアサンの声なのだろう。重厚に響くその言葉は、腹の底が震えるようだ。
太一は片手を挙げて、気にするなと応えた。
海の王に対してずいぶんと気安いが、そのような態度を取られるのが新鮮だったリヴァイアサンは、全く気にしないどころかそれを気に入った様子だった。
「足労感謝するぞ、海の王リヴァイアサンよ」
一番間近で、イルージアが見上げて礼を言う。
『契約に従ったまでである。気にする必要は無い』
そして、爬虫類特有の縦長の瞳孔が、中空にたたずむシルフィ、ミィ、ウンディーネを捉えた。
『エレメンタルの三柱の方々までおられるとは。一体何事であるか?』
やはり超えられない格の差があるようだ。リヴァイアサンからは、精霊に対して掛け値無い敬意が見える。
生命体と精霊。存在の次元が違う。そこは、人も竜も変わらないようである。
「あなたたちの封印に関するお話ですよ」
『……! 左様であるか』
その言葉には、リヴァイアサンにとっても朗報だったのだろう。
意図せず漏れたと思われる歓喜が、伝わってきた。
封印が解ければ問題は解決する。そんな確信も持っているようだった。
「精霊殿の言うとおりだ、盟友よ。海底洞窟が関わるとのことでな」
『なるほどな。我とこの国の関係ということだな』
「うむ」
そうして明かされた関係。
リヴァイアサンは、シカトリス皇国の守護竜である。
シカトリス皇国として別段喧伝しているわけではないが、逆に隠されているわけでもない。
事情通であれば、普通に手に入る情報である。
事の起こりは数百年前。
ティアマトとの争いで傷ついたリヴァイアサンは、人が来ない海岸でひっそりと身体を休めていた。
傷など、竜の生命力に任せて放っておけばそのうち治る。その時も、完治させるために休んでいたそうだが、すぐに治るほど万能というわけでもない。
かなりの深手であったため、自然治癒には一ヶ月はかかっただろう。なお、当時の傷を人に換算すれば、間違いなく致命傷だ。さすが竜、と言えるエピソードである。
さて、リヴァイアサンは焦っていた。ティアマトはずいぶんと気が立っていたため、いつリヴァイアサンを探し始めるか分かったものではなかったのだ。この深手と引き換えにティアマトにも大きなダメージを与えたものの、重傷なのはリヴァイアサンの方である。
何とか、ティアマトに見つかる前にある程度快復しておかねばならない。
イルージアは、その状態のリヴァイアサンに出会ったのだという。
この地で勃興した新興国の王であると自己紹介したイルージアは、傷ついたリヴァイアサンに魔法回復薬を進呈した。実益と息抜きを兼ねてお忍びで国土を巡っていた折の出会いである。
王族用の秘薬とはいえ、あくまでも人間用の回復薬だが、リヴァイアサンの治癒力と合わされば、劇的な回復力となって巨体を駆け巡る。
果たして、リヴァイアサンは想定していた一ヶ月を二〇日も前倒しで快方した。
当時のリヴァイアサンにとっては、金銀財宝よりも傷が癒える方が価値があった。
矮小な人間相手とはいえ、否、矮小な人間相手だからこそ、恩に報いねば竜の沽券に関わる。与えられた魔法回復薬に込められた魔力はかなりのもので、相当な価値があったとリヴァイアサンにも分かったのだ。
リヴァイアサンは、イルージアに対価として国の守護を申し出ると提案した。
非常に頼もしい話だが、それでは逆にもらいすぎだと告げるイルージア。
結局、ただで守護してもらうわけには行かぬと押し切り、秘宝を預かって管理するという話に落ち着けた。
リヴァイアサンにとっては、唯一無二と言っていい秘宝。リヴァイアサンが所有している海の宝玉である。これは、リヴァイアサンとティアマトの封印の鍵だ。
宝玉を守る代わりに、リヴァイアサンはシカトリス皇国を守護する。
それが、先ほどリヴァイアサンが口にした『契約』である。
その宝玉を奉って管理している場所が、海底洞窟。
当時を懐かしむようだったため若干話が長くはなったが、要点を重視した説明だったために全員が一度でその全容を理解できた。
『その宝玉が秘宝であるゆえんは、我が魂、そしてティアマトの魂が封ぜられているからである。故に、その場所で儀式を行う必要があるのである』
「そういうことです」
からくりを聞けば、全てがシンプルに関連している話。
ただし、それを知らなければどうしようもないことでもあった。
『我が妻は呪いによって暴れているが、儀式が行われて本来の力を取り戻せば、斯様な呪いなどはねのけてみせるであろう』
やることは、海底洞窟にて封印解除の儀式を行うこと。
言葉にすればたったそれだけ。
ただし、当然ながら「たったそれだけ」で済むはずが無い。
「簡単……に済んだら、誰も苦労してないんだよな」
ぽつりと太一が言う。
『うむ。簡単な話では無いな。特に、人の身ではな』
リヴァイアサンが太一の発言を肯定した。
「海底洞窟は、名の通り海底にある。光が届かぬ海の底だ。真正面から挑んでも、常人ではまずたどり着けぬ」
リヴァイアサンの宝玉を奉っている海底洞窟について、イルージアがその所在地を述べた。
「平素ならば所定の手続きを踏むと、専用の船が使用可能になり海底洞窟に行けるのだ。しかし、今はティアマトが暴れておるのでな。襲い来るティアマトから逃げ切るのは困難を極める。故に、ここしばらくは定期的に行っていた祈りの儀も延期し続けておる」
そう、一番のネックはそこだ。
暴れるティアマトと、それを押さえるリヴァイアサンの争いは、周囲の海をこれ以上なく荒れさせる。
沖合だったとしても、発生した高波が海岸線を一時的に水没させて洗い流してしまうほどだ。
「そこで、あなたの力が必要なのです。たいちさん」
ウンディーネは、改めて太一に向き直った。
「ティアマトを押さえる役目か?」
「察しが良くて助かります」
太一が言うと、水のエレメンタルはそっと微笑んだ。
太一は海底洞窟には行かない。
つまり。
「潜るのは、私たち?」
白羽の矢が立ったことに気付いた凛が首をかしげる。
それを否定する者は誰もいない。
「と、いうよりも。そこの少年は海底洞窟には入れんぞ。彼の地は男児禁制だからの。予も今回は入れぬ。指示を出さねばならぬのでな」
「なるほど……」
全ての責を王である自分に帰すために、指揮系統の中枢から動けないと女王は言った。
イルージアが入るときは、国事となっている守護竜へ祈りを捧げる儀式の時のみ。
また、ティアマトはリヴァイアサンでは完全には御しきれない。太一の協力は必須。
女人以外は入れないとなれば、太一には実質選択肢はなかった。
「もちろん、ただで潜ってもらうわけではございません。ワタクシたちがある報酬を用意しています」
四大精霊からの報酬。
この世界ではトップクラスと言っていいだろうレミーアの叡智をもってしても、皆目見当がつかなかった。
「何より、たいちさんは、ワタクシとの契約を望んでいることでしょう」
それは当然だ。
風のシルフィ、土のミィと契約して尚、まるで届かないと断言できる存在と相対したのだ。
力はいくらあっても足りない。今、太一はそう思っている。ならば、ウンディーネと契約するのは太一にとって必須事項であった。
ウンディーネもそれを理解してくれているのは、太一にはありがたい話である。
何より、大げさに言えばウンディーネに「契約して頂く」立場である。
契約前に、彼女が懸念していることを解決するのは別に変なことでは無い。
この依頼を蹴るという選択はなかった。
『頼む。我々を救って欲しい』
子である卵を通じての呪いというえげつないことも気に入らない。
満場一致で、リヴァイアサンの嘆願を受けることになったのだった。