第四話 果実と羞恥と黒い影
「……世界樹。 冒険者ギルドが掲げる最終目標だったか」
独白のような彼女の呟きに、応えるつもりはなかったが、世界樹という単語は以前聞いたことがあった。
「はい。そうです」
「太古から存在すると言われているが、誰も見たことはない。今ではまともに探している冒険者などいないと聞いたが」
「そう……ですね」
ヴェルがそう答えると、彼女の声は小さくなり、聞き取りづらかった。
「——俺も以前探しにきたことがある。ちょうどこの森だったな」
「あなたも……?」
背中にいる彼女がぴくりと反応したのかわかった。
「ああ、だが発見には至らなかった。目指したのは、この森の奥にあると言われる亡国の遺跡だが、辿り着けなかった」
「亡国の……遺跡?」
「ここが『異界の森』と呼ばれる前の話らしい」
「それは、知りませんでした」
ヴェルは立ち止まり、彼女に言い聞かせるように静かに告げる。
「森の奥へは行かない方がいい。死にたくなければな」
「危険は承知の上です」
ヴェルはセシルを背負い直すと、また歩き始める。
「そうか、だが今回はもう引き返せ。間が悪い」
「……どうしてですか?」
ヴェルは小さくため息を吐き、喋りすぎたなと後悔する。
「フィアーが出た。——俺はそれの討伐のためにここへ来た」
――――――
その後セシルは、一度自分の野営地へ行くことを提案し、2人はそこで休息を取ることにした。
野営地に着いた時には、セシルの抜けた腰も正常に戻っていた。
本当は少し前から歩けそうだったが、言い出すタイミングを掴めず、結局野営地まで運ばせてしまった。
運ばせてしまった手前、到着してすぐに動き回るのも気が引けて、現在は天幕の側に座らされている。
そして目の前にはこちらをジロジロと観察する黒い瞳。
「……あの、なんでしょうか?」
「怪我は? 痛む場所はあるか?」
(あ、心配してくれるんですね)
ヴェルの声からは微塵もそんな気配は感じないが、そう思うことにした。
そうしてセシルは全身を確認する。
腕や足、肌が露出していた部分に、切り傷擦り傷が多数。
服の内側はトレントに締め付けられた痣がくっきりと残っている。
「血は止まっていますし、骨は折れていません。これくらいなら平気です」
「ならいい」
セシルはこの男に対して、まだ多少の警戒は残しているものの、助けられて、ここまで運んでくれた。
そんな彼が今更セシルに、何かするつもりなどないことは分かりきっていた。
「——あの、ヴェルさん、でしたよね?」
ヴェルはゴソゴソと皮袋の中身を漁りながら、こちらを見ずに返事をする。
「ああ」
「助けていただいて、ありがとうございました」
「ああ」
「それに、ここまで運んでいただいたのも助かりました」
「いい、ついでだ。それに、お前の情報はギルドに入っていたが救助しろとは言われていない。たまたま見つけたから助けただけだ」
冷たいように聞こえるヴェルの物言いだが、冒険者などそんなものだ。
自己責任で危険を冒すのだ、見捨てられて死んでも文句は言えない。
ヴェルは漁っていた皮袋の中から、一本の瓶を取り出して、セシルに差し出す。
「……これは?」
「ポーションだ、飲め」
ポーション。
それは冒険者なら喉から手が出るほど欲しい高級品だ。
マジックポーション、スタミナポーション、ヒールポーション。
用途に応じて使い分けるものだが、たかが銅級冒険者のセシルには、どれも縁のないものである。
目の前の男は、それをくれると言うのか。
——だが、突き出した瓶をヴェルは不意に引っ込めた。
(え、ひどい……)
セシルは受け取ろうとした手のやり場がなくなり、意地悪をされた子供のように、涙が出そうになる。
だがヴェルは意地悪をしたわけではなく、瓶に違和感を感じたようだった。
蓋を開けて、中を覗き込む。そして何を思ったか、瓶を逆さまにしてしまう。
「ああ、そんなもったいな……」
言い終わる前に、セシルにもわかった。
——瓶の中身は空になっていた。
「ヒビが入っていたようだ。中身が溢れている。」
言われてみれば、皮袋の底に水が染みたような跡が残っている。
セシルを助ける際に割れてしまったのだろう。
重ね重ね申し訳ない気持ちになる。
ヴェルは今にも泣き出しそうなセシルには目もくれず、思い出したかのようにポケットに手を入れ何かを取り出した。
ヴェルは取り出した何かをじっと見つめたかと思うと、再びこちらへと差し出す。
「食え」
「——えっ?」
差し出されたのは、手のひらサイズの真っ赤な果実だった。
見た目は美味しそうだが、そういうことではない。
「それ……何の実なんですか? 見たことないですけど……」
「おそらく、先ほどの妖精がよこしたものだ」
妖精とは、先ほどの七色の光のことだろう。
セシルはおそらく、あの妖精の悪戯によって死にかけたのだが、食べても問題ないのだろうか。
「え、でも毒とか……あったり」
セシルがもじもじと受け取れないでいると、ヴェルは小さくため息を吐いて、果実に小さく齧り付く。
(うわぁ、すごく美味しくなさそう……)
これまでヴェルは一切表情が変わることはなかったが、その果実に口をつけたとき、ほんの僅かにだが嫌そうな顔をしたように見えた。
その僅かな表情の変化こそが、逆にその果実の不味さを物語っているようだった。
ヴェルは果実を飲み込み、一瞬間を置いて深く息を吐いた。
「ない」
そして果実をセシルに向かって放り投げると、ニ、三度手の中で跳ねてから、セシルの胸の前に着地した。
セシルは両手で握った果実とヴェルを交互に見て、不安を露わにする。
「——毒はない」
そうは言うが、先ほど死んで蘇った人間から言われても説得力などない。
だが、手にとってみれば、その不安は消えていく。
香りは芳醇で、今まで見てきたどの果実とも違う香りがする。
さらには良く観察してみると、赤い果実は半透明で透き通っている。
果実を通して向こう側が見えるほどだ。
さらに太陽にかざしてみれば、その実は黄金のように光り輝き、神秘的で幻想的で、とてもこの世のものとは思えない。
そんなものに、毒などあるはずがない。
何故だかそう思えた。
ましてや不味いなどと、どうやっても想像できそうにない。
気づけば、セシルは果実に齧り付いていた。
柔らかく歯を押し返す弾力。
咀嚼するたびに口の中で弾ける果肉。
喉を通るその時まで、口の中に残り続ける強烈な甘さ。
そして訪れる、嚥下した後の喪失感。
身体が次の一口を切望する。
先ほど彼はこれを食べて、あんな嫌そうな顔をしたのか?
セシルは先ほどとは全く違う意味で、果実とヴェルを交互に見つめる。
「——これっ! 美味しいです!」
「そうか」
「ヴェルさん、これ、本当に全部もらっていいんですか!?」
言いながらセシルは、誰にも渡さんとばかりに、果実を抱きしめている。
「ああ、構わない」
セシルは信じられないという表情でヴェルを見たが、それでいて食べるのをやめるつもりはない。
ヴェルの方はすでに興味を失ったようで、小川の方へと歩いていく。
それを眺めながら、セシルはなおも齧り付く。
そして不意に全身に、痛みとも痒みともつかない感覚が駆け巡る。
安らぎとも違う心地よさだ。
そして、体の底から魔力が溢れ出る感覚に、まるで自分がふわふわと宙に浮いているかのような錯覚に陥る。
「えっ? えっ? なに?」
突然の出来事に、何が何だかわからず軽くパニックになっていると、ヴェルが戻ってきて、セシルの手にそっと触れる。
「ひゃっ!?」
セシルは一瞬びくりと緊張すると、触れられた手が熱を持つ。
なぜだかわからないが、羞恥の感情が込み上げてきた。
感覚が非常に鋭敏になっており、触れられた手にむずがゆいような心地よさを覚える。
そして、目の前の男がひざまずいてセシルの手を取るような仕草に、思わず顔を赤らめる。
「——問題ない、じきに収まる」
ヴェルはそれだけ言うと、また小川の方へ歩いて行ってしまう。
(ふぇぇ……なんなの……?)
――残されたセシルは彼に触れられた手を胸に抱き、羞恥の熱が引くまで、うずくまって悶え続けるのだった。
――――――
(やってしまった……。何故私はあんなことを……)
——迂闊だ。
現在の状況を端的に表せば、迂闊、その一言に尽きる。
目を覚ましたセシルは、音を立てないように周囲を観察する。
(——こんな状況で、眠ってしまうなんて……)
それほど長く眠ったわけではないようだが、すでに夕暮れだ。
今セシルは寝床に横になり、毛布までかけられている。
夏が近いとはいえ、森の中は涼しく、ひんやりとした風が吹いている。
そして視線の先には、件の青年、ヴェルもいる。
目の前には、セシルが起こした焚き火の炎が、今まさに消え入ろうとしている。
ついさっきまで、薪がくべられていたのだろう。
(……ヴェルさんも、眠っているようですね)
直前までは、見張りをしてくれていたのだろうが、現在は静かな寝息が聞こえる。
それもそうだ、彼とて魔物に襲われて、そしてセシルをここまで担いできたのだ、疲労がないわけがない。
ぐーすか眠っていたセシルに、彼を責める権利などあるはずもない。
(それにしたって、さっき会ったばかりの男の人の前で眠るなんて……うぅ)
セシルが冒険者になってから2年。
当初こそ色んな失敗をした。
だが、ここまで油断しきった自分など、どこを探しても見当たらない。
思えば、あの果実を食べてから、セシルの様子はだいぶおかしかった。
返事のないヴェルにしきりに話しかけて、めちゃくちゃな絡み方をしていたような気がする。
ヴェルは何もせず、ただ黙って話を聞いてくれていたのに。
そしてしまいには勝手に拗ねて、不貞寝するなんて。
自分の行動が信じられない。
——あの果実、味こそ至高のものだったが、気分を高揚させるアルコールのようなものが含まれていたのかもしれない。
なんにせよ、恥ずべき失態だ。
ただ、幸いに彼は寝込みの女を襲う趣味はなかったようで、何事もなく目を覚ますことができた。
そして次に気になったのが、自らの有様だ。
泥と埃に塗れる冒険者とはいえ、自分も女だ。
服はボロボロで、顔や体が土と血にまみれたままでいられるわけがない。
よくこの状態で眠れたものだと、またしてもセシルは過去の自分を呪う。
セシルは静かに起き上がり、音を立てないように小川へ向かって歩き出す。
現在陽は傾いているが、夜にはまだ時間がある。
静かに水面を覗き込み、己の顔を確認してまた絶望する。
少々顔を洗ったくらいではどうにもならない状態だった。
セシルはヴェルの方を向き、彼が起きていないないのを確認して、服を脱ぎ出す。
ボロボロの服は後で着替えるとして、下着姿になり、水の中へゆっくり歩いていく。
腰の深さまで歩いていくと、そこから一気に水の中へ潜る。
そのまま土や乾いた血を洗い流し、全身の汚れを落とす。
そして再び水面へと顔を出す。
琥珀色の陽光に、透き通る銀色の髪が、飛沫を散らす。
見る者が見れば、さぞ幻想的な光景だろう。
絵画にでも残して、飾っておきたいほどに。
——ただし、それを見ているのが、感情の欠落した無感動で無表情の男でなければ、だ。
「…………。」
「……………………。」
流石のセシルも、羞恥のあまり悲鳴を上げるなどという愚は犯さなかった。
口をぱくぱくと開けては閉じて、何を言えばいいのかわからない。
ただひたすらに視線だけが交わり続ける。
せめてヴェルの方から、何かしらの行動を起こしてくれないか、というセシルのささやかな願いは、叶うことはなかった。
「——あの、は、恥ずかしいので、向こうを向いていてもらえませんか……?」
「わかった」
ヴェルは短い返事と共に、セシルの言葉に従う。
セシルはいそいそと川から上がり、布で体を拭い、急いで着替える。
せっかく冷水で清めた身体が、今にも沸騰しそうなほどに、羞恥で赤くなっていた。
「……もう、大丈夫です」
「そうか」
こちらに向き直るヴェルの顔は、殴りたくなるほどに無表情だった。
「……すみません。お見苦しいものを……」
もう感情がいっぱいいっぱいのなか、それだけを口にすると、
「構わない」
これである。
セシルは硬く握った拳は静かに下ろし、何か気を紛らわせる話題はないかと、視線を彷徨わせる。
結局話題は見つからないまま、どうしようもない情けなさだけが胸に渦巻く。
「…………?」
ヴェルはこちらをじっと見つめたまま、わずかに首を傾げる。
「先ほどと髪の色が違うな」
「え……ああ、はい普段は染めています。銀髪は珍しいみたいで……」
あまり目立ちたくはない、と続けようとしたが、その先を口にすることはなかった。
ヴェルはセシルの言葉を遮り、急に立ち上がった。
そして足早にこちらへと向かってくる。
「えっ? なんです!?」
驚いて後づさるセシルの腕を強引に掴むと、力任せに引っ張る。
「立て、こちらだ」
そのまま小川へ飛び込み、腰まで水浸しになりながら、対岸まで走って渡る。
そしてヴェルが先ほどまでセシルたちがいた場所を振り返る。
何が何だかわからないセシルは、とりあえずヴェルの後ろへと隠れ、様子を伺う。
そしてすぐに、それは来た。
無数の黒い影が地面を覆うように現れた。
それは次の瞬間セシルの荷物と天幕を音もなく飲み込んでいく。
生理的な嫌悪感から、ゾワッと身震いをする。
「……あれか」
ヴェルの言葉にセシルは出会ったしまったのだと悟る。
夥しい数の蜘蛛の群れ。
そしてその奥に、巨大な八つの眼光が鈍く光る。
——恐怖の怪物。
死糸を織る者に。




