Hi-mark S-7
その店を、彼は久しぶりに訪れた。
古い酒場だ。この街に通っていた頃、よく寄った。
美味しいお酒と、誰にでも同じだけ冷たい雰囲気のマスターと、それから確かな情報。
世話になった店だった。
「ここが、あなたの言っていたお店?」
隣で彼女が言った。
そう、と彼は答えた。
彼女を連れてきたのは、なんとなくだった。
平穏を取り戻した彼女にこの街を案内するなら、最初はここがいい気がした。
「そういえば、名前」
扉の前で、彼女が思い出したように言った。
「なんて呼べばいいか、まだ決めてないでしょう。番号は、もう嫌なの」
「ああ……わかった。この後決めよう。ゆっくりでいいんだ」
「うん」
彼女は嬉しそうに頷いた。
扉を開けると、鈴が鳴った。
店の中は、記憶のままだった。
薄暗くて、静かで、カウンターの中にあのマスターがいる。
そして、来店した彼はいつもの中央の席に座った。
彼女が隣に座る。
「マスター。注文を」
マスターは頷いて、カウンターの中をこちらへ近づいてくる。
その左足が、床を擦る音がした。
「僕はいつものヤツを。それと、そうだな……彼女に、何かちょうどいい一杯はないかい?」
マスターは彼女の顔を、ちらりと見た。ほんの一瞬だった。それから、静かに言った。
「……それこそ、あんたの好きなものを飲ませてみたらどうだい? きっと、気に入るだろうよ」
「なるほど。じゃあ、いつものを二つ」
マスターは背を向けて、棚から年代物のボトルを下ろした。
その背中を眺めながら、彼はふと隣の彼女に言った。
「そういえば、ハウザーの件、聞いたかい?」
「ええ。事故だったそうね。タクシーの横転で、護衛も含めて全員」
彼女は淡々と言った。ハウザーのことは、名前を知っている程度のはずだ。クローン運用の責任者。組織の末端の、しかし現場では一番汚れていた男。
監査が入り、罪状も揃い、あとは押さえに行くだけだった——と、事件の顛末として、彼女には話してあった。
「あの男や、その取り巻きが死ぬこと自体は驚かないんだ。放っておいてもいずれ終わっていた連中だったから。監査でも、報復でも。あれだけ恨みを買った人間は、長くは生きられない」
「なら、いいことじゃない」
「うん。……ただ、引っかかっていてね」
彼は両手を組んで、テーブルの上に置いた。
「わざわざあの夜に、あの場所で、事故が起きる必要はなかった。誰かが手を下したのだとしたら——手間だけかかって、得るものが何もない。放っておいても、あの連中はいずれ死んでいたんだから」
「変な人ね。悪い人が死んで、悩む人がいる?」
「悩んでいるんじゃない。ただ、割に合わないことをする人間がいた、というのがどうにもね」
カウンターの奥では、氷がグラスに触れる音や、瓶の栓を抜く音が、変わらない調子で続いていた。
「まあ、いいさ――終わった話だ」
「お待たせしました」
グラスが二つ、置かれた。
琥珀色が光を吸っている。
思考が途切れて、彼はふとマスターの手元を見た。
「……その、マスター。さっきから気になっていたんだけど」
「なんだい?」
「怪我でも、したのかい?」
マスターの左足は、カウンターの中で動くたびに引きずられていた。グラスを置いた手にも、細かい震えがあった。
「階段から落ちちまったんだ。うちの二階、急なもんでな」
マスターは笑った。
「体力の衰えってヤツを実感したね。この怪我じゃ、もう店は続けられない」
「本当かい? ……それは、とっても残念だ」
「ちょうど今日の午前で、閉店しちまおうと思っていたところでね」
「そうか……。それなら、僕らが最後の客ってことになるんだね」
マスターは何も答えなかった。
「マスター。もし、何か困ったことがあったら——」
仕事では何度も世話になった店だ。
それくらいのことは、いくらでもできる。
本気で、そう思って言いかけた。
「大丈夫さ」
マスターは、遮るように言った。
「問題なんて、何もない。何も」
穏やかな声だった。
あまりに穏やかだったので、それ以上、何も言えなかった。
「……そうか。ならいいんだ」
彼はグラスを持ち上げた。
「とっても残念だ。これをこの店で飲むのも、最後になるのか」
隣で彼女が、一口飲んで、目を細めた。
「ありがとう。とっても美味しいわ」
マスターは、目を合わせずに言った。
「そいつは、どうも」
※
二人が出ていくと、外の日差しが扉の隙間から差し込んだ。
強い日差しだった。彼の隣で笑う彼女の笑顔が、その光に溶けていった。
眩しすぎて、直視できなかった。
俺はその顔を塞ぐみたいに、店の扉を閉めて、『Closed』の札を掛けた。
店の中が、しんとした。
彼女はこれから、どうなるのだろうか。
あの男の隣は美女揃いだ。
あの中で、彼のパートナーに選ばれるんだろうか。報われるんだろうか——そこまで考えて、やめた。
そんなことは、今の俺にはどうでもいいことだった。
俺はカウンターに戻って、青いシロップの瓶を棚の奥から出した。
グラスの底に沈めて、ソーダで割って、レモンを少し。
事故の後遺症で手が震えるせいで、いつもより時間がかかった。
出来上がった一杯を窓際の端の席に運んで、テーブルの上にそっと置く。
それから、置きっぱなしになっていた請求書をカウンターの上からつかみ取り、その手前にある段差に腰を下ろした。
怪我の痛みで、呻き声が出る。
問題なんて何もない、と俺はあの男に言った。
それは嘘だ。本当は問題だらけだ。
店は今日で終わり、蓄えは銃の修理と情報の買い付けと、それから足のつかない中古のタクシー一台で綺麗に消えた。
この身体では雇ってくれる先もない。明日から俺は、控えめに言って路頭に迷う。
不意に猫の鳴き声がした。
振り返ると、裏口の方だった。
黒猫は俺と一瞬目を合わせてから、走り去っていった。
俺はポケットをごそごそやった。
震える手に、入れっぱなしになっていた拳銃が引っかかって邪魔だったので、床に放り捨てた。
乱暴なことをやったせいで、二度と撃てなくなったボロボロのS-7は、鈍い音を立てて転がって止まった。
医者には止められていたけど、煙草を取り出そうとする。
指が震えているせいでなかなかうまくいかない。
ようやく口に咥えて、ライターを鳴らした。
つかない。
二度目。つかない。
三度目で、ようやくついた。
日光が、窓際のグラスを通り抜けて、青い色になって俺の身体を覆っている。
俺は僅かに笑って、一服つける前に、ついたばかりの煙草の火を請求書の端に移す。
火は紙の上をゆっくり這って、几帳面な字と数字を順番に食っていった。
俺はそれを、燃え尽きる寸前まで持っていた。
指先に熱が届いたところで、手を離す。
灰は宙でバラバラにほどけて、店の中に散っていった。
それから俺は煙草を大きく吸って、ゆっくりと吐いた。
「ダッセェな――俺」




