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ミシハセ  作者: 金子よしふみ
第五章

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31/43

能楽

 能楽というワードに注意が向いたのは、現地の名前をアナウンサーが読んでピクリと反応したからである。数分のニュースを片手間のながら視聴でもいいはずなのに、ピクリとも動かずにじいっと見入ってしまった。

 作屋守は能楽を見る機会はなかった。そもそも関心はなかった。以前、クラシックのコンサートに行った時にいつのまにか入眠しており、連れからぼやかれたことがある。バンドやソロアーティストのライブに行ったことはあるがその時に眠ってしまうなんてことはなかった。舞台を見に行った時も途中から終了時間が待ち遠しくて仕方なかったくらいだ。そんなはずだが、よくよく思い出せることがある。島を去る翌週の日曜日に開催予定の演目がポスターには書いてあるのを見かけたなんてことを、だ。

 ニュースが終わり、日常へ戻ろうとした。玉ねぎを切り始めても、鍋に湯を沸かし始めても、どこか体がかゆい気がしてならない。虫に刺されたかゆみではない、草にかぶれたかゆみではない。近いとすれば、冬寒風吹きすさぶ中、外から暖房の効いた室内に入った時の血流の改善によるそれだ。

 手の込んだカレーにするつもりだったが、すっかり手抜きのカレーに工程を簡素にして配膳を整えると、パソコンを起動させた。無料動画を再生した。手抜きの、たまねぎがしっかり炒まってないカレー、ところどころ団子状に固くなってしまった豚バラ肉のカレーを作屋守は味に感想をつけることもせず、能楽の動画を視聴した。

 薪能で、焚かれたかがり火に照らし出される表情。増面(ぼうおもて)をつけているというのに、今しがたは般若に見えた。ちょっと待てと思った次にはもう元の若い女の面になっている。面の形は職人の手によって既に完了されている。というのに、光が影が闇が、そして演者が表情を変えさせる。美しい、恐ろしい、恐ろしい、美しい、どっちだ、どっちもだ、分からない、分からないから両方、言ってしまうのだ。これを表すことのできる固有名詞があればいい、少なくとも名詞があれば。形容詞だから多岐にわたる。ないからどうしたって形容詞に頼るしかない。だらしなくまとまりのないとっちらかった感情の、印象の発露として形容詞のせいにするしかない。

(能か! 伝統か、歴史だ)

 作屋守の脳内に稲妻が響いた。動画の中では朗々と調子の声が音楽になっている。意味を解することはできない。それは単なるBGMで、今の歌曲とは違う。その違和感こそが気付かせたのだ。

(ならば現代国語辞典ではだめだ。古語辞典にしなければならない。古語辞典を開くのだ。形容詞を引っ張り出せ。今は形容詞に命令形はない。古語にはあるのだ。命令せよ。形容詞の命令形で)

 増面の演者を作屋守は、

(きっとあの人だ)

 と漠然と確信していた。「能面をつけているのはいったい誰なんだ!」と一応の取り繕った狼狽を演じようにも作屋守にはそんな技術もなければ、自信もなかった。彼の目には動画の説明文は読めていなかった。それを読めていれば、額の汗をぬぐう暇も設けられただろうに。

(彼女にも歴史がある、伝統ではないから命令形はない)

 けれども、それを武器にするしか太刀打ちできないのだ。

(違う! 全部違う! あの人が能面をつけるはずはない。その必要がないんだ)。

 作屋守の中では、例えとして能面を出しておかないと解釈できそうになかっただけなのだ。思い起こしているのはリサとのエピソードだった。

 動画が終わりをつげ、作屋守が現世へ戻って来られたのは次の動画の開始前にコマーシャルが音量でかかったためではない。舌がひりついていた。唇が熱を持っていた。空になった皿に何度もスプーンを空振りさせていた。グラスの水は減っていなかった。いつもと同じ中辛のルーにしてあったのに、いち早く冷たい水を欲していた。一息で飲み干すとティッシュで額の汗を拭いた。

 動画を閉じると、腹が鳴った気がして、カレーのおかわりをした。食べ終わっても舌がひりついたり、唇が熱を持っていたり、ましてや喉が冷たい水をガブ飲みしたくなるなんてことも、ティッシュで拭き取らなければならないほどに額に汗をかくなんてこともなかった。


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