「誰が混ぜても同じだ」と義母に十年の糠床を渡した夫に、一掬いも持たずに出ます——わたくしの空樽が同じ味になりました
【梅雨入りの朝・漬物蔵前】
「誰が混ぜても同じ」
押し蓋が、里江の手からすっと抜けた。惣吉は取り上げたそれを親類へ見せるように立て、今しがた名案を出した男の顔で笑った。
「嫁ひとりに蔵を任せきりでは、母さんの居場所がないからな。代々の床だ、今日から母さんに戻す」
「まあ、惣吉は親孝行だこと」
「糠なんぞ、手を入れて返すだけだものな」
笑い声は梅雨の湿気よりよく絡む。床なら塩を足せばよいが、人の口へ塩を放り込むのは淑女として少々まずい。少々で済むなら、里江は喜んでひとつまみずつ配ったのだけれど。
お辰は渡された押し蓋を抱え、困ったように笑った。
「里江さんが毎朝毎晩やってくれていたでしょう。今さらわたしが触って、かえって悪くしないかねえ」
「混ぜるだけだよ。母さんならできる」
「旦那様、今朝の床は底が少しぬるうございます。風を通してからでないと」
「気にしすぎだ。母さんに任せると決めたんだよ」
親類がいると、惣吉の声はよく育つ。日も当てていないのに立派なものだ。味の方も声量で整うなら、卸へ出す樽の前で朝晩怒鳴っていただけばよろしい。
里江は返事の代わりに袖をたくし、床の底へ手を沈めた。冷たい表面を抜けた先から一掬いし、鼻先へ寄せる。昨日の胡瓜の青さ、その下にまだ抜けきらぬ熱、塩は指先へざらりと一粒ぶん足りない。
「あら、まだ触るのかい」
「最後でございますから」
指で塩を量り、一掬いを底へ戻す。爪の間に残った糠まで親指でこそげ、樽の縁へ落とした。持って帰るには少なすぎる、などという隙さえ残してやる義理はない。
惣吉は里江の言葉を待たず、お辰の抱えた押し蓋を指した。
「じゃあ母さん、頼んだぞ。これでうちの床も元どおりだ」
「代々の床だもの。そうそう駄目にはならないよ」
里江は樽の向こうの西窓を見た。梅雨の晴れ間なら、午後は強く差す。戸を半尺狭めたいところだが、今日からそれを決めるのは、代々というたいそう働き者の何かなのだろう。
床より先に、里江の腹がひどく空いた。朝餉の茄子漬けを一切れ余計に取ろう。十年働いた手への退職金としては、涙が出るほど慎ましい。
* * *
【三日後・蔵の中】
「里江さん。里江さん、ちょっと来ておくれ」
お辰が初めて里江を呼んだのは、押し蓋を任されて三日目の昼だった。樽の表には濁った水が上がり、押した指の跡がゆるゆると戻る。戸は開け放し、西日は床の半分へまっすぐ差していた。
「水が出ているんだけれど、これは大根のせいかねえ」
「胡瓜でございます。塩が薄うなって、上へ水を吐いております」
「でも昨日は触っていないよ。おとといもね。毎日いじらない方が、古い床にはよいと思って」
「三日でございますね」
西日が二刻、混ぜは三日お休み。床より先に、里江の気が酸りそうである。そこへ昼の蒸れが半日。この勘定だけは、利息が実に正直だ。
里江は腕を洗い、底へ手を差し込んだ。重くなった床を下から持ち上げ、熱のこもったところを空気へ触れさせる。二度目を返そうとしたところで、惣吉が手首をつかんだ。
「母さんに任せたんだ。横から手を出したら、いつまでたっても覚えられないだろう」
「では、せめて水を抜き、炒った糠を——」
「ほら、また大げさにする。三日くらいで変わるものか」
里江は惣吉の手を見た。親類のいない蔵では声こそ少し小さいが、止める力は変わらない。そこだけ律儀で、褒めて差し上げたいほどだ。
「代々の床だもの。少し水が出たくらい、自分で戻るよ」
お辰は手についた糠を井戸端で洗い、濡れたままの押し蓋を樽へ載せた。悪気がないというのは便利である。塩を忘れても、日を当てても、誰も悪くない顔だけは朝夕よく育つ。
里江は戸を半尺閉めた。それ以上はせず、腕に残った糠を洗う。
夕餉には、昨日漬けた胡瓜が出た。皮の近くは塩辛く、芯は水っぽい。惣吉は醤油をかけて二切れ食べ、お辰は「夏の胡瓜はこういうものだね」と箸を置いた。
里江は醤油差しを遠ざけた。床の失点を醤油に押しつけるのは、さすがに醤油が気の毒である。
* * *
【夏の朝・卸の店先】
「こちらの古漬けは、一樽お戻しいたします」
卸先の主人は余計な顔をせず、樽の蓋を閉めた。切った茄子を一度噛み、二度目を噛まずに小皿へ戻す。その短い手つきだけで、里江には塩が足りず、熱の逃げていない味だと分かった。
惣吉は樽へ手をかけなかった。
「古漬けですからね。少し酸味が強いのは当然でしょう」
「昨年とは違いますので」
「古い物ほどありがたがるのも、もう時代遅れでしょう。次は若い漬かりを持ってきますよ」
古い樽には価値があり、古漬けには価値がない。旦那様の理屈は、朝の飯と昼の飯の間でよく着替える。帯まで替えて、たいそうお洒落だ。
卸先の主人は反論せず、樽を惣吉の側へ静かに寄せた。
「次のお品を拝見いたします」
その夜、里江は自分の手銭で買った炒り糠と塩を風呂敷に包み、蔵へ入った。家の帳面へ一文でも付ければ、惣吉は金を出した者が味を作ったと言い出しかねない。糠と塩の代は、里江の櫛一本を先へ延ばせば済む。櫛では飯は進まないが、よい古漬けなら二膳は進む。よし、古漬けの勝ち。
床の中央へ清い布を沈め、水を吸わせて絞る。底から返し、炒り糠を三度に分けて入れ、塩を指の腹で散らした。戸を開けるのは一刻だけ、夜風が強くなれば半尺戻す。何年も繰り返した手は、考えるより先に熱いところを探り当てた。
茄子は抜き、胡瓜は塩を摺り直した。朝まで床を休ませると、刺すようだった酸味が丸くなり、二日後には卸へ出せるところまで戻った。
惣吉は味見をして、満足そうにうなずいた。
「ほらな。古い床はちゃんと戻るんだ」
「さようでございますね」
里江の舌に載せた一切れは、端の小さな茄子だった。直った味である。誰が直したかを告げなければ、樽が勝手に直ったことになるらしい。
ならば明日の水も、明後日の塩も、その次の西日も、里江が陰から埋めればよい。惣吉の理屈はいつまでも腐らず、お辰はますます何もしなくなる。床だけは里江の手銭と朝夕を食べ続け、うまく漬かったところだけ代々のお手柄になる。
そんなものへ糠を足すほど、里江は気前がよくなかった。
* * *
【その夜・蔵の板の間】
「では、そっくり義母様のお手で結構でございますね」
里江がそう告げると、惣吉は板の間に置いた返却樽を振り向いた。昨日までより匂いの落ち着いた床が、押し蓋の下に収まっている。
「何の話だ」
「蔵のお役目をお返しいたします。旦那様のおっしゃるとおり、床は義母様へ」
「まだ根に持っているのか。母さんが困ったときくらい手伝えばいいだろう。嫁なんだから」
「困ることなどございませんでしょう。代々の床でございますもの」
お辰は廊下の端で、濡れた手を前掛けに拭いた。
「里江さん、わたしは取ったつもりじゃないんだよ。惣吉が任せると言うから」
「はい。ですから、お返しいたします」
里江は蔵から自分の物を拾った。洗い布は家の物。塩壺も家の物。竹べらも、重石も、樽も、漬け上がった茄子も婚家の物である。里江の物は、棚の隅に置いた袖紐一本と、今着ている衣だけだった。
一掬いの糠さえ取らなかった。古漬けも包まない。朝夕を十年つぎ込んだところで、床に手形が浮くわけではないのだから、持ち出す勘定はきれいな零だ。
「大げさなことをするな。蔵を外されたくらいで、家を出ると言うのか」
「床へ手を入れず、嫁としてここにおりますと、腐らせた責めだけはわたくしへ参りましょう。それは少々、割に合いません」
「誰がそんなことを言った」
「まだ、どなたも」
里江は押し蓋を持ち上げ、乾いた布で縁まで拭いた。木目へ入り込んだ糠を爪で取り、樽の脇へ裏返して伏せる。
いつもなら、乾くまで半刻、明朝の湿りは一割、塩はひとつまみと目が勝手に数えた。けれどそのときだけ、何ひとつ勘定に上がらなかった。
「わたくしはこの床を、十年、わたくしの手だと思うて混ぜておりました」
惣吉の口が開いた。里江はその返事を待たず、袖紐を懐へ入れる。
「夫婦のお役目も、ここまでといたします。義母様、旦那様、お達者で」
下駄を履き、里江は門を出た。背後でお辰が一度名を呼んだが、惣吉は呼ばなかった。
十年を軽くした方のために、十一年目まで差し出すことはない。それが里江の、最後の塩梅だった。
* * *
【秋・隣町の裏長屋】
「あんた、あの蔵を十年やってたんだってね」
講の女衆は、慰めの言葉を持ってこなかった。代わりに空の素樽を一つ、炒り糠の袋を二つ、里江の借りた裏長屋へどんと置いた。
「これは、どなたの樽でございますか」
「あんたのだよ」
「代はいかほどで」
「講の勘定から出した。働いて返せる手に貸すのは、施しじゃない」
別の女が水桶を置き、樽の中をのぞいた。
「十回も夏を越したんだろ。三日もたせた人よりは信用できる」
「まあ。お話が早くて、胸にしみますわ」
「糠が薄くなるよ。礼なら漬物で返しな」
女衆はそれだけ言って帰った。素樽は乾いた木の匂いしかしない。代々もなければ、勝手に育つご立派な由緒もない。なんと頼りない。なんと気持ちがよい。
里江は塩を水へ溶かし、炒り糠を少しずつ練った。捨て野菜を入れ、朝いちばんに底から返す。夕方には戸を開けて熱を逃がし、夜気が冷えれば布をかける。塩は日ごとに指へ馴染み、床はだんだん、手を沈めた形のまま崩れなくなった。
毎朝、里江は一掬いして匂いを嗅いだ。新しい糠の甘さ、水の角、昨日入れた蕪の青い苦み。婚家から持ってきたものは何もないのに、爪の脇も、掌の皺も、十年働いた手のままだった。
最初に漬かった蕪を切る日、女衆は炊きたての飯を抱えて集まった。白い湯気が卓の上でぶつかり、狭い部屋がたちまち腹の減る匂いで満ちる。これはいけない。漬物がまだ若くとも、飯の方が待つ気をなくしている。
「樽主が先に食べな」
里江は反射で、皿の端にある薄い一切れへ箸を伸ばした。向かいの女が箸の先でぴしりと止める。
「そっちは端だよ。真ん中を取りな」
「真ん中は売り物にできるところでございます」
「まだ一文にもなってない。なら、あんたの腹へ売りな」
里江は真ん中の、厚く切れた蕪を取った。しゃくりと歯を入れると、若い辛みの後から糠の甘さが来る。塩はほんの少し強い。次は半つまみ減らせる。だが飯には、これくらいがよろしい。
「お代わりをいただいても?」
「一膳目を食べ終えてから言いな」
「食べ終わる未来が、もう見えておりますの」
飯杓子を持った女が鼻で笑い、里江の椀へ初めから大盛りによそった。
* * *
【翌年の夏・二つの蔵】
婚家の蔵では、押し蓋を取ると酸い匂いが先に外へ逃げた。床は水を持ち、表へ白い膜が薄く張っている。お辰は端を匙ですくい、すぐ樽へ戻した。
「昨日までは、こんなではなかったんだよ」
昨日も同じだったことを、数えていた者はいない。お辰は三日触らず、慌てて一日に何度も返し、塩を多く入れた。惣吉は若い茄子なら売れると言い、酸味の回った床へ次々と沈めた。
卸先の主人は届いた一樽を開けた。小皿の胡瓜へ箸をつけ、口に入れる前に蓋を戻す。
「今年は結構でございます」
「どこが悪いんです。去年までは同じ床で——」
惣吉の声は、蔵前で親類に聞かせたときの半分にも届かなかった。返された樽へ手を触れず、主人の顔だけを見ている。
「香りが変わりました。次の仕入れも控えさせていただきます」
「床は代々の物です。少し暑さが続いただけで、秋には戻ります」
「戻りましたら、また拝見いたします」
主人はそれ以上を言わなかった。親類は樽が増えた婚家へ来て、「嫁が手を抜いた」と、誰かの言葉の尻だけを拾って帰った。惣吉もお辰も、その一言を止めなかった。
隣町では、里江が朝の戸を細く開けていた。外気はもう熱いが、夜のうちに素樽へたまった熱は先に逃がさねばならない。風が抜けたところで一掬いし、匂いを嗅ぐ。
三月で覚えのある匂いまで整い、初めての夏を迎えた床から、丸い酸味が立っていた。水だけでも、塩だけでも、炒り糠だけでもない。朝夕に底を返し、野菜ごとに塩を変え、暑い日は戸を開け、夜風が強ければ閉じる。その重なりが、里江の鼻の奥へ覚えのある匂いを運んできた。
「来たね」
戸口へ野菜籠を置いた女が言った。里江はもう一度嗅ぎ、頬がゆるみそうになるのを咳払いでごまかす。
「まだ最初の夏でございます。浮かれるには塩が二つまみほど早うございますわ」
「その顔で言うのかい」
「これは暑さのせいです」
「朝から涼しいよ」
逃げ道を塩で塞ぐとは、講の女衆もなかなかよい手をしている。里江は一掬いを樽へ戻し、底から大きく返した。手の甲に落ちた糠を舐めると、あと半日で胡瓜を上げられる。
その匂いを卸先の主人が確かめたのは、婚家への仕入れを止めた帰りだった。主人は素樽の前で足を止め、開いた戸口から来る香りを一度吸った。
婚家へ戻った惣吉は、白い膜の浮く古樽の前に立った。
俺は床だけを残して、その床を床にしていた手を追い出した。
惣吉は押し蓋へ伸ばした手を止めた。
* * *
【翌年の秋・隣町の店先】
「この一樽をいただきます。樽主のお名前を、帳面へ頂戴できますか」
卸先の主人は古漬けの皿を空にしてから尋ねた。里江は前掛けで手を拭き、帳面の空いた欄を見る。
「里江でございます」
「では、里江様の古漬けとして。お値は、こちらでいかがでしょう」
差し出された算盤を、里江はすぐには受けなかった。仕込んだ日数、塩、野菜、樽を借りた代、朝夕の手間。これまでは家の勘定に入らなかったものを、一つずつ珠へ載せる。
「恐れ入ります。あと、こちらだけ」
里江は珠を二つ上げた。主人は数を見直し、うなずく。
「承知いたしました。次の一樽も、そのお値で」
一樽へ里江の名札が掛かった。端でない古漬けが、初めて里江の手間ごと売れていく。浮かれるにはまだ早い。そう思ったのに、腹の中ではもう炊きたての飯が鉦と太鼓で祝っていた。今夜は二膳。いや、商い初日なのだから三膳でも品格は傷つくまい。
「里江」
門の外から呼ばれ、女衆の手が止まった。惣吉は敷居をまたがず立っていた。卸先の主人を見ると背をわずかに縮め、声を落とす。
「話がある。家の床が、その……戻らないんだ」
「さようでございますか」
「母さんも年だ。親類は口ばかりで、手を出さない。家へ——いや、俺のところへ戻ってくれ」
惣吉は一度で言い切れず、途中で息を継いだ。それから里江の両手を見た。糠を洗ったばかりの指、塩で少し荒れた爪の脇。次に、自分の空いた両手へ目を落とす。
「蔵のことだけでいい。朝夕、床を見てくれれば、あとは好きにしていいから」
「旦那様がお望みなのは、わたくしではなく、混ぜる手でございましょう」
「その手が必要なんだ。うちの床は、お前でないと」
里江は店先の素樽へ押し蓋を載せた。伏せはしない。明朝もまた、この蓋を開けるからだ。
「誰が混ぜても同じ」
惣吉の顔が動いた。
「旦那様のお言葉でございます。義母様のお手で、どうぞお続けくださいませ」
「里江、あれは——」
「卸のお客様がお待ちですので」
卸先の主人は口を挟まず、里江の名が入った帳面を閉じた。女衆も惣吉を追い払わない。ただ店の内側へ飯台を運び込み、門の外にいる者の椀だけを並べなかった。
惣吉は敷居を越えられぬまま頭を下げた。里江は受け取らない頼みへ返事を足さず、次の樽の値札を書いた。
日が傾くころ、女衆が炊きたての飯を持ってきた。里江は売り物にした樽とは別の小樽から、食べ頃の古漬けを選ぶ。皿の端ではなく、真ん中のよく漬かった茄子を自分の椀へ載せた。
「今日は一膳目から大盛りかい」
「祝いの日に遠慮をいたしますと、飯に失礼でございましょう」
「二膳目も食べる顔だね」
「端でない古漬けというものは、炊きたての飯をもう一膳よこせと申しますのね」
里江は飯杓子を取り、自分の椀へもう一膳よそった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




