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ぜんぶ妹に譲りなさい

「誰が混ぜても同じだ」と義母に十年の糠床を渡した夫に、一掬いも持たずに出ます——わたくしの空樽が同じ味になりました

作者: 真神 慧
掲載日:2026/07/31

【梅雨入りの朝・漬物蔵前】


「誰が混ぜても同じ」


 押し蓋が、里江の手からすっと抜けた。惣吉は取り上げたそれを親類へ見せるように立て、今しがた名案を出した男の顔で笑った。


「嫁ひとりに蔵を任せきりでは、母さんの居場所がないからな。代々の床だ、今日から母さんに戻す」


「まあ、惣吉は親孝行だこと」


「糠なんぞ、手を入れて返すだけだものな」


 笑い声は梅雨の湿気よりよく絡む。床なら塩を足せばよいが、人の口へ塩を放り込むのは淑女として少々まずい。少々で済むなら、里江は喜んでひとつまみずつ配ったのだけれど。


 お辰は渡された押し蓋を抱え、困ったように笑った。


「里江さんが毎朝毎晩やってくれていたでしょう。今さらわたしが触って、かえって悪くしないかねえ」


「混ぜるだけだよ。母さんならできる」


「旦那様、今朝の床は底が少しぬるうございます。風を通してからでないと」


「気にしすぎだ。母さんに任せると決めたんだよ」


 親類がいると、惣吉の声はよく育つ。日も当てていないのに立派なものだ。味の方も声量で整うなら、卸へ出す樽の前で朝晩怒鳴っていただけばよろしい。


 里江は返事の代わりに袖をたくし、床の底へ手を沈めた。冷たい表面を抜けた先から一掬いし、鼻先へ寄せる。昨日の胡瓜の青さ、その下にまだ抜けきらぬ熱、塩は指先へざらりと一粒ぶん足りない。


「あら、まだ触るのかい」


「最後でございますから」


 指で塩を量り、一掬いを底へ戻す。爪の間に残った糠まで親指でこそげ、樽の縁へ落とした。持って帰るには少なすぎる、などという隙さえ残してやる義理はない。


 惣吉は里江の言葉を待たず、お辰の抱えた押し蓋を指した。


「じゃあ母さん、頼んだぞ。これでうちの床も元どおりだ」


「代々の床だもの。そうそう駄目にはならないよ」


 里江は樽の向こうの西窓を見た。梅雨の晴れ間なら、午後は強く差す。戸を半尺狭めたいところだが、今日からそれを決めるのは、代々というたいそう働き者の何かなのだろう。


 床より先に、里江の腹がひどく空いた。朝餉の茄子漬けを一切れ余計に取ろう。十年働いた手への退職金としては、涙が出るほど慎ましい。



    *    *    *


【三日後・蔵の中】


「里江さん。里江さん、ちょっと来ておくれ」


 お辰が初めて里江を呼んだのは、押し蓋を任されて三日目の昼だった。樽の表には濁った水が上がり、押した指の跡がゆるゆると戻る。戸は開け放し、西日は床の半分へまっすぐ差していた。


「水が出ているんだけれど、これは大根のせいかねえ」


「胡瓜でございます。塩が薄うなって、上へ水を吐いております」


「でも昨日は触っていないよ。おとといもね。毎日いじらない方が、古い床にはよいと思って」


「三日でございますね」


 西日が二刻、混ぜは三日お休み。床より先に、里江の気が酸りそうである。そこへ昼の蒸れが半日。この勘定だけは、利息が実に正直だ。


 里江は腕を洗い、底へ手を差し込んだ。重くなった床を下から持ち上げ、熱のこもったところを空気へ触れさせる。二度目を返そうとしたところで、惣吉が手首をつかんだ。


「母さんに任せたんだ。横から手を出したら、いつまでたっても覚えられないだろう」


「では、せめて水を抜き、炒った糠を——」


「ほら、また大げさにする。三日くらいで変わるものか」


 里江は惣吉の手を見た。親類のいない蔵では声こそ少し小さいが、止める力は変わらない。そこだけ律儀で、褒めて差し上げたいほどだ。


「代々の床だもの。少し水が出たくらい、自分で戻るよ」


 お辰は手についた糠を井戸端で洗い、濡れたままの押し蓋を樽へ載せた。悪気がないというのは便利である。塩を忘れても、日を当てても、誰も悪くない顔だけは朝夕よく育つ。


 里江は戸を半尺閉めた。それ以上はせず、腕に残った糠を洗う。


 夕餉には、昨日漬けた胡瓜が出た。皮の近くは塩辛く、芯は水っぽい。惣吉は醤油をかけて二切れ食べ、お辰は「夏の胡瓜はこういうものだね」と箸を置いた。


 里江は醤油差しを遠ざけた。床の失点を醤油に押しつけるのは、さすがに醤油が気の毒である。



    *    *    *


【夏の朝・卸の店先】


「こちらの古漬けは、一樽お戻しいたします」


 卸先の主人は余計な顔をせず、樽の蓋を閉めた。切った茄子を一度噛み、二度目を噛まずに小皿へ戻す。その短い手つきだけで、里江には塩が足りず、熱の逃げていない味だと分かった。


 惣吉は樽へ手をかけなかった。


「古漬けですからね。少し酸味が強いのは当然でしょう」


「昨年とは違いますので」


「古い物ほどありがたがるのも、もう時代遅れでしょう。次は若い漬かりを持ってきますよ」


 古い樽には価値があり、古漬けには価値がない。旦那様の理屈は、朝の飯と昼の飯の間でよく着替える。帯まで替えて、たいそうお洒落だ。


 卸先の主人は反論せず、樽を惣吉の側へ静かに寄せた。


「次のお品を拝見いたします」


 その夜、里江は自分の手銭で買った炒り糠と塩を風呂敷に包み、蔵へ入った。家の帳面へ一文でも付ければ、惣吉は金を出した者が味を作ったと言い出しかねない。糠と塩の代は、里江の櫛一本を先へ延ばせば済む。櫛では飯は進まないが、よい古漬けなら二膳は進む。よし、古漬けの勝ち。


 床の中央へ清い布を沈め、水を吸わせて絞る。底から返し、炒り糠を三度に分けて入れ、塩を指の腹で散らした。戸を開けるのは一刻だけ、夜風が強くなれば半尺戻す。何年も繰り返した手は、考えるより先に熱いところを探り当てた。


 茄子は抜き、胡瓜は塩を摺り直した。朝まで床を休ませると、刺すようだった酸味が丸くなり、二日後には卸へ出せるところまで戻った。


 惣吉は味見をして、満足そうにうなずいた。


「ほらな。古い床はちゃんと戻るんだ」


「さようでございますね」


 里江の舌に載せた一切れは、端の小さな茄子だった。直った味である。誰が直したかを告げなければ、樽が勝手に直ったことになるらしい。


 ならば明日の水も、明後日の塩も、その次の西日も、里江が陰から埋めればよい。惣吉の理屈はいつまでも腐らず、お辰はますます何もしなくなる。床だけは里江の手銭と朝夕を食べ続け、うまく漬かったところだけ代々のお手柄になる。


 そんなものへ糠を足すほど、里江は気前がよくなかった。



    *    *    *


【その夜・蔵の板の間】


「では、そっくり義母様のお手で結構でございますね」


 里江がそう告げると、惣吉は板の間に置いた返却樽を振り向いた。昨日までより匂いの落ち着いた床が、押し蓋の下に収まっている。


「何の話だ」


「蔵のお役目をお返しいたします。旦那様のおっしゃるとおり、床は義母様へ」


「まだ根に持っているのか。母さんが困ったときくらい手伝えばいいだろう。嫁なんだから」


「困ることなどございませんでしょう。代々の床でございますもの」


 お辰は廊下の端で、濡れた手を前掛けに拭いた。


「里江さん、わたしは取ったつもりじゃないんだよ。惣吉が任せると言うから」


「はい。ですから、お返しいたします」


 里江は蔵から自分の物を拾った。洗い布は家の物。塩壺も家の物。竹べらも、重石も、樽も、漬け上がった茄子も婚家の物である。里江の物は、棚の隅に置いた袖紐一本と、今着ている衣だけだった。


 一掬いの糠さえ取らなかった。古漬けも包まない。朝夕を十年つぎ込んだところで、床に手形が浮くわけではないのだから、持ち出す勘定はきれいな零だ。


「大げさなことをするな。蔵を外されたくらいで、家を出ると言うのか」


「床へ手を入れず、嫁としてここにおりますと、腐らせた責めだけはわたくしへ参りましょう。それは少々、割に合いません」


「誰がそんなことを言った」


「まだ、どなたも」


 里江は押し蓋を持ち上げ、乾いた布で縁まで拭いた。木目へ入り込んだ糠を爪で取り、樽の脇へ裏返して伏せる。


 いつもなら、乾くまで半刻、明朝の湿りは一割、塩はひとつまみと目が勝手に数えた。けれどそのときだけ、何ひとつ勘定に上がらなかった。


「わたくしはこの床を、十年、わたくしの手だと思うて混ぜておりました」


 惣吉の口が開いた。里江はその返事を待たず、袖紐を懐へ入れる。


「夫婦のお役目も、ここまでといたします。義母様、旦那様、お達者で」


 下駄を履き、里江は門を出た。背後でお辰が一度名を呼んだが、惣吉は呼ばなかった。


 十年を軽くした方のために、十一年目まで差し出すことはない。それが里江の、最後の塩梅だった。



    *    *    *


【秋・隣町の裏長屋】


「あんた、あの蔵を十年やってたんだってね」


 講の女衆は、慰めの言葉を持ってこなかった。代わりに空の素樽を一つ、炒り糠の袋を二つ、里江の借りた裏長屋へどんと置いた。


「これは、どなたの樽でございますか」


「あんたのだよ」


「代はいかほどで」


「講の勘定から出した。働いて返せる手に貸すのは、施しじゃない」


 別の女が水桶を置き、樽の中をのぞいた。


「十回も夏を越したんだろ。三日もたせた人よりは信用できる」


「まあ。お話が早くて、胸にしみますわ」


「糠が薄くなるよ。礼なら漬物で返しな」


 女衆はそれだけ言って帰った。素樽は乾いた木の匂いしかしない。代々もなければ、勝手に育つご立派な由緒もない。なんと頼りない。なんと気持ちがよい。


 里江は塩を水へ溶かし、炒り糠を少しずつ練った。捨て野菜を入れ、朝いちばんに底から返す。夕方には戸を開けて熱を逃がし、夜気が冷えれば布をかける。塩は日ごとに指へ馴染み、床はだんだん、手を沈めた形のまま崩れなくなった。


 毎朝、里江は一掬いして匂いを嗅いだ。新しい糠の甘さ、水の角、昨日入れた蕪の青い苦み。婚家から持ってきたものは何もないのに、爪の脇も、掌の皺も、十年働いた手のままだった。


 最初に漬かった蕪を切る日、女衆は炊きたての飯を抱えて集まった。白い湯気が卓の上でぶつかり、狭い部屋がたちまち腹の減る匂いで満ちる。これはいけない。漬物がまだ若くとも、飯の方が待つ気をなくしている。


「樽主が先に食べな」


 里江は反射で、皿の端にある薄い一切れへ箸を伸ばした。向かいの女が箸の先でぴしりと止める。


「そっちは端だよ。真ん中を取りな」


「真ん中は売り物にできるところでございます」


「まだ一文にもなってない。なら、あんたの腹へ売りな」


 里江は真ん中の、厚く切れた蕪を取った。しゃくりと歯を入れると、若い辛みの後から糠の甘さが来る。塩はほんの少し強い。次は半つまみ減らせる。だが飯には、これくらいがよろしい。


「お代わりをいただいても?」


「一膳目を食べ終えてから言いな」


「食べ終わる未来が、もう見えておりますの」


 飯杓子を持った女が鼻で笑い、里江の椀へ初めから大盛りによそった。



    *    *    *


【翌年の夏・二つの蔵】


 婚家の蔵では、押し蓋を取ると酸い匂いが先に外へ逃げた。床は水を持ち、表へ白い膜が薄く張っている。お辰は端を匙ですくい、すぐ樽へ戻した。


「昨日までは、こんなではなかったんだよ」


 昨日も同じだったことを、数えていた者はいない。お辰は三日触らず、慌てて一日に何度も返し、塩を多く入れた。惣吉は若い茄子なら売れると言い、酸味の回った床へ次々と沈めた。


 卸先の主人は届いた一樽を開けた。小皿の胡瓜へ箸をつけ、口に入れる前に蓋を戻す。


「今年は結構でございます」


「どこが悪いんです。去年までは同じ床で——」


 惣吉の声は、蔵前で親類に聞かせたときの半分にも届かなかった。返された樽へ手を触れず、主人の顔だけを見ている。


「香りが変わりました。次の仕入れも控えさせていただきます」


「床は代々の物です。少し暑さが続いただけで、秋には戻ります」


「戻りましたら、また拝見いたします」


 主人はそれ以上を言わなかった。親類は樽が増えた婚家へ来て、「嫁が手を抜いた」と、誰かの言葉の尻だけを拾って帰った。惣吉もお辰も、その一言を止めなかった。


 隣町では、里江が朝の戸を細く開けていた。外気はもう熱いが、夜のうちに素樽へたまった熱は先に逃がさねばならない。風が抜けたところで一掬いし、匂いを嗅ぐ。


 三月で覚えのある匂いまで整い、初めての夏を迎えた床から、丸い酸味が立っていた。水だけでも、塩だけでも、炒り糠だけでもない。朝夕に底を返し、野菜ごとに塩を変え、暑い日は戸を開け、夜風が強ければ閉じる。その重なりが、里江の鼻の奥へ覚えのある匂いを運んできた。


「来たね」


 戸口へ野菜籠を置いた女が言った。里江はもう一度嗅ぎ、頬がゆるみそうになるのを咳払いでごまかす。


「まだ最初の夏でございます。浮かれるには塩が二つまみほど早うございますわ」


「その顔で言うのかい」


「これは暑さのせいです」


「朝から涼しいよ」


 逃げ道を塩で塞ぐとは、講の女衆もなかなかよい手をしている。里江は一掬いを樽へ戻し、底から大きく返した。手の甲に落ちた糠を舐めると、あと半日で胡瓜を上げられる。


 その匂いを卸先の主人が確かめたのは、婚家への仕入れを止めた帰りだった。主人は素樽の前で足を止め、開いた戸口から来る香りを一度吸った。


 婚家へ戻った惣吉は、白い膜の浮く古樽の前に立った。


 俺は床だけを残して、その床を床にしていた手を追い出した。


 惣吉は押し蓋へ伸ばした手を止めた。



    *    *    *


【翌年の秋・隣町の店先】


「この一樽をいただきます。樽主のお名前を、帳面へ頂戴できますか」


 卸先の主人は古漬けの皿を空にしてから尋ねた。里江は前掛けで手を拭き、帳面の空いた欄を見る。


「里江でございます」


「では、里江様の古漬けとして。お値は、こちらでいかがでしょう」


 差し出された算盤を、里江はすぐには受けなかった。仕込んだ日数、塩、野菜、樽を借りた代、朝夕の手間。これまでは家の勘定に入らなかったものを、一つずつ珠へ載せる。


「恐れ入ります。あと、こちらだけ」


 里江は珠を二つ上げた。主人は数を見直し、うなずく。


「承知いたしました。次の一樽も、そのお値で」


 一樽へ里江の名札が掛かった。端でない古漬けが、初めて里江の手間ごと売れていく。浮かれるにはまだ早い。そう思ったのに、腹の中ではもう炊きたての飯が鉦と太鼓で祝っていた。今夜は二膳。いや、商い初日なのだから三膳でも品格は傷つくまい。


「里江」


 門の外から呼ばれ、女衆の手が止まった。惣吉は敷居をまたがず立っていた。卸先の主人を見ると背をわずかに縮め、声を落とす。


「話がある。家の床が、その……戻らないんだ」


「さようでございますか」


「母さんも年だ。親類は口ばかりで、手を出さない。家へ——いや、俺のところへ戻ってくれ」


 惣吉は一度で言い切れず、途中で息を継いだ。それから里江の両手を見た。糠を洗ったばかりの指、塩で少し荒れた爪の脇。次に、自分の空いた両手へ目を落とす。


「蔵のことだけでいい。朝夕、床を見てくれれば、あとは好きにしていいから」


「旦那様がお望みなのは、わたくしではなく、混ぜる手でございましょう」


「その手が必要なんだ。うちの床は、お前でないと」


 里江は店先の素樽へ押し蓋を載せた。伏せはしない。明朝もまた、この蓋を開けるからだ。


「誰が混ぜても同じ」


 惣吉の顔が動いた。


「旦那様のお言葉でございます。義母様のお手で、どうぞお続けくださいませ」


「里江、あれは——」


「卸のお客様がお待ちですので」


 卸先の主人は口を挟まず、里江の名が入った帳面を閉じた。女衆も惣吉を追い払わない。ただ店の内側へ飯台を運び込み、門の外にいる者の椀だけを並べなかった。


 惣吉は敷居を越えられぬまま頭を下げた。里江は受け取らない頼みへ返事を足さず、次の樽の値札を書いた。


 日が傾くころ、女衆が炊きたての飯を持ってきた。里江は売り物にした樽とは別の小樽から、食べ頃の古漬けを選ぶ。皿の端ではなく、真ん中のよく漬かった茄子を自分の椀へ載せた。


「今日は一膳目から大盛りかい」


「祝いの日に遠慮をいたしますと、飯に失礼でございましょう」


「二膳目も食べる顔だね」


「端でない古漬けというものは、炊きたての飯をもう一膳よこせと申しますのね」


 里江は飯杓子を取り、自分の椀へもう一膳よそった。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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