3食目 インスリン
練習後の身体は、まるで乾いたスポンジのように栄養を求めていた。
常盤台高校サッカー部の「赤」に染まったグラウンドで、蓮は確かに自分の居場所を示した。だが、ピッチを一歩出れば、そこにあるのは冷徹な自律の世界だ。
駅前のスーパー『サニー』。蓮は、照明が眩しい店内で、カゴを手に立ち尽くしていた。
(……何食おうか。あっ、そうだ――)
蓮の鋭い視線が、鶏むね肉のパックを射抜く。
ドイツでは「これを食っておけ」と提供されていた栄養学の結晶のような食事。今は自分で見出さなければならない。
蓮が深刻な顔で鶏肉に続いてブロッコリーを選別していた、その時。
「……」
隣から、呆れたような、あるいは絶句しているような、重たい視線を感じた。
蓮が怪訝に思って顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。
学校のブレザーを脱ぎ、ラフなパーカーを羽織っているが、その顔には見覚えがある。今日の昼休み、廊下で爛漫に笑っていた少女だ。
「ちょっと待って、あんた。……ドイツ帰りの、よね?」
彼女――橘 椿は、蓮の顔を二度見した後、信じられないものを見るような目で彼のカゴを指差した。
「そのカゴ、何?」
あまりに直球な問いに、蓮は眉をひそめる。
「何って、夕飯だけど?」
「はぁ!? 正気!? どこの誰がプロ目指して、こんなメニュー食うのよ」
椿の声は驚きを通り越して、もはや憤りに近かった。
蓮はムッとして言い返す。
「正気だ。一応……世界最高の選手、クリスティアーノを参考にしてるんだ」
世界を五度制したあの男が実践している、徹底的に脂質を排除し、茹でた鶏肉とブロッコリーを軸にしたストイックな食生活。
「成功者の模倣が最短ルート」というのは、蓮がこれまでのサッカー人生で培ってきた、ある種、直感的な生存戦略だった。
しかし、椿は大きなため息をつくと、詰め寄るように一歩踏み込んできた。彼女の瞳の奥で、理性の光が鋭く明滅している。
「あんたね、高校生が世界のトッププロの食生活を真似してどうすんのよ。
いい? 彼らはすでに完成された肉体なの。彼らの食事の目的は、あくまでその『維持』。
でも、あんたはまだ体が出来上がってない成長期の真っ只中でしょ。食事の目的が根本から違うのよ!」
蓮は言葉を詰まらせた。
彼女の言葉は、まるで鋭いカウンターのように、彼の論理の隙間を完璧に突いていた。
「……も、目的?」
「そう! 今のあんたに必要なのは、激しい練習で壊れた組織を修復して、さらに大きくするための栄養。それなのに、そんなスカスカなカゴで帰ろうとするなんて……ちょっと貸して!」
椿は蓮のカゴをひったくるように奪うと、迷いのない足取りで鮮魚コーナーや青果コーナーを練り歩き始めた。
「ほら、白身魚も入れなさい。今の時期ならこれ。あと、バナナね。それから...練習後なら、もっとGI値の高い炭水化物を摂ってインスリンを出さないと、せっかく摂ったタンパク質が筋肉に運ばれないわよ」
「インスリン……?」
蓮はされるがまま、次々とカゴに投げ込まれる食材をただ眺めるしかできなかった。
しかし、食材を選ぶ彼女は真剣そのものだった。「これで脂質とビタミンは足りるから、あとは…」と、今もつぶやきながら食材を吟味している。
「詳しいんだな。……助かる」
蓮は、彼女の邪魔をしないように静かに礼を言う。
「詳しいっていうか、管理栄養士になりたいからね。昔から勉強してたの。あ!」
椿は蓮の方に向き直す。
「今更だけど私、橘 椿。常磐台高校のスポーツ医学科の一年、よろしくね」
「よろしく。俺は天根 蓮。知ってるかもしれないけど去年までドイツにいた。同じ高校のスポーツ科だ」
「うん、知ってる。天根君、有名だもん」
お互いに自己紹介を終えてレジに並ぶ。
会計を終え、重くなったレジ袋を提げて店を出ると、外はすっかり日が落ちていた。
「よいしょっ。……で、天根君は方面どっち?」
椿が自分の荷物を持ち直しながら、何気なく尋ねてきた。蓮は駅の反対側にある新しいマンションの方向を指さす。
「あっちの、住宅街の方だよ」
「……あ、一緒じゃん。途中まで一緒に行こうよ」
椿は「重いからさっさと帰ろう」と促すように歩き出す。蓮も戸惑いながら、その歩調に合わせた。
二人は並んで夜道を歩き出す。
だが、この時の二人はまだ、この道の終点がまったく同じ場所であることを、微塵も疑っていなかった。
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