4食目 お隣さんは、管理栄養士(志望)
スーパー『サニー』を出ると、駅前の明るさは少しだけ薄れ、夜に近い空気がレジ袋の持ち手越しに指先へ染み込んできた。
右手に食材の詰まった袋を提げた蓮の隣で、椿も自分の荷物を持ち直す。店内では気にならなかった重さが、外に出た途端にはっきりと腕にかかり、二人の足取りは自然と急ぎすぎないものになった。
「……それにしても」
信号待ちで足を止めたところで、椿が横目で蓮のレジ袋を見た。
「あなた、サッカー以外だと意外と危なっかしいのね」
「危なっかしい?」
「鶏むね肉とブロッコリーだけで練習後の夕飯を済ませようとしていた人に、他にどんな言い方があるの?」
穏やかな声ではある。
ただ、言っている内容はまったく穏やかではなかった。
蓮は少しだけ視線を逸らし、レジ袋の中で揺れるバナナと小松菜を見る。
「効率を考えたつもりだった」
「効率って、減らせばいいわけじゃないから。必要なものを、必要なタイミングで入れることまで含めて効率よ。削った結果、回復が遅れたら意味がないでしょう?」
「……それは、そうだな」
言い返す材料はなかった。
ピッチの上なら、蓮は何を削って何を残すかを判断できる。触る回数を減らすのか、相手を引きつけるのか、味方が走る時間を作るのか。目的があれば、選択は自然と絞られる。
だが、食事になると違った。
身体に良いとされるものを並べたはずなのに、椿の言葉を聞いた後では、必要なものを落としたまま満足していたように見えてくる。
「まあ、最初から全部分かってたら、スポーツ栄養科なんていらないもの」
椿はそう言って、信号が変わるのを見た。
「これから覚えていけばいいんじゃない?」
「橘さんは、そういうのをずっと勉強してるのか」
「昔から少しずつね。管理栄養士になりたいって決めてからは、特に」
横断歩道を渡り、駅前の通りから住宅街へ入る。
人通りは少しずつ減り、店の明かりよりも街灯の方が目立つ道になった。歩道の脇には低い植え込みが続き、車が通るたびに二人の影がアスファルトの上で伸びたり縮んだりする。
椿は先ほどより少し歩幅を落としていた。
荷物が重いのかと思ったが、表情を見る限り、ただ急いでいるわけではないらしい。時々レジ袋の中を確認し、魚の切り身が傾かないように持ち手の位置を直している。
(几帳面だな)
蓮はそう思い、それからすぐに、昨日の廊下で見た彼女の指先を思い出した。
書類を折れないように揃えていた手。
ファイルを胸元で押さえていた仕草。
そして今、レジ袋の中の食材まで、崩れないように扱っている。
「どうかした?」
椿が横を見る。
「いや。袋の持ち方まで気にするんだなと思って」
「魚が傾いたら嫌でしょう」
「そういうものか」
「そういうものよ」
短い会話が落ちる。
そのまま数分歩いたところで、前方に新しいマンションが見えてきた。
白とグレーを基調にした、周囲の建物より少しだけ背の高い建物。エントランスには控えめな照明が灯り、植え込みの横にはまだ新しいプレートが取り付けられている。
蓮はその建物へ向かって足を進めた。
隣で、椿も同じ速度のまま歩いている。
最初は、偶然同じ方向なのだと思った。
駅の反対側にある住宅街は広い。同じ道をしばらく進むくらいなら、不自然ではない。
マンションの前を通り過ぎる人もいる。
その先にも、住宅は続いている。
だが、エントランスへ続くスロープの前で蓮が足を止めた時、椿も同じように足を止めた。
「「……」」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
車の走る音が、少し離れた道路から聞こえていた。
蓮はエントランスを見て、それから椿を見る。
椿もまた、エントランスを見て、蓮を見ていた。
「……橘さん」
「……何?」
「俺、ここなんだけど」
蓮がエントランスを指す。
椿は数秒ほど固まった後、ゆっくりと瞬きをした。
「……私も、ここなんだけど」
「やっぱりか......」
会話だけを聞けば落ち着いている。
けれど、椿の視線は明らかに落ち着いていなかった。蓮の顔、エントランス、手元のレジ袋、自分の持っている荷物。その順に何度も行き来している。
蓮も似たようなものだった。
同じ方向へ帰っていることには気づいていた。
同じ住宅街なのだろうとも思った。
だが、まったく同じマンションだとは考えていなかった。
「……い、一応確認だけど」
椿が少し声を落とす。
「ついてきたわけじゃないわよね?」
「まさか。それはこっちの台詞だ。
......ほら」
二人はほぼ同時にポケットへ手を入れた。
蓮が取り出したのは、黒い電子キー。
椿が取り出したのも、同じロゴの入った電子キーだった。
「……同じ」
「……みたいだな」
認めざるを得なかった。
エントランスの自動ドアが開き、二人はどちらからともなく中へ入る。明るいロビーに足を踏み入れると、外の空気より少しだけ暖かく、床にはまだ新築らしい匂いが残っていた。
椿は受付横の掲示板をちらりと見てから、エレベーターの前で立ち止まる。
蓮もその隣に立った。
表示灯は一階。
すぐに扉が開く。
二人で乗り込むには十分な広さの箱の中で、蓮は階数ボタンへ手を伸ばした。
「何階?」
「……四階」
椿の返答は、わずかに警戒が混じっていた。
蓮は何も言わず、四階のボタンを押す。
「……あなたも?」
「四階」
「......そう」
エレベーターの扉が閉まる。
わずかな浮遊感とともに箱が上がり始め、表示が一から二へ、二から三へと変わっていく。その数字の移動を、二人とも必要以上に真剣に見つめていた。
四階に着いた電子音が鳴り、扉が開く。
内廊下は静かだった。
足音が壁にやわらかく反響する。
蓮はレジ袋を持ち直し、自分の部屋へ向かって歩いた。後ろから椿の足音が続いている。廊下の途中で分かれる可能性も、まだ残っている。
そう思った。
だが、蓮が四〇一号室の前で立ち止まった時、椿はその隣、四〇二号室の前で足を止めた。
「「……......」」
今度の沈黙は、さっきより長かった。
蓮は自分の部屋番号を見て、隣の部屋番号を見る。
四〇一。
四〇二。
間違えようがない。
「......まさか、隣か」
蓮が呟くと、椿は持っていたレジ袋を落としそうになり、慌てて両手で持ち直した。
「……え、嘘でしょ?」
「俺も今知った」
「本当に?」
「本当に」
「知ってたかどうじゃなくて。
本当に、ここの四〇一?」
「鍵を出しただろ。それにほら、鍵開いたし」
「それはそうだけど……」
椿は電子キーと蓮の顔を交互に見て、深く息を吸い、それでもまだ納得しきれない様子で隣の扉を見た。
「まさか、隣だとは思わないでしょう」
「同じマンションまでは、まだ分かる」
「......そこから分からないわよ」
椿の返しは早かった。
その早さが、余計に彼女の動揺を隠しきれていなかった。
蓮も落ち着いているわけではなかった。ただ、驚いた時に声が大きくなるタイプではないだけだ。ドイツ帰りの一年生として注目されるより、スーパーで食事を指摘されるより、同じ高校の同級生が隣の部屋だったことの方が、よほど処理に時間がかかる。
「橘さんも、一人暮らしなのか?」
ようやく出てきた問いは、それだった。
「そうよ。実家、ここからだと通いづらいから。あなたは?」
「俺も。一人で生活を管理するために」
「……その結果が、鶏むね肉とブロッコリーだったわけね」
「それは、今日修正した」
「私が修正したの」
「......ごもっともで」
蓮が素直に頷くと、椿は一瞬だけ言葉に詰まり、それから少しだけ肩の力を抜いた。
廊下の静けさが戻ってくる。
偶然としては出来すぎている。
けれど、鍵も、部屋番号も、手元の荷物も、どれも現実だった。
蓮は自分の部屋のドアノブに手を掛け、それから隣の椿を見る。
椿はまだ少し落ち着かない様子で、四〇二号室のドアに電子キーを近づけるでもなく、手元で持ち替えていた。
「……橘さん」
「な、何?」
「今日の話、納得した。だから、またスーパーで会ったら教えてくれると助かる」
「……今、その話に戻るの?」
「今じゃない方がいいのか?」
「そういう意味じゃないけど」
椿は小さく息を吐き、レジ袋を持ち直した。
「別に、スーパーで会った時くらいならいいわよ。あんなかごを見せられたら、また口を出すと思うし」
「助かる」
「ただし、私はあなたの専属じゃないから。そこは勘違いしないで」
少しだけ、椿の声が戻った。
先ほどまでの動揺が完全に消えたわけではない。けれど、食事の話になると、彼女の足場はすぐに戻ってくるらしい。
椿は四〇二号室の鍵を開け、扉に手を掛けた。
「じゃあ、また。魚、今日中に使った方がいいわよ」
「分かった」
「あと、バナナは練習後でも朝でも使えるから」
椿はそう言い残し、まだ少し信じられないという顔のまま部屋の中へ入っていった。
扉が閉まる。
廊下に一人残された蓮は、隣のドアをしばらく見た。
日本の部活動。
一人暮らし。
自分で選ぶ食事。
そして、隣に住んでいたスポーツ栄養科の同級生。
ドイツにいた頃なら、どれも想像していなかったことばかりだ。
蓮は自分の部屋のドアを開ける。
レジ袋の中では、鶏むね肉とブロッコリーの隣に、椿が選んだ白身魚とバナナと小松菜と豆腐が収まっていた。
ピッチの上では、正解が見える。
ピッチの外では、まだ見えないことばかりだ。
けれど、その見えないものを教えてくれる相手が、案外すぐ近くにいるのかもしれない。
蓮は食材を一つずつ冷蔵庫へ移しながら、明日の朝のことを考えた。
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