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32食目 疑惑、そして――

 バイエルン州、緑豊かな森に囲まれた最新鋭のトレーニングセンター。そこは世界中から集められた数千億の価値を持つ資産たちが、最新のスポーツ科学によって磨き上げられる場所だ。

 蓮は、その最深部にあるメディカル棟の診察台に座っていた。


 上半身を脱ぎ、無数の電極とセンサーを装着した姿は、実験台の上の標本のようだった。周囲を囲むのは、白衣を纏ったドイツ人医師たちと、腕組みをしてモニターを凝視するハンス・ヴェーバーだ。


『……始めよう。レン、かつてのように限界まで追い込め。今の君がどんな存在なのか、我々に示してくれ』


 ハンスの合図で、トレッドミルが動き出した。

 蓮は、椿から渡された渡独直前スペシャルメニューの余韻を全身に感じていた。血流は最適化され、細胞の一つ一つが効率よくエネルギーへ変換する準備を整えている。速度が上がり、傾斜がついてもなお、蓮の走りは軽やかだった。モニターの波形が、その異常さを描き始める。


『……ストップ。トレッドミルを止めろ!』


 主治医のマイヤーが、悲鳴に近い声を上げた。機械が停止し、蓮が荒い息を吐きながら降りてくる。医師たちは蓮を労うこともなく、モニターの数値を指して激しい議論を始めた。その顔には賞賛ではなく、明らかな疑念と、ある種の恐怖が張り付いていた。


『ハンス、説明してくれ。これは何だ。心肺機能の向上率は半年前の百二十パーセント。乳酸の除去速度はトッププロの域だ。……あり得ない。自然なトレーニングによって到達できる領域じゃない』


 マイヤーが蓮に歩み寄り、その瞳孔をライトで照らした。


『レン、正直に答えろ。君は何を投与した? 筋肉の炎症反応がここまで抑制され、ヘモグロビン濃度が不自然なほど安定している。……EPOか? それとも、まだ検知できない最新の合成ステロイドか?』


 ドーピング。その言葉が部屋に落ちた瞬間、空気の温度が数度下がった。ハンスもまた、冷徹な視線を蓮に向ける。だが、蓮は自分の腕に貼られた電極を一つずつ剥がしながら、不敵に笑った。


『……ハンス。俺の血液を隅から隅まで調べればいい。そこに見つかるのは薬品じゃない。ただの、完璧な食事の痕跡だけだ』


『食事だと? バカを言うな。そんな魔法があるはずがない。我々も最高の栄養学を駆使しているが、これほどの劇的な変化を短期間で起こすことは不可能だ』


 マイヤーの反論を、隣でデータを眺めていたベテランコーチのディーターが、肩をすくめて遮った。


『いやマイヤー。この数値の完璧さは、むしろ一人の人間による徹底的な献身の証に見えるぜ。……なあレン、君には専属のパートナーでもいるのか? 君のために二十四時間体制でキッチンに立つ聖女でも見つけたのか?』


 ディーターの冗談めかした問いに、蓮は表情を変えずに首を振った。


『いや、隣人だ。俺のあまりに杜撰な食事を見かねて、あいつが管理を申し出たんだよ。あいつは管理栄養士を目指していて、キャリア的にプロ入りがほぼ確実な俺の身体を最高のサンプルとして、実践的な練習ができるという利点がある。……俺たちは互いに、自分の目的のために相手を利用しているだけだ』


 その淡々とした説明を聞き、ハンスとディーターは一瞬沈黙した後、今度は先ほどよりも大きな声を上げて笑い出した。


『ははは! 互いの利点、だと? レン、それはもうビジネスの理屈じゃない。隣人の練習でドーピングを疑われる数値を叩き出すなんて、ドイツじゃ誰も信じないぞ』


 ディーターがニヤニヤしながら、蓮の肩を強く叩いた。


『いいか、レン。君の言う利点のために、他人の細胞の隅々まで把握して、毎日計算し尽くした皿を出し続ける。それはドイツじゃ、家族か、あるいは生涯を共にするパートナーの領分だ。他人のためにそこまで人生の時間を捧げることを、世間では別の言葉で呼ぶんだよ。……お前、その子をただの研究者で終わらせるつもりか? 彼女こそが、お前の最大の武器だぞ』


 蓮は、何も言い返せなかった。

 医師に薬品と疑われ、プロにパートナーの領分だと笑い飛ばされた椿の仕事。自分にとっては日常だったあの一皿の裏側に、彼女がどれほど重いものを預けているのか。その一端に触れた気がして、蓮は独り、強く唇を噛んだ。


 数時間後。血液検査の結果を待って、再び戻ってきたマイヤーの顔は蒼白だった。彼の手にあるレポートは、蓮の潔白を、そして同時に常識の敗北を証明していた。


『ハンス……。信じ難いが、禁止薬物の反応は一切ない。それどころか、栄養成分のバランスが、教科書に載る理想値と完全に一致している。今回のチェックで、レンのプロ契約は確実なものになった。……だが、これほどの奇跡を橘という少女が一人で?』


 ハンスは椅子に深く腰掛け、真剣な眼差しで蓮を見据えた。


『橘を、クラブの正式なスタッフとして招聘したい。彼女の理論を我がクラブ全体に反映させることができれば、我々は今後十年の覇権を握れる。彼女には、君以上の年俸を提示してもいい。彼女をこの地へ呼び寄せ、我々のラボの長に据えるべきだ』


 ハンスの提案は、椿にとって至高の報酬であり、彼女の異才が世界へ羽ばたくための最短距離だった。それを否定することは、彼女の道を狭めることに他ならない。

 だが、蓮の胸の奥で、静かだが抗いがたい感情が疼いた。


『……ハンス。あいつの価値を認めたのは賢明だが、一つ勘違いをしている。たしかに彼女の知識は、汎用的ではないらしいが、誰にでも当てはまる栄養学だ。だがな、俺という個体がピッチで放つ熱量、俺の筋肉が悲鳴を上げるタイミング……そのすべてを彼女が所有し、俺と対話して初めて成立しているんだ。彼女をラボに閉じ込めて、見ず知らずの他人のための数式を解かせても、この値は再現できないぞ』


『それは、彼女を独占したいという君のエゴからくる発言ではないか?』


 ハンスの鋭い問いに、蓮はわずかに目を伏せ、それから小さく口角を上げた。


『……そうかもしれない。だが、あいつを一番高く評価できるのは、世界中で俺だけだ。あいつが描く正解を、ピッチの上で一秒の狂いもなく体現できるのは、俺しかいない。そしてまた、俺という素材のパフォーマンスを最大限引き上げられるのも彼女だけだ。いま時点で、彼女の才能を最も輝かせる場所が俺の隣である以上、他の誰かに譲る気はない。……あいつを呼びたいなら、俺の専属としての契約を前提にしてくれ。それが、俺達にとって最も合理的で、最も高いパフォーマンスを引き出せる条件になるはずだ』


 蓮の言葉には、椿の未来を縛るための鎖ではなく、彼女を最高の舞台で躍動させるための確信が込められていた。ハンスは、かつてないほど強固な蓮の意志に気圧された。


『……いいだろう。君の言う合理性が、このデータ以上の成果を生むというなら、その歪な契約をオーナーに認めさせてみせよう。メディカルチェックをパスした以上、君たちの価値はもはや分かちがたく結びついているようだ。……だが、彼女の契約は彼女のものだ。君の言葉を前提に、彼女にもコンタクトを取らせてもらうよ』


『それは最もだな。俺の意見は必ずしも彼女の意見とイコールではないからな』


『それを聞いて安心したよ。さぁ、次はオーナーとの面談だ。行こうか、レン』


 二人は待機室を後にし、オーナールームへと向かった。ハンスは蓮の言葉を聞いて、満足げな、しかしどこか圧倒されたような表情を浮かべていた。


 待機室の外に出ると、ドイツの透き通るような青空が広がっていた。

 蓮はスマートフォンを取り出し、椿にメッセージを送ろうとして、指を止めた。

 あいつはきっと、このドイツの最新設備を見れば目を輝かせるだろう。そして、自分の計算が世界を驚かせたことに、さも当然だという顔をするはずだ。

 自分が先程、ハンスに対してあんな私情を混ぜた交渉をしたと知れば、彼女は呆れるかもしれない。


 だが、今はまだ、世界最高のラボよりも——

 その方が、正しい気がしていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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