32食目 疑惑、そして――
ドイツ、バイエルン州。
ミュンヘン郊外にあるクラブのトレーニングセンターは、森に囲まれた静かな場所にあった。
広い敷地に整えられた天然芝のピッチ。
ガラス張りのメディカル棟。
選手たちの身体を、数値と映像と科学で管理するための設備。
蓮は、その一室にいた。
上半身を脱ぎ、胸と背中に電極を貼られている。腕には心拍と血中酸素を測るセンサー。足元には、速度と傾斜を細かく変えられるトレッドミル。
周囲には、医師とフィジカルスタッフが並んでいた。
その奥に、ハンスが立っている。
『久しぶりだな、レン』
『昨日どころかここに連れきたのはあんただろ』
『この部屋で見るのは久しぶりだ、という意味だ』
ハンスは、モニターに目を向けた。
『今日は確認だ。君が日本で何を得たのか。それが我々の基準で見ても、本物なのか』
トレッドミルが動き始める。
最初は軽い速度だった。
呼吸を乱すほどではない。
蓮は、一定のリズムで足を運ぶ。
昨夜、椿から渡された指示書は、鞄の中に入っている。
機内での補食。
水分の取り方。
到着後に避けるもの。
検査前に余計なサプリメントを入れないこと。
細かすぎるほど細かい文字が並んだ紙を、ハンスは一度見て、呆れたように笑った。
だが、蓮はその通りにした。
速度が上がる。
傾斜がつく。
呼吸が深くなる。
モニターに表示される数値を見て、医師の一人が眉を動かした。
『心拍の上がり方が緩い』
『前回データと比較してくれ』
『もう出しています。回復も早いです』
さらに負荷が上がる。
蓮の脚は重くなっていく。
楽ではない。
汗も出るし、息も荒くなる。
それでも、崩れ方が小さかった。
フォームが大きく乱れない。
肩が上がりすぎない。
足の接地が最後まで雑にならない。
『止めよう』
主任医師のマイヤーが合図を出した。
トレッドミルが速度を落とし、やがて止まる。
蓮は降りて、用意された椅子に腰を下ろした。スタッフが血液を採り、別のスタッフが呼吸と心拍の戻りを確認する。
マイヤーは、モニターの前から動かなかった。
『ハンス、見てくれ』
『どうした?』
『向上している。心肺機能、負荷後の回復、筋疲労の出方。どれも前回より明らかに良い』
『それは喜ぶべきことだろう』
『喜ぶ前に、確認するべきことがある』
マイヤーは蓮を見た。
『レン。日本で何を変えた? トレーニング内容か。サプリメントか。医療的な介入を受けたか』
『医療的な介入は受けていない』
『なら、サプリメントは』
『基本的には使っていない。少なくとも、こちらに申告していないものはない』
マイヤーはスタッフへ指示を出した。
『血液検査は通常項目に加えて、禁止物質のスクリーニングも回す。念のためだ』
部屋の空気が少しだけ固くなった。
ドーピング。
その言葉は誰も口にしなかった。
だが、そこにある疑念は、蓮にも分かった。
ハンスも止めなかった。
プロになるための場所では、疑われないことも能力の一つだ。異常な数値が出れば、確認される。それは当然だった。
蓮は、腕に残ったテープを剥がしながら小さく息を吐いた。
『好きに調べればいい。何も出ない』
『自信があるんだな』
マイヤーが言う。
『ある。変えたのは、食事だからな』
マイヤーの眉がわずかに上がった。
『食事......?』
『そうだ』
『この変化を、食事だけで説明するつもりか』
『食事と、記録と、調整だ』
蓮は短く答えた。
すると、部屋の端で腕を組んでいたフィジカルコーチのディーターが、面白そうに笑った。
『記録と調整。誰がやった? まさか君が毎日、自分の皿を計量して、翌朝の顔色まで記録していたわけじゃないだろう』
『俺じゃない』
『だろうな』
ディーターは、蓮の肩を軽く叩いた。
『彼女か?』
『違う。管理栄養士を目指している同級生だ。俺の食事が悪すぎて、向こうから管理を申し出た』
『それで?』
『向こうにも利点がある。プロ入りを目指す選手の身体を、継続的に管理できる。実践のサンプルとして使えるからな』
蓮はいつもの調子で言った。
部屋が、少し静かになった。
ディーターが数秒だけ蓮を見て、それから大きく笑い出した。
『レン。君は相変わらず、そういうところが下手だな』
『何がだ』
『利点? サンプル? そんな言葉で片づけるな。君の数値は、食事表を一枚渡して出せるものじゃない。毎日見て、毎日直して、君がどう動くかを分かっていなければ届かない』
ディーターは、モニターを指差した。
『これは栄養学だけじゃない。君という選手への理解だ』
蓮は黙った。
椿の顔が、少しだけ浮かぶ。
試合後のボトル。
朝の確認。
食べる順番。
何も言わなくても置かれる追加分。
ほんの少しの変化を、当然のように拾う目。
蓮にとっては、日常になっていたもの。
それが、ドイツの検査室では異常として扱われている。
数時間後、血液検査の速報が戻った。
マイヤーはレポートを手に、もう一度モニターの前へ戻ってきた。
『禁止物質の反応はない。追加項目も今のところ問題なし』
ハンスがわずかに息を吐く。
『当然だ』
『ただし、説明は必要だ』
マイヤーは蓮のデータを開いた。
『数値はきれいだ。きれいすぎると言ってもいい。栄養状態、回復、負荷後の反応。短期間でここまで整うなら、その管理者のやり方を見たい』
ハンスが、初めて蓮ではなく、蓮の背後にある存在を見るような顔をした。
『その同級生の名前は?』
『橘椿』
『彼女をこちらへ呼べるか』
蓮の目が、わずかに細くなった。
『何のために』
『話を聞くためだ。できれば、クラブのスタッフとして招聘する前提で。君一人にこれだけの変化を起こせるなら、彼女の考え方はクラブ全体にとって価値がある』
『無理だ』
蓮は即答した。
ハンスが眉を上げる。
『本人に聞く前から決めるのか』
『そういう意味じゃない』
蓮は椅子から立ち上がった。
『橘さんの知識は、たぶん汎用的に使える。けれど、この数値は汎用じゃない。俺の食事、練習後の状態、試合中の変化、翌朝の顔色。それを毎日見て、俺という個に合わせて積み上げた結果だ』
ディーターが笑みを消し、蓮を見る。
『つまり、彼女は君の専属だと?』
『少なくとも、今はそうだ』
『彼女の意思は?』
『それは彼女が決める』
蓮は、すぐに答えた。
『俺が決めることじゃない。ただ、クラブのラボに入れて、見ず知らずの選手全員に同じことをさせようとしても、この値は再現できない』
ハンスは腕を組んだ。
『君は、彼女を独占したいだけではないのか』
ハンスの問いに、蓮はすぐには答えなかった。
独占。
その言葉は、少し違う気がした。
椿の進路を、自分が決めるつもりはない。
彼女が世界の研究機関へ行くと言うなら、止める権利などない。
彼女の理論がより広い場所で認められるなら、それは本来、喜ぶべきことのはずだった。
けれど、今この数値を作ったのは、一般化された栄養理論ではない。
天根蓮という一人の選手を、毎日見続けた記録。
試合後の呼吸。
翌朝の顔色。
食べる速度。
動き直しの一歩目。
そして、ピッチで何をしようとしているのか。
それらを、椿が一つずつ拾ってきた結果だった。
『違う』
蓮は静かに言った。
『橘さんを俺の所有物みたいに扱うつもりはない。彼女の道は、彼女が決めることだ』
ハンスは黙って蓮を見ていた。
『ただ、この数値をクラブ全体にそのまま広げようとしても、同じ結果にはならない。これは、彼女の理論が俺という個体に合わせて磨かれた結果だ』
『つまり、彼女は君の専属であるべきだと?』
『少なくとも、今の彼女の才能を一番強く証明できる場所は、俺の隣だと思っている』
蓮は一度、言葉を切った。
『俺は、橘さんの計算をピッチで証明できる。橘さんは、俺の身体を使って自分の理論を更新できる。今の俺たちは、互いの価値を一番高く引き出せる位置にいる』
それは、感情ではない。
少なくとも、蓮はそう整理した。
『彼女を呼ぶなら、クラブの管理栄養士としてではなく、俺の専属として話をしてくれ。そのうえで、本人が望むなら、彼女の研究や理論をクラブが支援すればいい』
『ずいぶん都合のいい条件だな』
『合理的な条件だ』
ディーターが吹き出した。
『出たぞ、レンの合理性だ』
ハンスは笑わなかった。
しばらく蓮を見てから、ゆっくりと頷く。
『分かった。彼女の契約は彼女自身のものだ。こちらから接触する場合も、君の専属という前提を含めて話す。ただし、最終的に決めるのは彼女だ』
『それでいい』
『では、次はオーナーとの面談だ。君の席を確保するための話をしよう』
ハンスは立ち上がった。
蓮も続く。
メディカル棟の廊下へ出ると、窓の外にはよく整えられた練習場が見えた。遠くでは、トップチームの選手たちがボールを回している。
世界に近い場所。
ずっと目指してきた場所。
蓮はスマートフォンを取り出し、椿へメッセージを送ろうとして、指を止めた。
検査は通った。
数値は問題ない。
橘さんの管理は、ドイツでも通用した。
そう書こうとして、少しだけ考える。
たぶん椿は、当然だと言う。
そしてすぐに、帰国後の食事と移動疲労の話を始める。
蓮は画面を閉じた。
今はまだ、余計なことを書くより、目の前の面談を終わらせる方が先だった。
椿が整えた身体で、ここまで来た。
なら、その価値を、自分の足で証明する。
蓮は顔を上げ、ハンスの後を追った。
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