31食目 古巣からの宣告
インターハイ準々決勝。ベスト4という頂を目前にした戦いは、もはや技術や戦術の粋を集めたものだけでは語れなかった。連戦による疲労、アスファルトの照り返しのような酷暑、そして全国常連校としての「勝って当然」という重圧。ピッチに立つ二十二人のうち、まともに思考を保てている者は、もはや一握りだった。
常盤台高校の相手は、圧倒的な資金力とスカウティングで全国から精鋭を集めた私立のメガ軍団。彼らはフルに使い、常にフレッシュな戦力を投入して常盤台を削りに来る。だが、その組織的な波状攻撃を、天根蓮という一個の知性が無効化していた。
敵が激しいプレスを仕掛けてきても、彼はその圧力の隙間を最小限のステップで通り抜ける。ボールを保持すれば、敵陣の配置が歪むのを静かに待ち、コンマ数秒の遅れを突いて致命的なパスを供給する。
後半三十五分、均衡を破ったのはやはり蓮の左足だった。バイタルエリアで前を向いた瞬間、相手ディフェンスが三人がかりで囲い込む。だが、蓮はその包囲網の完成よりも一瞬早く、誰もが予想しなかった角度へ低弾道のスルーパスを通した。
走り込んだ桐生が、これを冷静に沈める。
一対〇。
常盤台は、全国常連としての意地と、蓮という異彩の閃きによって、盤石の試合運びで準決勝進出を決めた。
終了のホイッスルが鳴った瞬間、スタジアムは歓喜に包まれた。だが、その喧騒から離れた日陰の通路で、蓮を待っていたのは祝福の言葉ではなかった。
『……見事なゲームメイクだった。この連戦で脳の冴えが全く落ちていない。驚異的と言っていい。かつてミュンヘンで見た時よりも、今の君の肉体はより完璧に近づいているようだ』
鼓膜を叩く、硬質なドイツ語。蓮が立ち止まり、視線を上げた先にいたのは、仕立ての良い紺色のシャツを纏った男、ハンス・ヴェーバーだった。蓮の傍らには、異様な気配を察して駆け寄ってきた桐生、そして監督。背後には、データの入ったタブレットを手にしたままの椿が控えていた。
『ハンス……。なぜ、ここに。わざわざ日本まで、俺のプレーを査定しに来たのか?』
蓮もまた、ドイツ語で応じる。周囲の部員たちは、理解できない言語の応酬に、ただ困惑と緊張の眼差しを向けることしかできない。ハンスは眼鏡のブリッジを直し、氷のような瞳で蓮を見据えた。
『査定などとうに終わっている。私は君を迎えに来たのだよ、レン。単刀直入に言おう。今すぐ私と共にドイツへ飛んでもらう。卒業後に加入する条件での正式なプロ契約、その内定に必要なすべての手続き――メディカルチェック、クラブオーナーへの直接面談を、この週末で行う』
あまりに唐突な宣告に、蓮の眉が跳ねた。
『明日……? まだ、大会の途中だ。明後日には準決勝、その翌々日には決勝がある。俺は、このチームで最後まで戦うと決めているんだ』
『これは君の感情論で済む話ではない。既に日本に留まらず、各国のクラブが君の動向を嗅ぎ回っている。これ以上、君の進路を不透明なまま放置すれば、我々は優先交渉権を放棄せざるを得ない。規約上、十八歳までトップ帯同はできないが、君の席をリザーブしておくには、今このタイミングでの合意とメディカルデータの更新が必須だ。明日の便に乗らなければ、契約の話は白紙に戻る。選びなさい、レン。故郷での思い出か、プロとしてのキャリアか』
蓮は唇を噛み、隣に立つ監督を見た。日本語ではないのハンスの言葉が、その場の空気を通じて伝わったのか、監督は険しい表情で腕を組んでいた。常盤台の司令塔として、頂点を目前に離脱するなど、組織としては万死に値する。状況を翻訳しようとした蓮を、監督の太い声が遮った。
「天根。……行け。断片的だが、契約の話だろう」
監督の言葉に、蓮は目を見開いた。
「そのとおりですが……
しかし、監督。次は準決勝です。俺がいなければ、チームの戦術は瓦解します。勝てる保証が……」
「勘違いするな。お前一人がいなくなった程度で崩れるような鍛え方はしていない。常盤台は、天根蓮一人にぶら下がっているだけの弱小校ではないんだ」
監督はハンスを一瞥し、それから力強く蓮の肩を叩いた。その手のひらの熱さが、言葉以上に蓮の迷いを振り払っていく。
「お前の目標は、この大会のメダルを獲ることだけじゃないはずだ。お前だけじゃない、ここにいる誰もがそうだ。世界で戦うチケットを目の前にして、足踏みするような腰抜けなど、チームメイトのその道は阻む者などここにはおらん。ドイツのプロ共に、日本の高校生がどれだけ仕上げてきたか見せつけてこい。準決勝、決勝は残った連中で意地でも勝ってやる」
蓮は縋るように椿を見た。視線を向けられた椿は、表情を変えずにタブレットの数値を監督に見せた。その画面には、合宿から今日に至るまでの蓮の肉体の変遷が、冷徹なグラフとなって刻まれていた。
「ええ。天根くんの現在のバイタルデータは、渡独による移動負荷を考慮しても、現地でトップパフォーマンスを出せる数値です。むしろ、今の彼の肉体をプロの医師たちに突きつけるのは、私の管理能力の証明として最高の機会です。……天根くん。私の計算に、泥を塗らないでちょうだいね」
監督の後押しと、椿の自信。そして、後ろで控える桐生たちの「行ってこい」という静かだが強い視線。それが、蓮の迷いを完全に断ち切った。蓮は再びハンスに向き合い、決然と言い放った。
『わかった、ハンス。その条件を飲もう。ただし、手続きが終わり次第、俺はすぐに日本に戻る。まだここでやり残したことがあるんだ』
ハンスはわずかに口角を上げた。
『よし。出立は明日だ。宿舎でパスポートを持ってこい。空港への車は私が手配している』
ハンスは満足げな表情を浮かべ、力強い足取りで去っていった。
その後、荷物を整理してスタジアムの外に出ると、不気味なほど鮮やかな夕焼けが広がっていた。準決勝という約束、そしてプロ内定という現実。その境界線上で、蓮はかつてないほどの責任感を感じていた。
宿舎への帰路。バスの車内は、死のような静寂ではなく、どこか戦士を送り出すような、静かな熱が漂っていた。椿は隣の席で、ドイツまでのフライト時間を計算し、機内食をどう回避すべきか、あるいは現地で何を摂取すべきかの指示書を猛烈な勢いで作成していた。
「あちらでの食事には気をつけなさい。特に硬水の扱いには注意して。あちらのスタッフが出すサプリメントも、成分表を確認するまでは口にしないこと。ドイツのメディカルデータに異常が出たら、私の名誉に関わるわ」
椿の言葉に、蓮はわずかに微笑んだ。それは、彼女なりの最大限の「応援」だった。
「わかってる。橘さんの管理が世界に通用することを、俺の体で証明してくるよ」
数日間の離脱。それは、この関係に訪れた、最初の大きな試練だった。
バスが宿舎の前に停まると、蓮は迷いなく自分の部屋へと向かった。
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