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13食目 敗色の中

 県立スタジアムを包囲する地鳴りのような歓声。

 ピッチ上に漂う空気の密度は、昨日までの練習試合とは比較にならない。肌を刺すような春の風が、かえって選手の昂ぶりを冷徹に浮き彫りにさせていた。

 昨年のインターハイ予選王者と、選手権予選王者。実質的な「県内ナンバーワン」の称号を懸けた、シーズン最初の頂上決戦。ドイツで言うところの『スーパーカップ』にも似たこの一戦は、常盤台高校サッカー部にとって、今シーズンの覇権を占うための試金石だった。


 だが、巨大な電光掲示板が示す現実は、あまりにも無慈悲だった。

 『常盤台 0 - 2 誠和』

 前半四十分。相手の組織的なハイプレスと、個々の圧倒的な推進力の前に、常盤台の中盤は完全に窒息していた。パスコースを完全に塞がれ、苦し紛れのロングボールは相手センターバックの餌食になる。セカンドボールを拾われ、波のように押し寄せる二次攻撃に、防戦一方の展開が続いていた。


 蓮は、ベンチの硬い椅子に深く腰を下ろし、ただ静かに戦況を「解析」していた。

 周囲の控え部員たちが焦燥に駆られて声を荒らげる中、彼だけはまるで硝子の向こう側の出来事を観察しているかのような、凪いだ瞳をしていた。


(……中盤の底が、呼吸できていない。相手のボランチ二人が、あそこで完全に蓋をしている)


 蓮の脳内では、ピッチ上の二十二人の動きが、熱量を持ったドットとして再構築されていた。相手の重心がどこにあるか、どのタイミングでプレスが緩むか。ドミノ倒しのように相手を崩すための正解の一手は、すでに導き出されている。


 ふと、蓮はメインスタンドに視線をやった。

 周囲の観客が立ち上がって一喜一憂し、チャンスに沸き、ピンチに悲鳴を上げる中、一人だけ、膝の上に分厚いバインダーを開き、淡々とペンを動かしている少女ー橘がいる。

 彼女は、この絶望的な状況下にあっても、スコアボードにすら興味がないようだった。ただ、ベンチに座っている蓮の呼吸の深さ、視線の動き、そして筋肉の弛緩状態を、双眼鏡で確認するように見守っている。


(……橘、見ていろ。今日のコンディションも完璧だ)


 今朝も、彼女から提供された食事。それは、試合に出るかどうかも分からない控えの選手に与えるには、あまりにも贅沢で、緻密な計算に基づいた食事だった。


 前半終了を告げる、長いホイッスルがスタジアムに響き渡った。

 肩を落とし、顔を真っ赤にして引き上げてくるAチームのレギュラー陣。エースの桐生も、ユニフォームを泥と汗で汚し、荒い息を吐きながらベンチへと戻ってきた。その瞳には、かつてないほどの苛立ちと、自分たちのサッカーが通用しないことへの困惑が滲んでいた。


 静まり返るロッカールーム。

 選手たちの荒い呼吸音と、スパイクが床を叩く乾いた音だけが響く。

 重苦しい沈黙を破ったのは、腕を組み、険しい表情でホワイトボードを見つめていた監督の声だった。


「……いいか。このままでは、我々は何も手にできずに終わる。相手のプレス強度は想定以上だ。だが、攻略の糸口がないわけではない」


 監督の鋭い視線が、ロッカールームの端、凛とした姿勢で座っていた蓮へと真っ直ぐに向けられた。


「天根。……後半から行くぞ。好きにやれ」


 ロッカールームの空気が、一瞬で凍りついた。

 一年生。それも、つい数日前に一軍に合流したばかりの少年を、この絶体絶命の場面で投入するなんて正気の沙汰じゃない。だがそれも普通の一年生であれば、の話だ。渦中の人物はドイツから帰ってきた傑物。切り札としては申し分ない実力者だった。


 エースの桐生が、汗を拭いながら蓮の前に立った。


 桐生の瞳は、野性を失っていなかった。彼は、数日前の練習で、蓮が放ったあの「吸い付くようなパス」の感触を、身体の細胞レベルで覚えていた。

 彼は蓮の肩を、折れんばかりの力で強く掴んだ。


「蓮。……お前なら、この展開をどうにかできるか? 」


 それは、エースとしての命令ではなく、一人のストライカーとしての、魂を削り出すような「懇願」だった。


 蓮はゆっくりと立ち上がり、自分の掌を一度だけ握りしめた。

 椿によって完璧に調整された肉体。溢れんばかりのエネルギーが、血管の隅々まで満ちている。


「……できます」


 蓮は桐生の目を真っ直ぐに見据え、言葉を継いだ。


「……でも、そのためには先輩方が俺を信じる必要がある」


 ロッカールームが再び静まり返る。一学年上の、しかも全国区のエースに対して放たれた、対等の要求。


「……俺達は、何をすればいい?」


 桐生が低く、熱い声で問い返す。もはやそこには、上下関係など存在しなかった。あるのは、勝利を渇望する飢えた獣たちの共鳴だけだ。


「俺を信じて……自分がここに行けば点が取れるってポイントめがけて、迷わず走り込んでください」


 蓮の視線が、桐生、そして周囲の上級生たちを射抜く。


「ボールが来るかどうか、確認する必要はありません。俺が、そこへ届けます。……先輩方は、自分が最も輝ける場所へ走ることだけを考えてください」


 その言葉には、一切の傲慢さはなかった。ただ、冷徹なまでの事実として、自分の技術を提示していた。

 桐生は一瞬面食らったような顔をしたが、やがて腹の底から絞り出すような笑みを浮かべた。


「オーケー、天才。……お前のパスが来なかったら、承知しねえからな」


「ええ。……行きましょう」


 蓮は、一度だけ自分の胸元――ユニフォームの下にある、椿の管理が行き届いた自分の心臓の鼓動を確かめるように触れた。


 天根蓮という「圧倒的な天才」が、ついに公にそのベールを脱ぐ。

 高校サッカー史に刻まれる歴史、その第一歩を、天才の左足が、今まさに踏み出そうとしていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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